第二場
豊富な品揃え/オアシスにおけるサバイバル/祭り/アレックス、頭を使う/六十歳の少女/踊るウミザリガニ/神への切実な願い/アレックス、これまでのいきさつを語る/優先順位/役に立つ隠語講座/ブッタタキの乱入・その1
テイパーズ・デンのカジキ通りの界隈でアンゲラ・ディクスの名前を知らぬ者はいない。
しかし、その正体を知る者もいない。
カジキ通りの住人たちがアンゲラについて知っていることは四つだけ。
彼女が〈メルツハーゼ〉という古着屋を営んでいること。
チャオ人とドロッセルラント人との混血であること(アンゲラ自身がそう言っているだけであり、本当かどうかはわからない)。
品のある顔立ちをした美女であること(これは本当だ)。
そして、変わり者であること(これも本当だ)。
黄玉の三月五日――劇場神殿でスルーフィールドたちの死体が発見された日の翌々日、この美しき変人の店に奇妙な少年が訪れた。類は友を呼ぶらしい。
「テイパーズ・デンに来られたのは初めてですか?」
アンゲラの質問に対して、少年は不思議な答えを返した。
「前にも来たことがあるかもしれない。でも、今の僕にとっては初めてだよ」
少年は姿見の前に立ち、慣れない手付きでターバンを頭に巻いていた。彼が選んだ商品はターバンだけではない。ゆったりとした作りのチャオ服も購入し、既に着込んでいる。
「失礼ですが、お客様はどちらから……」
「北の沼地から来たんだ」
「劇場神殿がある沼地ですか?」
「うん。そこから歩いてきたんだけど、土地鑑がないもんだから、道に迷っちゃってね。廃鉱に迷い込んだり、狼の群れに囲まれたり、変な木の実を食べてお腹を下したりした挙句、今朝になって、ようやく街道に出ることができたんだ。で、街道を辿ってみて判ったんだけど、劇場からテイパーズ・デンまでは半日もかからないんだね。その程度の距離を移動するのに二日もかけるなんて、我ながら情けないというか、なんというか……よし、できあがり!」
少年はターバンを巻き終えると、姿見に映る自分の顔を満足そうに見つめた。
「なかなか似合ってるなー。髭でも生やせば、赤砂族に見えるかもしれないぞ」
「なんでしたら、付け髭も用意いたしましょうか?」
「そんな物まで売ってるんだ」
「はい。場所が場所ですから、変装道具をお求めになる方も少なくないのです。付け髭の他にも、鬘や眼鏡や化粧品なども扱っております」
「その帽子も売り物?」
少年の目がアンゲラの頭に向けられる。室内であるにもかかわらず、彼女は帽子をかぶっていた。それもただの帽子ではない。ヴァリ島では滅多に見かけないトップハットだ。
帽子以外のいでたちも尋常なものではなかった。男物の礼服を着て、赤い片眼鏡を付け、戦鎚を腰に吊るしている。その特異な衣装が浮いていれば笑って済ますこともできるのだが、完璧に着こなしているために却って不気味に見える。
「これは看板のようなものです。一応、値段はついておりますが」
アンゲラは頭を傾け、帽子の値札を見せた。『10/6』と記されている。
「十フィズ六ブロウ?」
「いいえ。十カラン六フィズです」
「わーおぅ! この服やターバンはそんなにバカ高くないよね? これで足りるかな?」
少年が数枚の銀貨を差し出すと、アンゲラは大仰な動作で恭しく受け取った。
「足りるどころか、多すぎるくらいです」
「お釣りは情報料ということにしといてよ。お姉さんに教えてほしいことがあるんだ」
「なんでしょう?」
「こういう場所で店を開いているからには、ヤバい連中のことも自然に耳に入ってくるだろうけど……その中に、アレックス・ザ・ミディアムと親しかった人は含まれているかな。たとえば〈掘り返す屋根窓団〉の面子とかさ」
「〈吼え猛るヤマネ団〉ですね」
「そうそう。そのヤマネ団の人たちはどこにいるの?」
「夢見の冥府です」
アンゲラは指先を天井に向けた。夢見の冥府を表す際、多くの人々は地面を指さすが、彼女のように頭上を指さす者もいる。この問題については〈教団〉の内部でも意見が分かれており、公的な文書や発言において「夢見の冥府に堕ちる/昇る」という表現を用いることはタブーとされていた(だが、それらに代わる政治的に正しい表現はまだ見つかっていない)。
「ドランカード・ウィルソン、包丁使いのオファリアード、チャーリー・ザ・パグ……おもだった面々はアレックスと一緒に捕まり、処刑されました。鈎爪ルダボーだけは捕まっていませんが、この町にはいません。風の噂によると、どこかに落ち延びて、小さな強盗団の頭になったそうです」
「ふーん。じゃあ、ヤマネ団以外にアレックスのことをよく知っている人は?」
「妹ですね」
「アレックスには妹がいたの?」
「はい。ミルという名のお嬢さんです。身の軽さを活かして盗賊のようなことをしていましたが、少し前に足を洗い、この町で〈ボロゴーヴ亭〉という食堂を始めました」
「その食堂はどこにあるの?」
アンゲラから〈ボロゴーヴ亭〉の場所を教わると、少年は礼を言って、店から出ようとしたが――
「あっ! そうだ」
――立ち止まり、問いかけてきた。
「この店は品揃えが豊富みたいだけど、生き物も商っているのかな?」
「生き物……ですか?」
「うん。たとえば、蜘蛛とかさ」
一瞬、アンゲラの顔から営業用の笑みが消えた。
その一瞬を少年は見逃さなかったようだ。そして、相手が見逃さなかったことをアンゲラは感知した。こちらが感知したということを少年が悟ったかどうか――そこまでは彼女にも判らなかった。
「いいえ」
何事もなかったかのような顔をして、アンゲラはかぶりを振った。
「蜘蛛は扱っておりません。蜘蛛をあしらった衣装や装飾品はございますが……」
「いや、いいんだ。ちょっと訊いてみただけだから、気にしないで」
少年は扉に向かって歩き始めた。
その背中にアンゲラが問いかける。
「お客様が着ていらした服はどうなさいますか?」
「もういらないから、捨てといてよ」
少年の姿が消えると、アンゲラは姿見の足元に視線を落とした。
泥と血がこびりついた粗末な肌着とズボンが脱ぎ捨てられている。
肌着の裾には「617」と刻まれた小さな木片が縫い付けられていた。
タヴァナー市の市都の地図を広げても、その区画を見つけることはできない。公式には存在しない場所なのだから。
だが、空を巡る舟星の視点で地上を望めば、市都に張り付いている大きな集落が目に入るはずだ。
それがテイパーズ・デン――ヴァリ島最大の暗黒街である。
かつてのテイパーズ・デンはただの貧民窟だった。そして、貧民窟の常として裏の世界と繋がっていた。その繋がりが深くなりすぎたのだろう。いつの頃からか、砂糖に群がる蟻さながらにヴァリ島の各地から(時には本土からも)無法者が集まってきた。それに伴い、無法者を相手に商売する者たちも集まり、酒場が開かれ、木賃宿が開かれ、娼館が開かれ、武具屋が開かれ、施療院が開かれた。教庁の正式な認可は受けていないが、旧ラムディア教の教会までもが建てられた。
そのような忌むべき活性化を重く見た当時の市官はテイパーズ・デンの掃討を試みたが、数度の失敗を経て、方針を変更した。多大な労力を費やしてテイパーズ・デンを滅ぼしても、得られるものは小さい。むしろ、デメリットのほうが大きいかもしれない。この特殊な町がなくなれば、犯罪者たちはまた地下に潜り、その動向を把握することが難しくなるだろう。それならば、町の存在を黙認し、うまく利用したほうがいい。
こうして、テイパーズ・デンは無法者たちのオアシスとなった。
しかし、あくまでもオアシス止まり。至上の楽園とまではいかない。定期的に警鼓隊が見回りにやって来るし、不定期に大規模な手入れがおこなわれることもある。同業者の情報を警鼓隊に売る犯罪者もいるし、犯罪者になりすまして情報を集める警鼓隊士もいる。この無法街で安息を得ることができるのは、要領よく立ち回れる者だけなのだ。
もっとも、アレックス・ザ・ミディアムの魂を宿された少年――617は要領よく立ち回ることなど念頭に置いていなかった。
彼が求めているのは安息ではないのだから。
617はアンゲラの古着屋から出ると、露店で肉の串焼きを買い、それを齧りながら、「妹」の食堂があるニシン通りに向かった。
雪こそ降っていないが、風は冷たく、陽光は鉛色の雲に遮られている。それでも、彼は寒さを感じなかった。堅気でないことが一目で判る者たちが歩き回る往来、怪しげな店が建ち並ぶ町並み、芳香とも悪臭とも尽かない独特の匂いを帯びた空気――それらに魅せられて、胸を躍らせていたからだ。年に一度の祭りの日を迎えた子供のように。
お祭り気分のアレックスはまだ知らない。一連の出来事が粛正省の知るところとなり、審問官のレイス・シンガーが動き出したことを。レイスの指示を受けた捜索隊が昨日までテイパーズ・デンにいたことを。二日も郊外をさまよっていたおかげで、その捜索隊と鉢合わせにならずに済んだことを……。
喜劇じみたすれ違いによって危機を回避したお祭り少年ではあるが、僥倖というのは何度も続くものではない。彼を探しているのは粛正省だけではないのだ。
「おい! そこのチビ!」
最後の肉を口で抜き取った時、背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには二人の男がいた。どちらの男も警鼓隊の腕章を付けている。
アレックスは肉を呑みこみ、串で自分の顔を指し示した。
「僕のこと?」
「そうや。おまえのこっちゃ」
警鼓隊士の一人がガビッシュ訛りで答え、正面に立った。アレックスをチビ呼ばわりしたが、この男も垂直方向に問題を抱えている。
「悪いけど、そのターバンをめくって額を見せてくれへんか」
「どうして?」
「俺らは、額に石を付けた奴を探しとるんや」
「額に石?」
アレックスは平静を装いつつ、頭をめまぐるしく回転させた。
(わーおぅ! どうして、警鼓隊が僕を探してるんだ? 劇場に手掛かりを残しちゃったのかなぁ。こんなことなら、めんどくさがらずにスルーフィールドたちの死体を埋めておけばよかったよ。いやいや、ちょっと待てよ。この人たちの捜している相手が僕だとは限らないぞ。もしかしたら、額に石をつけてる人が僕以外にも……いるわけないよなー。ああ、どうしよう? どうしよう? どうしよう?)
それは回転というよりも空転であり、解決策はなにも思い浮かばなかった。
『僕に関するメモその四、僕はあまり頭がよくない』
と、心の備忘録に書き留めて、アレックスは愛想笑いを浮かべた。
「あははははは。僕の額には石どころか、黒子もありゃしないよー」
「それは俺が自分の目で確かめるっちゅうねん。さっさとターバンを取れや」
隊士の手がターバンに伸びると、アレックスは素早く身を退いた。
「見逃してよ。このターバンは外したくないんだ。また巻き直すのが面倒だからさ」
「俺の言うことを聞かんかったら、もっと面倒なことになるで」
「もっと面倒なことって……たとえば、こんなこと?」
アレックスは地を蹴り、相手の顔に頭突きを喰らわせた。
「ぐぁ!?」
「つぅぅぅ~っ!」
隊士の悲鳴とアレックスの苦鳴が重なった。ぶつけられたほうも痛いが、ぶつけたほうも痛い。衝撃を受けた額の石が頭蓋骨を突き破り、頭の内側に落ちていく――そんな非現実的なイメージが激痛と共に脳裏を駆け抜けた。
だが、痛みに悶絶している暇はなかった。もう一人の隊士が剣に手をかけている。
アレックスはそれに気付き、右手を払った。
世にも安上がりな兇器が茶色の軌跡を描いて飛んだ。
隊士は呻き声をあげて、剣の柄から手を離した。三分の一ほど姿を現していた刀身が鞘の中に滑り落ちていく。彼の手には、肉汁の染み付いた串が突き刺さっていた。
その間にガビッシュ訛りの隊士が持ち直しかけたが、アレックスは瞬時に対応した。剣を鞘ごめに抜き、前方に突き出す。柄頭が隊士の鳩尾にめり込んだ。隊士は体勢を崩し、手首を負傷した同僚を巻き込んで転倒した。
アレックスは剣を腰に戻して走り出したが、すぐに引き返して――
「ごめんよ!」
――立ち上がろうとしていた二人の顔面を蹴りつけて昏倒させた。
相手が意識を失ったことを確認し、今度こそ本当に走り去る。
周囲の通行人たちは一連の乱闘を見てはいたが、アレックスの応援も妨害もしなかった。他人事にかかわるつもりはないのだろう。
カウンターの内側で木皿を磨きながら、ミルは店内を見回した。
〈ボロゴーヴ亭〉はさして大きな店ではないのだが、実際より広く見える。テーブルが一つもないからだ。カウンターの席が埋まってしまったら、後から来た客は立ったままの状態で飲み食いしなくてはいけない。
もっとも、そんな事態にはならないだろう。客は一人しかいないのだから。
たった一人の客――白泥族の貧相な老人はカウンターに突っ伏して眠っていた。彼は数日前からここに入り浸り、常連になりつつあるのだが、一杯の安酒で半日以上も居座るので、上客とは言えない。
ミルの手が止まり、口から溜息が漏れた。
彼女は十六歳だが、今日までに六十年分の辛苦を味わってきた。少なくとも、本人はそう思っている。
人生の出だしは決して悪いものではなかった。小さな酒屋を営む両親の下で、貧しいながらも幸せな幼少時代を送ることができた。近所の子供たちに恐れられていた乱暴者の兄アレックスもミルにだけは優しかった。
風向きが変わったのは十歳の時だ。アレックスがはずみで人を殺し、町から姿を消した。それから間もなく、両親が流行り病で死んだ。
家族を失ったミルは父方の伯父に引き取られた。その後、ルォという名の商人の家で女中奉公をさせられたが、すぐに逃げ出し、旧ラムディア教会の孤児院に転がり込み、そこからも逃げ出して……というようなことを繰り返しながら、なんとか生き延びた。
十四歳の時、人生の風向きがまた変わった。
アレックスと再会したのだ。
ただの悪童だった兄は正真正銘の悪徒に成り果てていたが、ミルに救いの手を差し伸べてくれた。〈吼え猛るヤマネ団〉に引き込むという形で。
ミルはその手にすがりつき、〈吼え猛るヤマネ団〉の一員となった。彼らの所業は聞き及んでいたが、そんなことは気にも留めなかった。浮浪児だったミルにとって、犯罪は忌避すべきものではなく、生きるための手段だったのだから。
甘かった。
兄たちの悪逆な振る舞いはミルの想像を超えていた。それは生きるための手段ではなかった。狂った欲望を原動力とする蛮行だった。
最初はミルも兄のように悪事を楽しもうとした……無理だった。
しかたがないので、見て見ぬ振りをした……耐えられなかった。
思い切って、「こんなことはやめよう」と兄たちに訴えた……笑い飛ばされた。
結局、ミルは兄と袂を分かった。いや、逃げ出したと言うべきかもしれない。
〈吼え猛るヤマネ団〉で過ごした日々は短かったが、収穫がなかったわけではない。無法者としての生き方の基礎を学ぶことができた。ミルはそれを活かし、一人で盗賊の真似事を始めた。その際、二つの掟を自分に課した。兄のような人間にならないために。
一つ、人を傷つけない
二つ、貧しい者からは奪わない
しかし、掟を厳守することを優先したために何度も仕事をしくじり、警鼓隊に捕まりかけ、時には命を落としかけた。
やむを得ず、掟を少しだけ修正した。
一つ、人をなるべく傷つけない
二つ、自分よりも貧しい者からは奪わない
当然のことながら、その程度のことで状況は好転しなかった。
ミルは一つの結論を得た。「あたしは裏稼業に向いてない」という結論だ。
向いていないのなら、辞めるしかない。悩んだ末にそんな決断を下して、人生の風向きを自力で変え始めた。存外、それは上手くいった。まとまった金を手に入れ、テイパーズ・デンのニシン通りにある小さな店を借りることができた。
そして、すぐに新たな結論を得た。「あたしは堅気にも向いていない」という結論だ。
「堅気の商売っていうのも、思っていたほど楽じゃないのね」
ミルはうなだれ、一人ごちた。
「昼飯時だっていうのに、客は物乞い同然のジジイだけ。この分だと、こっちが物乞いになる日も遠くなさそう」
「ん? 聞き捨てならねえなぁ」
白泥族の老人が顔を上げ、寝ぼけた声で抗議した。
「俺は物乞いじゃねえぞ。こう見えても、腕利きのシデムシなんだ。まあ、素人にはシデムシの腕の良し悪しは判らねえだろうけどな。いい機会だから、教えてるよ。シデムシの腕前を判断するためのポイントは三つ! まず、第一に……」
「やめてよ、ペイ爺。あんたの仕事の話は聞き飽きた。それに名前の話もね」
「飽きるほど聞いたのなら、ちゃんと覚えろってんだ。俺の名前はペイジーじゃなくて、ペイジャムポライビだよ。かっこいい名前だろうが? これは『踊るウミザリガニ』という意味でな。うちの親父は山の部族の血筋だったんだが、あえて俺の名前に海の幸を盛り込ん……」
ペイ爺の頭がカウンターに落ち、言葉が途切れた。また眠ってしまったらしい。
「なんなの、このジジイは?」
ミルは布巾と木皿を投げ出すと、天を仰いでラムディアに哀願した。
「ねえ、神様。お願いだから、まともな客を寄越してよ」
すると、彼女の言葉に応えるかのように一人の客が店に飛び込んできた。
ミルは視線を下げて、その客を見つめた。ターバンとチャオ服というちぐはぐな格好をしたチャオ人の男だ。年齢はミルと同じくらいだろう。
「どーも!」
肩で息をしながら、その珍妙な客はミルに会釈した。
「ここは〈ボロゴーヴ亭〉という店かな?」
ミルは再び天井に目を向けると、怒りを込めて神に言った。
「あたしは『まともな客』をお願いしたはずだけど?」
店内の空気に静寂が染み渡っていく。
アレックスは返答を待ったが、彼に話しかける者はいなかった。ミルは天を仰ぎ、ペイ爺はカウンターに顔を伏せている。
再度、アレックスはミルに訊いた。
「ここは〈ボロゴーヴ亭〉だよね?」
ミルは顔を下げて、アレックスを睨みつけた。
「昔は〈ボロゴーヴ亭〉だったけど、きてれつな格好をした奴が駆け込んできた時に〈ターバン愛好者の館〉という名前に変わったよ」
「うん。それはいい名前だ」
アレックスは皮肉を受け流すと、ペイ爺の横に座り、自分の妹かもしれない赤毛の少女を凝視した。
生前の自分の顔を覚えていないアレックスには判らぬことだが、ミルはラクダ面の兄とは似ていなかった。かといって、人目を惹く美貌の持ち主というわけでもない。地味で平凡な顔立ちだ。仏頂面をしていなければ、もう少し魅力的に見えるかもしれないが。
「君がミルちゃんだね?」
「……」
「大事な話があるんだ」
「……」
「ねえ、聞いてる?」
「あたしは客の話しか聞かない」
「ああ、そういうことか」
アレックスは数枚の硬貨をカウンターに置いた。古着屋で情報料をはずんだことからも判るように、彼の懐ぐあいは悪くなかった。劇場神殿から逃げる際にスルーフィールドの死体から財布を拝借したのだ。
「シードルをもらおうかな。それと、なにか食べる物も……ん?」
視線を感じて、ふと横を見る。
いつのまにかペイ爺が目を覚まし、物欲しげな顔をして見つめていた。
アレックスは苦笑して、硬貨を追加した。
「このおじいさんにも何か飲ませてあげてよ」
「うっひょおぉ~っ! ありがてえ! 太っ腹なおまえに乾杯!」
ペイ爺が歓声をあげ、カウンターを叩き、足を踏み鳴らした。
カウンターに置かれていた一本立ての燭台がその振動のせいで倒れかけたが――
「おっと!」
――アレックスはそれを素早く手に取り、元の位置に戻した。
「これ、回向灯ってやつだよね。誰を供養してるの?」
「あたしのクソ兄貴よ」
仏頂面で答えながら、ミルはペイ爺の前に酒瓶を置いた。
「もうちょっと高い酒をくれよぉ。ほれ、そこの棚にある銘酒コロンバインとか……」
憐れな声でペイ爺が懇願したが、ミルはそれに取り合わずにアレックスを睨みつけた。
「で、大事な話っていうのは?」
「君が供養しているクソ兄貴のことさ。実はね、僕の正体はそのクソ兄貴なんだ」
「は? あんた、なに言ってんの?」
「信じられないだろうけど、僕はアレックス・ザ・ミディアムなんだよ。もしかしたら違うかもしれないけどね。とにかく、この丸い石の中に――」
ターバンを上にずらし、額に埋め込まれた石を見せる。
「――アレックス・ザ・ミディアムの魂が宿っているらしい。残念ながら、まだ記憶は戻ってないけどさ」
「……」
ミルはペイ爺に目線を送り、こめかみのあたりを指先でつついて、「こいつ、頭がおかしい」と声を出さずに言った。
ペイ爺は目玉をぐるりと回して、肩をすくめてみせた。
「予想通りの反応だなー」
アレックスは憮然とした面持ちで呟いたが、すぐに気を取り直し、自分の身に起きた出来事について語り始めた。
「とりあえず、話を最後まで聞いてよ。僕がイカれているかどうかは、その後で判断してほしい。僕が目を覚ました時、ピンクの目の男がいてね。そいつはスルーフィールドという名の真導師だった。で、そいつが……」
「……そして、僕はスルーフィールドたちを斬り殺しちゃった。その後、いろいろと考えたんだけどね。結局、テイパーズ・デンに行くことにしたんだ。無法者が集まる場所なら、アレックス・ザ・ミディアムのことが判るかもしれないし、スルーフィールドもテイパーズ・デンのことを口にしていたからさ。というわけで、僕はここにいるわけ。ご清聴を感謝いたします」
アレックスは話を終えると、店に入ってきた時と同じように皆の言葉を待った。
ミルとペイ爺の反応もまた、アレックスが店に入って来た時と同じものだった。ミルは天を仰ぎ、ペイ爺はカウンターに顔を伏せている。
「えーっと……」
アレックスは話の糸口を探したが、なにも見つからなかった。その代わり、自分の前に木製のジョッキと皿が並べられていることに気付いた。これまでのいきさつを話している間にミルが置いたのだろう。皿に盛り付けられているのはジャガイモとブラックプティングとキノコを炒めた物で、卵のピクルスが端に添えられている。
「とりあえず、いただきまぁーす」
アレックスは料理を素手で掴み取り、口に放り込んだ。大味な料理であり、しかも冷めていたが、露店の串焼きほど酷い代物ではなかった。
「わーおぅ! この町でこんなに美味しいものが食べられるとは思わなかったよ!」
そのお世辞に気を良くしたのか、天井を仰いでいたミルが視線を下げた。
「あんたはスルーフィールドとかいうカッコーの与太話を真に受けて、自分のことをクソ兄貴だと思い込んでいるわけ?」
「そんなわけないじゃん……と、言い切ることができないんだよね。僕は本当に君のクソ兄貴かもしれない。だって、アレックス・ザ・ミディアムという名前に聞き覚えがあるんだから」
「兄貴の悪名は島中に広まっていたから、聞き覚えがあるのは当然よ」
「でも、記憶を失っているとはいえ、自分の名前よりも有名人の名前のほうが強く印象に残っているなんて不自然じゃないかな」
すると、ペイ爺が頭を上げて話に加わってきた。
「ただの思い込みだよ。おまえはスルーフィールドに『貴様はアレックスなのだ』と何度も言われたんだろ? だからして、無意識のうちに自分のことをアレックスだと思い込み、自分の本当の名前を思い出すことをこれまた無意識のうちに拒絶してんだ」
「うーむ。納得できるような、できないような……」
「納得できねえか? だとしたら、おまえは本当にアレックス・ザ・ミディアムなのかもしれねえな」
ペイ爺はあっさりと意見を翻した。しかつめらしい顔付きをしているところを見ると、冗談や皮肉を言っているわけではないらしい。
その突然の豹変に虚を衝かれて、アレックスは言葉を失った。助けを求めるようにミルを見ると、彼女も呆気に取られていた。
そんな二人のリアクションなどお構いなしにペイ爺は粛々と語り出した。
「ただの思い込み――俺はそう言ったが、その思い込みというのが重要なんだ。世の中の事柄の大半は思い込みや勘違いや妄想で成り立ってる。真実というのは意外と融通が利いてな。思い込みの後についてきて、うまく帳尻を合わせるんだよ。だから、おまえが『俺はアレックスだ!』と強く思い込めば、それが真実になっちまうかもしれねえぞ」
「はぁ?」
鼻白むアレックスに向かって、ペイ爺は芝居がかった語調で問いかけた。
「さあ、自分の想いを吐き出すがいい。おまえは、アレックスでありたいと願ってるのか? それとも、アレックスではないことを望んでるのか?」
「うーん……」
アレックスは三秒ほど考えた後、その思考時間の短さに相応しい簡潔な結論を出した。
「まあ、どっちでもいいかなー」
「いいかげんな野郎だな」
「いいかげんじゃないよ。これは優先順位の問題。自分の正体は気になるけど、それ以上にウォルラスという奴のことが気になるんだ」
「ウォルラスだと?」
ペイ爺の眠たげな目が大きく見開かれたが、アレックスはそれに気付かなかった。
「スルーフィールドが言うには、ウォルラスというのはアレックス・ザ・ミディアムの敵なんだってさ。僕はそのウォルラスをなんとしてでも見つけ出したい。自分探しはその後でいい」
「あんたの考え方はズレまくってる。こういう場合、記憶を取り戻すことを最優先すべきでしょうが」
「それは違うよ、ミルちゃん。僕が陥っている状況はかなり非現実的なものだから、定石も前例も常道もない。なにを優先すべきは自分で決めるべきだ」
「うむ!」と、ペイ爺が頷く。「一理ある」
「ないよ」と、ミルが言下に否定した。
「それにね、僕がもたもたしている間にウォルラスが事故や病気で死ぬかもしれないじゃないか。年寄りだったら、老衰で死ぬ恐れもある。そうなったら、悔やんでも悔やみきれないよ。僕は――」
『――二度も失敗したくないんだ』という言葉をアレックスは飲み込んだ。それは無意識のうちに発しかけた言葉であり、彼自身にも意味は判らなかった。
(いったい、なにが二度目なんだ? 僕は記憶を失う前にもウォルラスを狙い、しくじったのかな? それとも、ウォルラス以外の誰かを……)
思いを巡らせたが、答えは出なかった。
黙り込んでしまった彼を訝しげに見ながら、ミルが言った。
「どうして、そのウォルラスとかいう奴にこだわるの? そいつは兄貴の敵なんだから、あんたには関係ないでしょうが」
「いや、僕がアレックス・ザ・ミディアムじゃなかったとしても、ウォルラスとは何らかの関係はあるはずだ。こればっかりは思い込みじゃない。ウォルラスの名前を最初に口に出したのはスルーフィールドじゃなくて、僕自身なんだからね」
「結局のところ」と、ペイ爺が言った。「おまえはなんのためにミル嬢ちゃんに会いに来たんだ? 自分がアレックスかどうかを確かめるためじゃねえのか?」
「それを確かめてみたいという気持ちもあったけど、本当の目的はウォルラスについて教えてもらうことさ」
アレックスはミルに向き直った。
「というわけだから、ウォルラスのことを知っているなら、僕に教えてくれないか」
ミルは面倒くさげに溜息をついて、
「そんな奴、知らないっつーの。『セイウチ』というからには渾名なんだろうけど、本名はなに?」
「判らない。本名だけじゃなくて、年齢も性別も人種も不明。ただ、スルーフィールドはウォルラスのことを『〈教団〉に巣食うダニ』と言ってたから、〈教団〉の関係者であることは間違いないよ」
「〈教団〉か……ひょっとしたら、ダニじゃなくて蜘蛛かもね。兄貴も蜘蛛の真似事をしてたみたいだけど、蜘蛛同士が敵対するのは珍しいことじゃないし」
「蜘蛛って?」
「カッコーのために働く情報屋とか連絡員とか暗殺者のこと」
「つまり、間者だね」
「そういう呼び方もできる。でも、兄貴と同じ世界で生きていくつもりなら、この手の符牒を覚えておきなさい。たとえば、警鼓隊はブッタタキ、騎士はカカシ、予言者はモグラ、賞金首はキノコ。他にも、人形屋や花火師やシデムシというのもある」
シデムシという言葉を口にした時、ミルは蔑むような目でペイ爺を見たが、老人は傷ついた様子も見せず、愛嬌に満ちたウインクで応酬した。
そのやりとりを楽しそうに眺めつつ、アレックスは尋ねた。
「ねえねえ。そのシデムシっていうのは、どういう意……」
その言葉の後半は――
「全員、そこを動くな!」
――店の入口から飛んできた怒号にかき消された。
そして、店内に四人の警鼓隊士が入ってきた。
「ひえっ!?」
悲鳴をあげたのはペイ爺だ。彼は「そこを動くな」という警告を無視して、這うようにカウンターを乗り越え、酒瓶や燭台もろとも内側に落下した。
一方、アレックスは悠然と振り返り、警鼓隊士たちを見回した。
見覚えのある隊士がいた。顔面を蹴って昏倒させた二人組の片割れだ。顔の中心に布をあて、それを細い紐で固定している。
その隊士がアレックスを指さして、くぐもった声で仲間たちに言った。
「こいつや! こいつが俺に頭突きを喰らわした挙句、顔を蹴とばしよったんや!」
「どういうこと?」
と、ミルが小声で訊いた。
アレックスは頭をかきながら、
「言い忘れてた。ここに来る前、警鼓隊にからまれたんだよ。で、しょうがないから、蹴りつけて逃げてきたんだ。まずかったかな?」
「勘弁してよ……」
ミルは頭を抱えた。




