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71. 早瀬 葵

「はぁ…またやっちゃった。」


 お湯を張ったバスタブに顎まで浸かり、私は溜息を吐いた。


『売り言葉に買い言葉』


 昔からそう。私とみっくんがぶつかると必ずそうなる。頭で考えるよりも先に言葉が出てしまい、その度激しく後悔する。後悔したからといって、その後素直に謝れるかというと決してそうじゃない。

 私はもちろん、みっくんも余計に意地を張ってしまうので、謝れない。それどころか、毎度更に拗らせてしまうのだ。


 前はどうやって仲直りしたっけ…。

 思い出せない。

 あーあ。さっきせっかく仲直り出来たのに。


「浮気かぁ……。これって価値観の違い…ってことなのかな。」


 みっくんは「浮気された気分」だって言った。私は浮気しているつもりなんてさらさらない。罪悪感はもちろんある。でも…慈朗ちゃんだよ?私にとって『お兄ちゃん』なのに?

 なぜかみっくんには全く理解されなかった。私と慈朗ちゃんの関係を良く知っている筈なのに…。


 考えても埒があかない。

 だんだんのぼせてきたしそろそろお風呂から上がろう。

 もう入る人もいないので、バスタブの栓を抜く。お湯が渦を巻きながらあっという間に流れていく。このお湯みたいに、気まずい雰囲気もこうやって流れてなくなってしまえば良いのに…。


 なんか、頭がぼーっとしてきたら全てがどうでも良くなってきてしまった。

 浮気だと思いたければ思えばいい。

 そういう目で見てしまうなら見ればいい。

 今すぐしたいならどうにでもしたらいい。


 でも、仲直り出来ないのは嫌だ。

 でも、どうしたらいいのかわからない。


 気持ちがモヤモヤしているせいか、身体も重い。イライラする。

 結局、夕ご飯は食欲が無くてあんまり食べたくなくて、作る気にもならなくて、みっくんにはストックしてあったカレーを食べてもらった。私はアイスクリームを半分だけ食べた。

 いつもなら美味しいはずのカップアイスが今日は美味しくなかった。美味しくなくて半分しか食べられなかった。




 お風呂から上がってリビングへ行くと、みっくんが不機嫌そうにテレビを見ていた。声をかけて慈朗ちゃんの様子を見に行く。


 慈朗ちゃんは熱が37.4度まで下がり、随分楽そうだった。よかった。このまま熱が上がらなければ、来週末の試験には支障が無いだろう。

 ミネラルウォーターを渡して、部屋を出る。

「慈朗ちゃん、おやすみなさい。」

 体調の良くない慈朗ちゃんに心配かけたくなくて、頑張って笑った。




「慈朗にだけ笑いかけてるんじゃねぇよ…。すげぇムカつく。」

 私が歯磨きしている後ろで、みっくんがぼそりと呟いて通り過ぎた。


 もう頭にきた。


 別に慈朗ちゃんにだけ笑いかけるつもりはない。慈朗ちゃんにはいつも通りになるように接しているだけ。

 みっくんがずっと不機嫌そうにしているからそれがうつってしまう。みっくんと笑って過ごしたい。なのに、それが出来ない。素直になれなくて、苦しいのに、そんな言い方しなくても良いのに。


 歯磨きを終えたら髪を乾かすつもりだった。でもそんなのどうでもいい。

 今すぐに文句を言わずにはいられない。




「さっきのなに?」

「は?」

「慈朗ちゃんとはいつも通りにしてるだけ。ムカつかれても困る。なんでずっと不機嫌なの?」

「葵は俺がなんで不機嫌なのかわからないわけ?少しは俺の事も考えろよ?」

「慈朗ちゃんと寝たのがそんなに不満?」

「ああ、不満だよ。腹が立ってしかたねぇよ。ムカつくよ。」


 もうダメだ。私だって腹が立って仕方ないし、ムカつく。そんなに不満なら好きなようにしたら良いんだ。


 私はみっくんの部屋に行き、昼間私が踏んづけて潰した箱を拾う。リビングへ戻ってみっくんの手を引っ張って、私の部屋へ行く。部屋の照明はつけず、ベッド脇の間接照明だけ付けると、ドアを閉じて鍵をかける。


「そんなに不満なら、みっくんのしたいようにしたらいいじゃん。一緒に寝て、エッチでもなんでも好きなようにしたらいいじゃん。…避妊だけしてもらえばそれでいい。好きにしてよ。」


 もうどうでもいい。ヤケになっているのは私だってわかっている。

 パジャマ代わりのスウェットのワンピースとレギンスを脱ぐ。

 キャミソールも脱ぐ。


 流石にブラとショーツを脱いで全裸になる勇気はなかった。

 とりあえず、上下セットの下着を着けていて良かったなんて思ってしまった。こんな事なら、もっと可愛い下着にすれば良かったと少しだけ後悔した。




 私が踏んづけて潰した箱をみっくんに投げつけたいのを必死で我慢して、みっくんの手に押し付ける。


 肩にかかる濡れたままの髪が冷たい。だんだん身体が冷えてくる。

 寒い。震えそうなのを必死で我慢する。




「葵…俺を馬鹿にしてるのかよ?」

「別にそんなつもりはないよ。慈朗ちゃんと寝たのが気に食わないんでしょ?それ以上の事が出来たら満足なんでしょ?今すぐにでもしたいって言ったじゃん?したいならすればいいよ。私が同意してるんだからしたらいいじゃん。」


 みっくんは怒ってるみたいだった。

『売り言葉に買い言葉』なのはわかってる。でも、もう言ってしまった以上どうにもならない。


 いずれはする事なんだから。

 こんな形でしてしまうのは不本意だけど、もうこれでいいんだ。

 世の中には、もっと不幸な形で初めてを失ってしまう女の子だってたくさんいるんだから。


 私は幸せなんだ。


 たとえ、こんな形でも、相手が大好きな人なんだから…。


 必死で自分にそう言い聞かせた。


 これで、みっくんが満足してくれて仲直り出来たら良いな、なんて淡い期待もあった。浅はかなのはわかってる。自暴自棄になっている自覚だってある。

 でも、素直になれない以上、もう言ってしまった以上、どうにもならない。




 みっくんは、険しい表情のまま、大きく溜息を1つ吐くと、着ていたスウェットのパーカーとTシャツを脱いで上半身裸になった。

 そして、私を抱きしめた。

 みっくんの体温に包まれ、温かい筈なのに、なんだかすごく虚しくて、悲しくて、心が寒かった。

 抱きかかえられて、ベッドに移動して、押し倒されて、両手首を顔の横で、固定され、キスされる。

 いつもなら、嬉しくて、気持ち良くて、唇を重ねれば重ねる程に蕩けてしまって、幸せな気持ちになる筈なのに、今日はキスされればされる程、不安になった。全然気持ち良くもないし、胸が苦しかった。


 唇にされていたキスも、耳、首、デコルテ、胸へとどんどん移動していく。

 左胸の内側を強く吸われた。何だか胸がチクリと痛んだ。


 右手は固定されたまま、私の左手首を抑えていたみっくんの手は背中のホックへと回される。

 そして再び、唇にキスされた。


 何だかすごく怖かった。

 みっくんがみっくんではないみたいだった。


 寒くて、虚しくて、苦しくて、怖くて、不安で、私の指先はすごく冷たくなっていた。


「やっぱ無理…。」

 みっくんは、再び大きな溜息をついて、ベッドから降りると、私に布団をかけた。

「怯えて震えてるじゃん。無理してるんじゃねぇよ…。」

 私に背中を向けて吐き捨てる様に言った。


 そして、先ほど脱いだTシャツとパーカーと潰れた小箱を拾うとドアノブに手をかけた。




「行かないで…一緒にいて欲しい。さみしいから、一緒に寝て欲しい…。ギュってして…お願い…。」

 やっと素直になれた。素直になった途端、涙が溢れた。


「無理…。」


 みっくんは背を向けたまま、それだけ言うと出て行ってしまった。


 胸がえぐられたように苦しくて、ただただ哀しくて、虚しくて、ひたすら泣いた。


 そして泣き疲れていつの間にか眠ってしまった。

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