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67. 中沢 慈朗

「葵…腹減った…。」

「慈朗ちゃん…ちょっと、大丈夫?…熱あるんじゃない?…ベッドに戻って、まず熱計ろう?」


 怠い。すごく怠い。

 学校の帰りに珍しく立ち寄った図書館でうっかり寝てしまったのは体調不良のせいだったようだ。

 寒くて身体が震える。

 酷い立ち眩みがして、思わず葵に抱きついてしまうほどに俺は体調が悪いらしい。


 1週間後は滑り止めの為ではあるがセンター試験だというのに…。




 しかし、なんだろう。この満たされる感じは…。

 温かくて、柔らかくて、顔に触れる髪は艶やかで、フローラルな甘い香り。

 ずっとこうしていたい…。




「慈朗ちゃん…歩ける?無理っぽいならみっくん呼…」

「大丈夫。歩ける。」


 きっと俺が歩けない様なら充を呼ぶつもりだったのだろう。それが嫌だったので葵が言い切る前に返事する。葵に連れられて、部屋に戻りベッドに横になる。

 電子音が鳴ったので体温計を見ると37.8度と表示されていた。


「お粥ここに持って来るから…待ってて。」


 数分後、お盆に小さな土鍋と茶碗と水を持って戻ると、それを1度机の上に置き、颯太が普段使っている布団を抱えてきた葵。

 俺を起こすと、俺の背中と壁の間に布団を置いてくれた。おかげで、もたれかかって座るのも楽だ。


「これ…ハルのだけど。」


 ニットのカーディガンを差し出されたので、受け取らず腕を出したところ着せてくれた。




 葵は気が利きすぎる。

 葵といたら俺はダメになってしまう気がする。

 でも、今だけ…せめて体調が良くなるまでは甘えたい。




「はい。お代わりあるから…。」

 茶碗と木の匙を差し出されたが敢えて受け取らない。

「葵…食べさせて。…こぼすと嫌だし。」

「え?…あ、うん。そうだね、慈朗ちゃんフラフラだったもんね…。」


 普段、充は平気で事を言うが、絶対言わない俺に少し動揺した様子の葵。


「そんなに悪いなら変に市販薬飲まない方が良さそうだね…。」


 動揺の理由は、純粋に俺の体調を心配しての事らしい。


 葵はベッドの近くに椅子を持ってきて、それに座り、お粥を少し匙に取り、息を吹きかけて冷ます。その仕草にドキリとしてしまう俺。


「はい。」


 口を開けるとそっと入ってくる熱すぎず、ぬるすぎず、昆布の出汁と少し塩のきいた卵粥。

 用意してくれたものを全て食べ終える頃、部屋のドアがノックされ、充が入ってきた。


「葵ちゃん、これでいい?」

「ありがとう。」


 弟に向けられた笑顔に、つい嫉妬してしまう。


「慈朗ちゃん、これも飲んで。」


 経口補水液だった。体調の悪い俺が脱水症状を起こさない様に、わざわざ充に買いに行かせていたのだろう。


「何かあったら、電話かけてね。」


 布団を元に戻し、俺を横にさせると葵はそう笑顔で言って部屋を出て行った。





 葵とは兄妹の様に育ち、俺は葵をずっと妹として可愛いがってきた。でも…実を言えば俺の初恋は葵。


 葵は俺の兄遼太郎の事が『異性として好き』だった。そして、彼女にとって俺は完全に『兄』だった。俺に好意を持ってはいてくれたが、その好意は颯太に向けられるそれと同じで、遼太郎に向けられたものとは全くの別物。

 いくら頑張ってもどうしようもない事に気付いた俺は、自ら葵の『兄』となった。兄として、葵に好かれ、甘えられ、触れられる事に満足していた。


 年頃になると、俺は適当な相手を見つけて恋愛だってした。来るもの拒まず…とまではいかないものの、同時進行も何度かあった訳で、とても褒められるようなものではなかった。


 中学入学から、葵と離れて暮らしていた高校2年までの5年間はそれで良かった。

 それなりに楽しかったし、それなりに満たされていた。


 しかし、葵が俺と同じ学校へ通うようになり、葵の家に入り浸って葵と過ごす時間が増えてくるとそうはいかなくなってしまった。

 付き合っていた女に対する不満は募り、つい葵と比べてしまう自分がいた。


 かと言って、葵とどうにかなりたいとはとても思えなかった。葵の気持ちは俺には無い。いつからかは分からないが、葵の中で、充の存在が大きくなっているであろう事に気付いた。

 葵自身も、それに気付かなかったというか、無意識に認める事を拒み、遼太郎に固執していた様にも思えた。


 俺よりも、遼太郎よりも充の方が葵に相応しい事は明白だった。

 あいつは見た目や言動こそチャラいが、俺や遼太郎よりもずっと真面目で誠実。葵一筋で他に見向きもしない。

 もともと葵との相性だって悪くないのだろう。ただ、似ているところもあってぶつかる事は割と頻繁にあったけれど、それを乗り越える度に2人は仲良くなっていった。あくまで幼馴染みとして…だが。


 そして、葵が本当に落ちこんでいる時、救うのはいつも決まって充だった。


 俺は葵といたら葵に必要以上に依存してダメになってしまうタイプだと思う。だが、充は葵がいる事で自分の能力を最大限に出せるタイプなのだろう。実際、このところ充は調子が良く結果を出している。

 その結果に本人が満足しているかは別として…。


 それがわかっているから、俺は2人が上手くいけばいい、いくべきだと思っていたのに…。

 実際2人が上手くいき、仲睦まじい姿を見てしまった途端、それを受け入れられずにいる俺がいた。




 1週間程前、偶然目の当たりにしてしまった葵の『女』の顔。決して俺に見せることのないであろう、そんな表情で充をうっとりと見つめていた。

 その時、口では強がってみたものの、胸はつんざかれた様に苦しく、とても平常心ではいられなかった。


 それでも、葵を自分のものにしようとは思えないというか、そうする勇気も、力量も、そう出来る自信も無い。そんな事したって、葵が苦しむだけ。

 しかし、諦めきれない俺だっているわけで…。

 今だけ甘えさせてもらってキッパリ諦めようと決心した次第だ。






「寝る前に、もう一度熱計っていい?」

 体温を再び計ると38.2度。悪寒がする。

「葵…寒い。」

「じゃあ湯たんぽ用意してくるね。」


 俺は震える手で、ベッドに腰掛ける葵の腕を掴んだ。


「寝付くまででいいから…そばにいて欲しい。」


 葵は戸惑っているようだった。しかし、小さな声で、「慈朗ちゃんだから…大丈夫だよね…。」そう呟くと、苦笑した。


「じゃあ慈朗ちゃんが寝るまで…これ読んでいい?」


 そして、床にクッションを置き、座って本を読み始めた。


 葵は疲れていたのだろう。俺より先に眠ってしまっていた。このままでは風邪をひいてしまう。

 俺は葵を抱きかかえてベッドに寝かせた。葵は1度眠るとなかなか起きない。やはり今日もそうだった。それをいい事に、つい葵の腹部に手を回し、首というか肩に顔を埋める。完全に魔が差していた…。

 俺が背後から抱きつく形で葵の体温を、匂いを感じながら、幸せな気持ちで眠りについた。




 朝、起きると葵はいなかった。

 代わりに俺の額と首には冷却ジェルシートが貼られて、頭の下には氷枕があった。

 節々も酷く痛む。


 しばらくすると部屋に葵と充がやってきた。

 葵は俺に体温計を渡してくれたのだが、充はそれを不機嫌そうに見ていた。


「39.3度…病院行かなくちゃだね…。」

 葵がそう言うと、充が苛立ちながら言った。


「俺が連れて行くから。葵ちゃんは家に居て。」




 充の助けを借りて身支度を簡単に整え、近くの内科に行く。

 診察と簡易検査の結果、インフルエンザだった。なので、充にも診察を受けさせ、念のため俺が処方された薬と同じ物を予防薬として処方してもらう。

 保険は利かないが、葵はおそらく一晩俺と寝ていたのだから、うつしてしまっている可能性は高い。この程度の額で葵に症状が出ないのであれば安いものだ。


 内科を受診している間も、家に帰るまでも、充はずっと不機嫌だった。俺は怠さもあり、必要な事以外話しかけなかったし、充も同じだった。


「薬局…混んでるな…。」

 内科の隣の薬局は混み合って、待合室は人で溢れかえっていた。

「とりあえず家帰ろうぜ。慈朗怠いんだろ?」

「でも薬は?」

「葵に買い物頼まれてるから、ついでにもらってきてやるよ。」

 目も合わさず、ぶっきらぼうな受け答えだったが、充なりに気を遣ってくれたのだろう。


 マンションのエントランスまで歩くと、充と別れ、俺は帰宅した。充は先ほどの薬局とは反対方向へ向かって歩いて行った。

 おそらく、頼まれた買い物とはドラッグストアでの買い物なのだろう。調剤薬局を併設しているので、先程処方された薬も受け取れる。


 それにしても怠い。インフルエンザとの診断が下されてから、余計怠さが倍増した。

 一応、症状が出たのが昨日。5日間は出席停止となるので、水曜日まで登校出来ない。

 熱さえ下がって、体調が戻れば、学校へ行く必要が無いのは寧ろメリットか。




 帰宅すると葵はいなかった。

 自室へ戻るとベッドのシーツは交換されて、着替えが置いてあった。


 俺は着替えて横になった。

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