焦る気持ち
彼女がぼんやりするだけでなく、睡眠不足のクマができた顔で思い詰めた表情をするようになったのはここ1週間ぐらいのことだった。
疲れたとため息を吐く回数も多くて、何かあったなら相談してくれと言ったけれど、もう少し自分で頑張ってみるなんて返されれば、それ以上何も言えない。
「ちょっとね、ちょっと夢見が悪いだけなんです。それに最近課題も多いから……それだけなんで大したことないんです」
本当に「それだけ」ならば、要領の良い彼女が疲れきった顔を隠せないようになるなんてないだろうに、年下の彼女はよく俺よりも大きく背伸びして頑張ろうとする。
俺はいつだって目一杯に甘やかしてやりたいのに頑固な彼女は素直に甘えてくれないから、俺は頑張れって言うしかない。
「うん、そっか。頑張ってね。でも、頑張りすぎないこと!疲れたらすぐに俺に甘やかされに来なさい」
「わかりました。春樹さんに甘やかされに行きます!」
冗談っぽく言った俺の言葉にくすくす笑いながら答える彼女だけど、きっと彼女から俺のとこに来ることはない。
なぜなら――、
「俺の可愛い彼女はほんとにいつでも来て良いんだから。遠慮しないで」
にこりと笑えば、ほら、君の顔はすぐに曇る。
気付いてる?最近「恋人」であることに関係した言葉を俺が使うたびに、君の笑おうとした顔が痛々しいほど苦しそうに歪んでるんだよ……陽加里ちゃん。
* * *
「なあ春樹ー、あれ光石さんじゃね?」
卒論のための研究をしていて遅くなってしまった帰り。同じ研究室のメンバーとなにか適当に食べに行こうかとぶらぶら歩いていると、突然立ち止ったやつがやたらふわふわした見た目のカフェのような場所に顔を向けて言った。
同じようにピンクと白で構成された空間へ目を向けると、ひどく疲れ切った顔の陽加里ちゃんが目の前にあるケーキに目もくれず、張り詰めた雰囲気で向かい側に座っている相手に何かを話していた。
色気よりも食い気、目の前にある食べ物がなんであれ常に目を輝かせる彼女にしては珍しい、なんて思ってふとその向かいに座る人物に目を向ける。
「……中辻陸斗?」
同時に向かいに座る人物に気付いたのだろう他の奴らが小さく「やべっ」「うわ、修羅場?」なんて呟いている。
どうして陽加里ちゃんが彼と一緒に……なんて思考の渦に沈み込みそうになるとこだったが、親しいとは言え人様の前で修羅場へ持ち込む気もうじうじと悩む気も無かったため、「うっさいわ」と冗談交じりに笑いながら乱暴な言葉をつかって黙らせ、その場を立ち去ることにした。
「おい、良いのか?」
「そりゃ、彼女にだって付き合いってものがあるからね」
「えー……だってあいつ中辻陸斗だろ?王子王子って騒がれてる。俺、ほかの男だったらまだしも、あいつと一緒にいるところとか見ちゃったら焦る自信しかないんだけど」
「まあ…もともと仲良いみたいだし……俺と陽加里ちゃんも変わらず仲良いし?」
「うっわ惚気るなおまえ!」
「ついでににやけるな!」
「爆発しろ!」
一気ににぎやかになった空気の中で店へと向かいながら一人自嘲の笑みを浮かべる。
変わらないことなんてない、焦らないことなんてない。
春樹さん、と慕ってくれる声が、無理やり笑おうとする顔がごちゃまぜになってつねに付き纏ってくるなんて情けないことは誰にも話せない。
呑み過ぎた。
盛り上がった状態のまま店へとなだれ込み、酒の肴にされそうになるのをのらりくらりと躱しながら杯を重ねていれば、意識はあれども足元がおぼつかなくなるぐらいには酔いが回ってしまっていた。
春樹が酔うなんて珍しい、やっぱさっきの気にしてんじゃねえの、なんてからかいながらも家まで送ると心配してくれた奴らに「いいよ」「大丈夫だよ」と繰り返すも、有無を言わさずアパートの下まで無事に送り届けられたのなんて初めてだ。
確かにあのまま一人で歩いていれば危なかったかもしれないためここまで付いてきてくれたことは感謝するが、道中さんざん陽加里ちゃんとのことをネタにされ続ければ嫌気もさして感謝の念なんて薄れてしまう。
あいつら絶対に今度ネタ見つけていじり倒してやる、と後から考えればどうでもよくなるであろうことを心に誓いながら自分の部屋の前に若干ふらふらしながらたどり着いた俺は、つい大きな溜息をついてしまった。
「こんな時間にどうしたん」
そして思った以上に低い声が出る。自分でもヤバイ、と思ったときにはドアの前にしゃがみ込んでいる陽加里ちゃんは、更に身を小さくしてか細い声ですみません、と言った。
「いつからそこおったん」
そうじゃない、謝って欲しいわけじゃない、と思いながらも続いて飛び出した声は平坦で、やたら低い。
俺の声に萎縮したようにもっと身を縮込ませた彼女は、だが、すぐに立ち上がると早口に謝って俺に背を向けた。
「すみませんやっぱり迷惑ですよねごめんなさい帰ります」
そのまま小走りで去っていこうとする彼女の腕を咄嗟に掴む。
迷惑なんかじゃない、という言葉の代わりに飛び出したのは三度彼女を萎縮させるのに十分な台詞かつ物言いだった。
「あほちゃうん。こんな遅いのに一人で帰らせられるか。とりあえず中入り」
泣きそうな顔でもう一度すみませんと呟いた彼女を見て、俺も泣きそうになった。
――そして三十分も経たないうちに足早に去って行った陽加里ちゃんの後姿に、俺は独りで涙を流すことになった。
「他に、好きな人ができたんです………ごめんなさい」
「今までありがとうございました」
「……芦原先輩」
最後まで俯いていたから、彼女の表情を見ることはできなかったけれど、その声が苦しそうで哀しそうで。
いつもなら泣き虫な彼女は絶対に泣き出しているのに、最後まで涙の一滴も落とさないでおこうとする彼女を見ていると、早くその苦しみや罪悪感から救い出してやりたくて、年下の可愛い彼女に惚れ込んでいる情けない俺は別れることしかできなかった。
せめて最後まで頼れる年上の男でありたくて、精一杯虚勢張って。
なにが「仕方がないよ」だ。
なにが「またいつでも頼ってね」だ。
なにが「これからも同じ研究室の仲間としてよろしく」だ。
仕方なくなんかない。どうして他の奴なんて好きになるんだよ。どうしてずっと俺のことだけ好きでいてくれないんだよ。俺はこんなにも陽加里ちゃんのことが好きなのに。ずっと彼
女を包み込める大きな男でいようと、彼女が安心して寄りかかれるような男であろうとしてきたのに。
こんなにも苦しくて悲しくて寂しくて、離れていった彼女が憎くて恨めしくていっそのこと嫌いになってしまえたらと思うのに、それでも愛しくて愛しくて愛しくて、どうしようもないくらい彼女のことが好きだから彼女が幸せになることを願ってしまう。
結局は惚れた弱みなんだと、彼女が欲しくて捕まえておきたくてしょうがないのに、諦めに似た空虚感を味わいながら静かに涙を流すことしかできない自分が嫌で嫌で堪らなかった。