つくられた想い
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また、この夢か。
夢の中なのにはっきり夢だと認識できるのは何度も何度も繰り返し見たものだから。
抗おうとする意識なんてものともせず、目覚めることなくまた僕は小説を読みだす。
「君は僕の光だよ――――陽加里」
やっと終わった。
本をパタリと閉じた青白い手を見て僕は心の中で溜めていた息をゆっくり吐きだす。
これでくだらない自分の妄想から目覚めることができる。
いつも同じタイミングで訪れる覚醒を待ちながらただ真っ白なベッドに腰掛け、大きな枕に深々と身体を沈めていた僕は、待てども待てども訪れない目覚めに違和感を覚えた。
いつもならこのくらい経てばだんだん視界に靄がかかってきて暗転し、そこで目を開けてみると目覚められるのだが――。
突然視界が動いた。
青白い手の持ち主が初めてベッドから起きだしたのだ。彼か彼女か分からないその人はゆっくりした動作で立ち上がるとカーテンが閉め切ってある窓へと近づき、カーテンの内側に入り込む。
真っ暗な外。蛍光灯に照らされた部屋。
当然鏡のような役割を果たした窓に映った青白い顔をした少年を見て、僕は咄嗟にそれが僕だと悟った。
夢の中で、いや、過去の記憶の中で僕は妙にスッキリした気分になった。
*****
「あ、起きた」
目を開けた途端、無感動な、だがいつの間にか聞いていると落ち着くようになった声が聞こえた。
まさか、と思い顔を動かしてみると綺麗に身だしなみを整えた彼女が興味なさそうに僕を見ていた。
なぜ、彼女が目の前に。
不思議に思い辺りを見ようと目を動かしてみると、視界に映ったのは全く見覚えのない落ち着いた部屋だった。壁際に天井まで届く本棚が置いてあり、そこにはぎっしり本が詰まっている。
ここは、どこだろう。働かない頭を懸命に使ってみるがなんだかボヤボヤしていて何も考えられない。彼女に聞こうと口を開いてみるが喉から出たのは掠れた息だけだった。
「陽加里ちゃん、これ飲ませてあげて」
不意に聞こえてきた声にああ、そうか、と色々納得した。
どこにいたのかスポーツドリンクを手に持った彼がこの部屋の主なのだろう。意識を失う前に声をかけてきたのは彼なのだから恐らく間違いない。
なぜ、救護室ではなく彼の部屋なのか甚だ疑問だがそれなら彼女がいるのも説明がつく。
一人状況を理解しようとしている僕に蓋が開けられたペットボトルがやや乱暴に押し付けられた。
「飲んで」
相変わらず低くて不機嫌そうな声に苦笑しながら力の入りきらない手で受け取り、両手で支えながらゆっくり喉を潤す。
驚くことに水分や糖分がたちまち体中に行き渡るのが感じられ、重かった身体が軽くなり、頭もすっきりした。
そう言えば、最近睡眠どころか食事も水分もまともに取っていなかったな、と遠い目になる。
どうやら僕は自分で思うよりも、あの夢に恐怖して余裕がなかったらしい。
一息付き、もう一度ペットボトルを傾け水分を口に含む。久しぶりに体も心も休まったような気がした。ふう、と大きく息を吐き出す。
「落ち着いたみたいだね。随分うなされていたから心配したけど、顔色が良くなってる」
気付けばほっとしたような顔で僕の顔色を確かめる彼が目の前にいた。
さっきは何の裏も無い彼に無性にイライラしたが、憑き物が落ちたかのように僕の心は不思議と落ち着いていて安心する。
彼女への想いは変わらないが、何かに追い立てられるような気持ちは無くなっていた。
「突然倒れてしまってすみません。びっくりしましたよね。助けてもらってありがとうございます」
「いえいえ、ちょうど通りかかって良かったよ」
穏やかな気分でお礼を言えば、ニコニコしながら返事が返って来て思わず小さく笑ってしまった。何て言うか、器が大き過ぎて対抗意識も芽生えてこない。
「中辻君すごい顔してたからね」
「そうですか…?」
「無頓着だねえ。死相浮かんでるレベルだったよ」
その言葉にはは、と乾いた笑いが漏れる。
どうやら自分は思っていたより危ない状態だったらしい。
「最近同じ夢ばかり繰り返していて」
「それでうなされてた?」
「はい。なんか僕の妄想の塊としか思えないような小説を延々読み続ける夢で。妙にリアルだから中々寝れなかったんです」
「ふーん……変な夢だね。でも、もう大丈夫なの?」
「ええ、まあ、何か色々悟ったって言うか、踏ん切りがついたって言うか。取り敢えずすっきりしました。ご迷惑をかけてすみません。ありがとうございました」
ゴソゴソと布団から出ながらそれとなく色々な意味を込めて礼を言う。
ついでにすぐそばに置いてあった鞄から財布を出し、スポーツドリンク代を彼に差し出す。だが、彼はにっこり笑うだけで受け取らなかった。
「どういたしまして。まあ、それは俺からのお見舞いってことでもらっておいてよ。ね?」
彼の細められた目を見れば悪戯っぽい眼差しが見えた。どうやらこちらの謝罪に含まれた色々な意味を汲み取ったらしい。やっぱり敵わない、と思いながら最後に彼女のほうを見た。
「光石さんもごめんね、ありがとう」
自然と上がった口角に、内心ほっとしながらくるりと背を向け「お邪魔しました」と彼の家を出た。
彼女の顔は最後まで強張ったままだった。
*****
夢の中で僕がいた白い部屋はおそらく病室だ。
清潔感の漂う、けれども何となく殺風景な部屋。
その割に置いてある本やぬいぐるみ、おもちゃがしっくりと馴染んでいて、僕はずっとあそこにいたのであろうことが分かった。
今ある僕とは異なる過去の僕。
根拠も理由もない。
鏡に映った僕をみた途端、青白い少年は僕の前世で、繰り返し見たあの夢はその記憶の一部だと直感が告げていた。
きっと僕はあの小説を気に入っていたのだろう。開き癖のついた本の表紙を思い出しながら考える。
関わる人の少ない病室暮らしの中で本を読んで、色々な世界へ思いを寄せて、恋を知らない少年は小説で知ったそれに憧れて――、何の因果か中辻陸斗として生まれ変わった。
そして、その記憶の強さから僕の彼女に対する想いができたのだろう。
こうやって考えると常に僕を突き動かしていた『何か』もこの記憶だったのだと分かる。
――そして、そのことに気が付いた今、僕の彼女に対する恋情は思い返そうとしても懐かしいものにしかならなかった。
「そう言えば陸斗、お前あの彼女とはどうなったんだ?」
彼女の名前や連絡先を知るために協力してもらった友人が、ふと思い出したように聞いてきた。
「ん?どうにもならなかったよ。ふられて終わり」
なんとも思っていないようにーー実際なんとも思っていないのだがーーあっさり答えると、へえ、と驚いた顔をされた。
「あれだけしつこくアタックされて靡かなかったんだな」
「しつこくって…確かに何度も告白したけど」
苦笑いしていると慰めるようにポンと肩を叩かれる。
「ま、新しい恋でもしとけよ。お前ならすぐ彼女の二人や三人できるだろ」
「僕、二股はかけたこと無いんだけどなあ…」
「三股ならかけたことあるってか?」
「何でそうなるんだよ!」
そうやって友達と冗談を言って笑いあった日だった。
思いつめたような顔をした彼女が僕の前に現れたのは。
「…少し、話がしたいんだけど、良いかな……中辻君」