落ちたのは
彼女に恋人ができた。
泣きながらもう近寄るなと言われてしまったときに彼女の声を聞きつけたあの男は、あの日以来彼女とよく一緒におり、気付けば随分女らしくなった彼女と手をつなぐようになっていた。
優しい笑みを向けられて花咲くようにふわりと笑う彼女を見るたびに、胸が締め付けられる。
自業自得、か。
つん、とした目頭を押さえて仰いだ空は憎らしいほど綺麗な青色だった。
*****
僕が初めて彼女を見たのは、高校を卒業するときに告白されて付き合いだした女の子と丁度別れた頃だった。
ぱっとしない見た目どおり恋愛経験なんて皆無だったその子が顔を赤らめわたわたする様子を見るのは、それまで付き合ってきた子たちとはタイプが全く違って面白かったが、一月半ほどで飽きてしまった。
だが、新鮮だったことは違いない。次は恋愛なんてしたことのなさそうな女の子を落としに行くのも楽しいかもしれない。
そんなことを考えていた時に地味で目立たずこれと言った特徴のない彼女を見つけた。すぐに落ちるかもしれないけれど、暫く楽しむにはぴったりだと思った。
彼女は交友関係が非常に狭く、僕が一ヶ月で築き上げた学内の人脈を使っても名前と学部、学年ぐらいしか分からなかった。
だけど、まあ、これから彼女を落としていくのだ。趣味や好みなどを知っていた方が口説きやすいがそれは追々でいい。
――そんな風に考えていたときもあった。
「初めまして。法学部の中辻陸斗です。ああ、君の名前はいいよ、知ってるからね。ずっと君のこと見てたんだ。よかったら……僕と付き合ってくれませんか?」
爽やか、と評される笑みを浮かべ意識しているうちにいつしか素となった丁寧で穏やかな口調で言った台詞は、彼女を赤面させる間もなく瞬時に切り落とされた。
それは、もう、バッサリと。
いっそのこと気持ちいいぐらいに。
「無理です」
無表情で言い放たれたその四文字は小さな声で言われたのにもかかわらず、見事に僕の自尊心を刺激した。
絶対に落としてやる、と。
彼女の性格は読めなかった。
一瞬で僕の告白を断ったため、見た目と違って気が強いのかもしれない、かと思いきや、話しかけるとどもりながら聞き取れないほどか細い声で答える。
涙目になって顔を真っ赤にさせているからそろそろ落ちてくる頃かと思い、友人伝手に知った電話番号とアドレスに連絡してみれば、アドレスを変更され、着信拒否までされた。
だが、彼女の態度から判断して、たまに頑固な一面を見せるが基本的には大人しくて一歩踏み込んでしまえばどんどん流されるタイプだろうと予測していた。
だからこそ僕はそれこそ意外とガードの硬かった彼女に一歩踏み込むべく押せ押せで夏休みの間も毎日電話し、ついに出会ってそろそろ四ヶ月経とうかという頃彼女と出掛けることに成功したのである。
王道だ、何だ、と言っても結局女の子はロマンチックな展開が好きだ。
食堂で見かける彼女が一週間に一度幸せそうに小さなケーキを食後に頬張っているため、最近見つけた雰囲気の可愛らしいカフェに連れていくことから始まったデートはその後、水族館に行き、早めの夕食をこれまた洒落たレストランで取り、その後、この辺りでは遅めの、だが夏の最後を飾る大きな花火大会を絶好のポイントから見る予定だった。
そして周囲の雰囲気にのまれる中、もう一度告白。
きっと彼女はいつものように顔を赤らめ涙目になりながらも頷いてくれるだろう。
落とした後のことはあまり考えていなかったが、ここまでくるのに四ヶ月かかったのだ。付き合ってみればまた新たな一面も見えて今まで以上に楽しめるかもしれない。
だが、予定はあくまで予定だった。
ついでに言うと予測も予測でしかなかった。
後のことを考えるとつい顔が緩んでしまうほど上機嫌だった僕は、最初のカフェに入ったは良いが、二人で美味しくケーキを食べて談笑し、仲良く店を出ることすら叶わなかったのである。
結果だけ言うと、僕が見ていたのは盛大に猫を被った彼女だった。
困ったように小さな声でどもる彼女も、真っ赤になって涙目で僕を見つめる彼女も、彼女が一番上に被る猫。
光の速さまではいかなくとも音速で僕の告白を断ったのも、着信拒否をしたのもせいぜい二、三匹剥がれた程度。
全ての猫をかなぐり捨てて現れた彼女は、やけにドスの利いた声で口汚く罵る、とてつもなく眼光の鋭い女の子だった。
あまりのギャップに呆然とする僕の前でバン、と律儀に自分のケーキと紅茶代をきっちりテーブルに叩き付けて行った彼女の後姿はなんだかとても凛々しかった。
結局、店中の視線が僕に集まってひそひそと何かを囁かれる中、慌ててケーキ代を払い店を飛び出して彼女を追いかけることとなったのだが、当然のように彼女を見つけることは出来なかった。
残りの夏休みの間、僕は彼女に連絡するかどうか考えた結果、毎日メールだけ送り続けた。
素を僕に見せてしまった今、おそらく彼女は取り繕うともしないだろうから電話には出てくれないだろう。
以前着信拒否を解除しないなら家まで行くと住所なんて知りもしないのにはったりをかけたら、すぐに解除されたことから拒否まではしないだろうがきっと無視され続ける。
それなら返事が来なくても取りあえず勝手に受信されるメールを、と思って毎日些細なことでもメールした。彼女からの返信は一切来なかったが、代わりにエラーメッセージが来ることも無かった。
今から思えば、あれだけはっきり拒絶されたのだからもう止めておけばよかったのに、何故かあのときはそうしなければいけないような気がしたのだ。
夏休みが明けて出会った彼女はもはや猫を被る気なんて一切無かったようだ。
毎日のように目の前に現れて口説こうとする僕が視界に入った途端に「うるせえ」と「こっち来んな」をどこから出してるんだと聞きたくなるほど低い声で繰り返していた。
以前までは可愛らしい声で「あ、あのっ」なんて言っていたのだから素晴らしい詐欺っぷりである。
だが、何故だかあからさまに顔を顰められても、適当にあしらわれても全く腹が立つこともなかったし、むしろにっこり笑う僕に向かって吐かれる言葉がテンポよく感じられて、気付けば毎日繰り返されるこの小さなやり取りが楽しくて仕方がなかった。
素の彼女を見られることが嬉しくて、負のものでも、感情を素直に表してくれるのが嬉しくて、今日はどんな反応をするのだろう、明日もやっぱり同じなのだろうか、なんて彼女のことを考えるだけで毎日が鮮やかに輝いた。
いつからかは分からないが、僕は本当に彼女に恋をしているのだと自覚するまでそれほど時間はかからなかった。
彼女は一人でいる時間を好む。
友達がいないわけではない。友達と一緒にいるときは楽しそうに笑い転げているのを見たこともあるし、大学の近くのドーナツ店でだらだらとしゃべり続けているのだって目にした。
だが、例えば授業へ向かうとき、購買へちょっとしたものを買いに行くとき、ときには昼食をとるとき。
彼女はふと思い立ったように一人で行動する。
何か特別楽しそうなわけでも、逆に悲しそうなわけでもない。でも、そのときの彼女はどこかほっとしているような、満足しているような空気を纏う。
僕はそんな彼女が特に好きで、彼女の前に現れるときはいつも彼女が一人でいるときにしていた。
水曜日の1限と2限の間は、彼女が必ず一人で移動する時間だった。
その時間は丁度少しだけ遠回りすれば彼女に会えるため、あの日も僕はもはや何も考えずとも習慣となった道を歩いていた。
もうすぐ彼女に会える。あの少し不思議で居心地の良い空気を纏った彼女に。きっと彼女はまた仏頂面になって低く唸るのだろう。
その様子を想像して上機嫌になっていた僕は、彼女を視界に収めた途端非常に不愉快な思いをすることとなった。
何故そんなにも嬉しそうな顔をする?
何故今にもとろけそうな顔で微笑む?
その男はだれ?
どす黒い感情が溢れだしてきて、でもそれをどうやって扱えばいいのか分からなくて、不機嫌丸出しで結局馬鹿みたいに陳腐な牽制しかできなかった。
だから、余計にイライラして、授業も全く集中できなくて、ふらふらと家に帰ろうとしたときに彼女を見つけてしまったのはタイミングが悪かったとしか言いようがない。
感情の赴くままに行動して、得られたものは僕が彼女にどうしようもないくらい嫌われているという事実だけだった。
*****
「うわあ、泣きそう」
今日は厄日かもしれない。
本来法学部の僕と理学部の彼女では、意図して会おうとしない限り視界に入ることも珍しいというのに、今日はもう3回目だ。
もちろん毎回彼氏付き。
仲睦まじく手をつないでのんびり歩いているのが恨めしい。そんなにゆっくり前を歩かれたら気付かれたくないこちらとしてはそれに合わせてゆっくり歩かなければいけないじゃないか。しかも顔を上げれば否応なしに二人の姿がばっちりだ。
自然と視線は足元へと落とされる。追いつかないようにゆっくりゆっくり。気付かれないようにひっそりひっそり。
何してるんだろう僕、とみじめになりかけたとき「あ!」と叫ぶ彼女の声が聞こえ、下を向いている僕の視界にひらりと舞う紙が1枚飛び込んできた。
嫌な予感とともに顔を上げると驚いた顔で僕を凝視している彼女。そんなに見つめられると照れるじゃないか、なんて冗談が頭をよぎる自分の思考が悲しすぎる。
何の自虐ネタだ。
やれやれと思いながらも顔はすでにしっかり笑顔を張り付けていて、我ながら慣れって恐ろしいと思った。
「これ君の?」
紙を拾って首をかしげる。
「ぇ、あ、うん…」
溜息をつきたくなるのをおさえて、戸惑ったように微妙な返事をする彼女につかつかと近づく。
隣の男がさりげなく彼女の前に立とうと動くのを胸の痛みを感じながら冷めた目で見遣った。
別に何もする気ないんだけど。
「はい、どうぞ」
面倒臭くなってすれ違いざまに男のほうに渡す。
途端に二人揃って怪訝そうな目でこちらを見てきた。
そんなに僕が彼女に近づかないのがおかしいのかな。嫌がったのも邪魔してきたのもそっちなんだけど。
追い越してもまだ背中に注がれる二つの視線に辟易して、イライラが高まって……、雲散した。
――どうでもいい。
だって確かに彼女が好きだけど、恋人から奪ってまで付き合おうなんて思わない。それに彼女があの笑顔を向けてくれるのなら嬉しいけれど、彼女があの男と付き合っていようがいまいが、僕が嫌われているという事に変わりはないのだ。
そう思う一方でざわめく心を感じながら。
ああ、やっぱり今日は厄日だ、と確信した。