零れる言葉
「あー、やばい。まだ心臓ドキドキしてます!」
サイン会が行われた書店から出て少し遅めの昼食をとるべく美味しそうな店を探している間も私のテンションは上がりっぱなしだった。
一応言葉遣いが荒くないことから書店を出た直後よりは落ち着いているはず、とは思うが今脈拍を測れば間違いなく1分間に100回は超えるだろう。
だが春樹先輩も標準語に戻って若干落ち着いてるとは言え、見るからに興奮しているのがまる分かりなので問題ない。
「俺も俺も。あのどう見ても平凡なおじさんにしか見えない人の頭の中であの文章が紡がれていってると思うとなんだか妙にぞわぞわするっていうか」
「分かります!あの人の中に今までとこれからの作品の世界が全部入ってるだなあって」
「すごいよねえ…」
二人揃ってはあぁ、と感嘆の溜息を吐きだす。
一応お店を探すためにぶらぶらしているのだが、私と同様に春樹先輩も昼ご飯なんて二の次だろう。ぶっちゃけおなかなんて空いてない。一応空腹は感じているのだが食べる気分にならないのだ。胸が一杯で食べられないとはこういう状態のことじゃなかろうか。
「憧れるなぁ」
「うん、尊敬するよね。あの人の世界を持つだけじゃなくてそれを文章に表せるのも。俺は書こうと思っても書けない人間だから」
「あはは、私もです。世の中って書こうと思ったら書けちゃう人と、どう頑張っても書けない人がいますよね。私、何度か小説を書こうとしたんですけど、どうしても筆が止まっちゃって」
「俺も一緒。話のプロットとかは書けるんだけどどうしても肉付けがね。滑らかにならない」
「そうそう、そんな感じ。友達には何で本好きなのに文学部じゃないのとか言われるんですけど、書けないのに文学部行ってもねえ。いまいち何してるのか分かりませんけど読むだけなのに文学勉強しても…」
「それよく言われるなあ。お前理系なのに本好きなの?って。本好きに理系も文系も関係ないのにね。あ、陽加里ちゃんココ入らない?あんまり食べる気分じゃないでしょ?」
そう言って春樹先輩が立ち止ったのは様々なパイが並ぶ喫茶店だった。甘いものだけでなくキッシュなども置いてある。少し空腹を抑える程度ならば丁度よさそうだ。
やはり先輩もあまり食べる気分ではなかったらしい。了承の意を示すべく頷いて、カランとベルの音の鳴るドアを開けてくれた先輩に会釈して店に足を踏み入れた。
語った。
時間帯的に適度な込み具合の店内で端の奥まった席に座り、ときどきコーヒーやパイの注文をしながら座り続けて5時間。
いつまでも立つ気配のない迷惑な客となりながら私と春樹先輩はあの作家が如何に素晴らしいかから始まり、数十冊にも及ぶその作品一つ一つの細部にまでわたる非常にマニアックな感想、小説を書きたいのに書けないもどかしさ、レポートが書けても小説を書けないのでは全く嬉しくないといった愚痴も含め、延々と語り続けた。ふと気が付けば外は疾うに暗くなっていて、慌てて時間を確認すると時計は19時半を指していた。
「え、春樹先輩もうこんな時間ですよ!」
「ほんとだ。お店入ってから5時間ぐらい経ってる?もう出ないといけないね」
私が思った以上に過ぎていた時間にわたわたする一方で春樹先輩はゆったりと言う。それを見ると慌てるのが無駄なような気がして少しだけ残っていたコーヒーを味わって飲み干した。
「全然気付きませんでした……」
「俺も。楽しすぎて気づかなかったよ。何も言われなかったことに感謝だね」
悪戯っぽく言った春樹先輩の「楽しい」という言葉にドキッとしたが何もない振りをして「そうですね」とだけ言うと、赤くなってそうな顔を見られないようにまだコーヒーを飲んでいる先輩に背を向けて歩き始める。「あっ待ってよ陽加里ちゃん」と、すぐに追いかけてくる音が聞こえて無性に嬉しくなったが、横に並んだ先輩に「赤くなってる」と笑われますます赤面するはめになった。
「意地悪…」
呟いた言葉は絶対に聞こえたはずなのに春樹先輩は「何か言った?」とすっとぼけた。軽く睨むとにっこり笑顔を向けられた。
……負けた。
話し足りない、と言うことで春樹先輩の家で晩御飯を食べつつ語ることにしたのだが、電車の乗り換えの駅から見える夜景が意外と綺麗で、暫く眺めることになった。
丁度そこは良い夜景スポットになってるのか、同じように眺めるカップルがけっこういて、もしかしたら私たちもカップルに見えるのかもしれないとつい顔がにやけるのを止められない。
「周りカップルばっかりだね」
不意に春樹先輩が小さな声で言った。
「俺たちもそう見えるのかな?」
ちら、とその横顔を見ると少し意地悪な顔をしていた。またからかわれているのだと分かったが視線を夜景に戻して小さく笑い、
「そうかもしれませんね」
とだけ言っておいた。不思議と顔は赤くならなかった。
もう一度春樹先輩の方を見てみると少しつまらなさそうな顔をしていて、それが可笑しくてクスリと笑ってしまう。
「何笑ってるの」
「いいえ、別に」
「へえ」
何だか憮然とした感じの春樹先輩は拗ねているようにも見えて可愛い。
そう感じると同時に、ふと、この人に気持ちを伝えたいと思った。今なら何のてらいも無くこの気持ちが丸ごと全部先輩に届くような気がした。
だから、
「春樹先輩」
夜景を見たまま呼びかける。
「ん?」
春樹先輩が私に顔を向ける気配がした。そちらに身体ごと向き直ると先輩とばっちり目が合った。じっとその眼を見ると引き込まれていきそうな気がした。
――だいじょうぶ。
不意に春樹先輩が私を落ち着かせようとかけてくれた言葉が脳裏をよぎる。
――だいじょうぶ、だいじょうぶ。
ただどこまでも優しいだけの先輩だと思っていた先輩は本当は意地悪で、笑い上戸で、慌てた顔も意地悪な顔も笑った顔も素敵で、ちょっと拗ねると可愛くて、思っていた以上に沢山表情を持っている人だったけど、私はそんな春樹先輩が好きで、好きで、大好きで――、
「好きです」
その言葉はするりと唇から零れ落ちた。
本日二度目の春樹先輩の驚いた顔はしっかり心のアルバムに刻んでおいた。
……つもりだった。
目を真ん丸にした先輩は暫くした後ふっと困ったような苦笑いのような色々と混ざった顔で言ったのだ。
「陽加里ちゃん……告白は俺にさせて欲しかったわ」
と。
はい?と春樹先輩の言葉の意味がよくわからず首を傾げた私をよそに先輩は悔しそうな顔で更に言葉を続けた。
「ああもう、絶対俺から言おうと思ってたのに先越されるとかめっちゃ情けないやん。俺が悪いんか、ヘタレな俺が悪いんかっ」
「え?え?」
先輩は、あああぁぁ、と頭を抱えたかと思うと次の瞬間疑問符が頭の上に浮かぶ私の肩をがっしり掴んで目線を合わせてきた。
「光石陽加里さん!」
「、はいっ!」
改まった呼びかけに反射で返事すると春樹先輩は今まで見たことのない真剣な顔になった。
いつも何かしらの表情を浮かべている先輩の初めて見る顔はとても精悍で、凛々しくて、私は恋い焦がれるように胸が痛くなった。それと同時に目頭がツンとして何か熱いものが喉をせり上がってきた。
次の言葉を言おうと口を開いた先輩を見て、その唇の紡ぐ音が何か分かるような気がした。
――『貴女が好きです。僕は、気付けば貴女のことを目で追っていて、気付けば貴女の声を拾っていて、気付けばいつも貴女のことを考えていて……貴女が本当に好きなんだと分かったときにはもうこの気持ちに歯止めはきかなくて……僕と、付き合ってもらえませんか?』――
夢に出てくる小説で中辻陸斗が言う台詞を、
「君が好きです。俺は、気付けば君のことを目で追っていて、気付けば君の声を拾っていて、気付けばいつも君のことを考えていて……君が本当に好きなんだと分かったときにはもうこの気持ちに歯止めはきかなくて……俺と、付き合ってもらえませんか?」
春樹先輩が、春樹先輩の言葉で言ってくれた途端、私の涙腺は決壊した。化粧が崩れてはかなわないと必死で涙が零れないようにしているのに、水滴は一粒、二粒と転がっていく。
救われた気がした。春樹先輩が中辻陸斗の台詞を言うことで繰り返し見てきた夢から解放された気がした。それが嬉しくて、ほっとして、涙が止まらない。
「はぃ……、はい。喜んで」
ボロボロ泣きながら、それでも精一杯笑った私は次の瞬間には驚きと嬉しさと恥ずかしさのあまり、心のアルバムに刻んだ先輩の表情を一瞬で上書きしてしまった。
背中に回された力強い腕。
頭を支える大きな手。
目にうつる長い睫。
唇に感じる熱。
ココ駅、とか。周り人一杯、とか。今のファーストキス、とか。先輩手が早い、とか。何を言えばいいのか分からず口をパクパクさせるだけの私に「ありがとう」と囁いた春樹先輩は。
それはそれは壮絶な色気を伴った笑みを浮かべていた。
真っ赤になった私がその後電車の中で一言も口を利かなかったのは悪くない。はず。