優しい先輩
「はい、どうぞ」
コトリ、と置かれたマグカップからはゆらゆらと湯気がたちのぼりそこから香る甘いにおいは鼻水が垂れる鼻孔をもくすぐる。
「熱いから気を付けてね」
小さな円卓に肘をつき優しく微笑む先輩を見て心がじわじわと温まっていく。
「ありがとうございます……」
しゃがれた声で呟き目の前のココアをそっと一口飲んだ。
甘い甘い濃厚なチョコレートとミルクの味。
喉を通り胃袋までふわりと温める優しい液体。
おさまったはずの嗚咽がひくっと漏れ、その間隔がどんどん狭くなっていく。
「ッ…すみま、…っく……せんっ、ひ、ク…」
うるんだ視界で先輩が少し目を見開いたあと、こちらに手を伸ばすのが分かった。
「だいじょうぶ」
唄うように言った先輩はぎこちない、でも温かさが伝わってくる動きでゆっくり頭を撫でてくれた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」
静かで心地よい声に私の涙腺は再び崩壊し、大好きな先輩の前で液体を目から鼻からだらだらと流してえぐえぐと泣くはめになった。
――最悪だ。
あのイケメンが立ち去った後、残された先輩と私の間に何とも言えない微妙な空気が漂ったのだが、先輩は明らかに訳ありな修羅場について一言も触れず、ぼろぼろの私を力強い腕で引っ張り立たせてくれた。
「ちょっとゴメンね」
そう断りを入れてから服に付いた土や汚れを払い、涙の溢れる目をハンカチでおさえ、壁に押し付けられて乱れた髪を軽く整えて、と甲斐甲斐しく世話してくれた後、安心させるような声に心配する気持ちを乗せて聞いてきた。
「光石さんもしかして彼と何かトラブルになってる?」
トラブル、ではない。
どちらかというとあれはストーキングだ。いや、それってトラブルなのだろうか?
おそらく実害は被ってないが、ただただ私の神経がガリガリ削られていく。いや、これも実害か?
「ぃぇ゛…、大丈夫でず」
だが、トラブルにしろ何にしろ先輩を巻き込むつもりは一切ない。
これは本当にイケメンと私個人の問題であるし、いくらイケメンからの一方的なアプローチであったとしても第三者から見ればただの痴情のもつれに見えかねない。それを先輩に知られるのは、あの場面を見られた後だとしても恥ずかしすぎた。
そう思って大丈夫だと答えたのだが先輩は眉をひそめて目線を合わせてきた。
「本当に?でも彼、今朝廊下で会った人だよね?あのときも光石さん走って行っちゃったし何か困ってるんじゃないの?」
そう尋ねる先輩は本当に真摯な目をしていて、何だか鼻の奥がツーンとして鼻水が垂れそうになった。慌てて鼻をすすったらズビビビィと思いのほか大きな音がした。恥ずかしい。
「別に無理に話さなくてもいいけど……やっぱり二回もあんなの見ちゃったし、それにここ来る前に悲鳴みたいなのが聞こえたからここに来たわけで…状況的にあれは光石さんの声だと思うんだけど、やっぱり後輩が何か巻き込まれてるんじゃないかって思うと心配だし……うん、ぶっちゃけ気になる。かな。ごめんなんか野次馬みたいでっていうか野次馬精神丸出しだけど…」
そういう先輩は気になる、なんて言いつつも好奇心なんか全然無くて声も表情も『心配だ』っていう思いに溢れていて、今度は鼻の奥だけじゃなく目頭も熱くなってポロリと制止する間もなく涙が一滴こぼれた。それを追うように次々と水滴が頬を伝って落ちていく。
いつも以上に先輩の温かさに触れて、先輩への想いがますます大きくなる。
と、同時に。こんな時でも女とは強からしい。私の頭にはさっきは巻き込みたくないとか知られたくないとか思ったくせに、これはチャンスなんだから利用してしまえという考えが浮かんだ。
「ふぇ、っせんぱあぃ……」
自分でもびっくりするほど細くて頼りなくい甘えた声が出た。ついでに潤んだ目で上目遣いも頑張ってみる。バッチリ目が合ってすぐに逸らした。
「…わたし、あの人に、前に、その……つきあってって言われたことがあって、ことわったんですけど、
でもあきらめられないって、何回も、もぅ、ずっと、ずっと、」
ずっと。何か月だろう?
確かあれは5月のはじめのことだった。うん。初めて返ってきたレポートの評価が思ってたより悪くてすごく悔しい思いをした日だったから合ってる。
そして今は1月。もうすぐ授業も終わり長い春休みに突入する……ん?私この一年ほぼイケメンに付き纏われていないだろうか?
初めて接触したのが5月。今は1月。つまり、8ヶ月、ずっと。
絶句した。
改めて考えてもこれは長い。よく頑張った私。そう思うとさらに涙が出てきて、あたふたする先輩を前に何だか良く分からないけどただ涙を流し続けた。
我に返った先輩が取りあえず落ち着こうか、と学校からほど近い先輩の下宿先まで案内してくれるまで。
「落ち着いた?」
暫く甘える子供のように泣き続けた私が涙と鼻水で大変なことになった顔を洗い、もう数分では修正のしようがないほど赤く腫れた目で洗面所から出ると、ちょうど冷めたのを温めなおしてくれたのかホカホカと湯気をたてているココアを円卓に置いている先輩に微笑みながら聞かれた。
「…はい。あの、みっともないとこ見せちゃってすみません」
恥ずかしさのあまり歯切れの悪い言い方になった私に先輩は「良いんだよ」とでも言うように頭をポンポンとしてくれた。
「ずっと一人で頑張ってたんだろう?光石さんはいつも頑張り屋さんだからね。あれだけ泣いちゃうまで溜め込んでたってことは相当だと思うよ?」
いやあ、教授にこき使われても泣き言ひとつ言わない光石さんが泣くなんて俺すっごいレアなもん見たんじゃない?
わざとお道化た調子でちょっと意地悪そうな顔をした先輩に一気に頬が熱くなるのが分かった。そんな顔するなんて反則だ。
「あはは、光石さん真っ赤」
すぐにいつもの穏やかな笑みに戻った先輩がクスクスと笑う。
「もぅっ、先輩からかわないで下さい!」
頬を膨らませて怒ったふりをした私もすぐに相好を崩して笑ってしまった。
先輩はすごい。いつも温かくて私の心を自然に癒してくれる。
「…なんて言うか、光石さん、その、彼に随分愛されてるんだね」
出会ったときから今までの話(勿論夢のことと喫茶店での暴言は何と言ったのかは言わなかった)をざっと話したところ、先輩は遠い目をした後ものすごく生温かい目で見てきた。
愛されている、という言葉にぞわっと全身が総毛立った。
「…止めてくださいゾッとします」
「はは、ゾッとするって、光石さんも辛口だねえ……あのさ、そもそもどうして光石さんはそんなに彼が嫌なの?まあ判断基準として外見だけで決めるのもアレだけど彼かっこいいし、それに相当優秀だって聞くよ?俺、学年も学部も違うけど彼の噂はよく耳に入るし。中辻陸斗くんだよね?性格も穏やかで人当たりも良いって言われてるみたいだけど……まあ、光石さんの話を聞く限りではなんか物凄い執着心の持ち主だけど、そんなに拒否するような物件じゃないんじゃないかなあ」
痛いところを突かれた、と思うと同時に胸がツキリとした。確かにあのイケメンはとてつもなく優良物件だが、私にとってイケメンが優良であろうと不良であろうと『中辻陸斗』である限り拒絶の対象にしかならない。
それに――、先輩に恋している今、先輩から他のひとを薦められるような言葉を聞くのは辛い。
自然と俯き加減になってしまう。
「ああ、ごめんね。答えなくていいよ。ちょっと気になっただけだから。……まあ、好みは人それぞれだしね…」
「先輩なんだかその言い方、私の好みが特殊みたいに聞こえるんですけど」
先輩の微妙な言い方に、さっきの痛みを取り繕うため間髪いれず突っ込む。
先輩はきょとん、とした顔をした後プッと吹き出した。
「ふふっ、ごめんごめん、そんなつもりじゃ無かったんだけどね…それとも、もしかして光石さん特殊な好みなの?」
あ、まただ。
意地悪そうにニヤリと嗤った先輩はいつもの穏やかな雰囲気なんてどこかに飛んでいってしまったかのように見える。そしてどうやら私はこの顔に弱いらしい。再び顔どころか耳までもが熱を帯びていくのが分かった。赤くなっているのを誤魔化すためにわざとむきになったような台詞を返す。
「私は至って普通の嗜好ですっ!」
「あははっ嗜好って光石さん言葉のセンスも特殊だね」
「『も』って何ですか『も』って!だから私はノーマルですって!」
「ノーマルって!あ、光石さん実は特殊なせいへk」
「ストーーーップ!ピュアな女の子の前で性癖なんて言葉使っちゃいけませんっ」
「え?ピュアな女の子?どこにいるの?っていうか光石さん自分で言っちゃってるよね」
「目の前に!先輩の目の前にとってもピュアな子がいるじゃないですか!」
「あーはいはい。光石さんはすごく純粋な子だよねー。告白されて泣いちゃうぐらいだもんねー」
「っ、間がっ、告白されてから泣くまでの大変な過程が抜けてます!」
「うんうん。よく頑張ったねー」
「ムキィィィィイイイイイイッ!!」
今日初めて知ったこと。
先輩は優しいだけじゃなくてちょっぴり意地悪な人だった。
そして――。
もともと接点なんて何も無かった私と超絶イケメンはこの日以降顔を見ることも無くなった。