恋する乙女
恋をした。
相手は同じ研究室の3年生の先輩。本来なら2歳離れている年齢だが、何を隠そう私は浪人しちゃったりしてるため彼とは1歳違いだ。
先輩は取り立てて顔がいいとか素晴らしく頭が良いとか突出して運動ができるとかではないが、とにかく優しくどこまでも懐が大きく誰もが人として尊敬してしまうような人で、何気に先輩と同じ部活や授業の後輩たちからの人気が高い。
なぜ私が競争率の高さも分かっていて先輩に恋しちゃったのかというと、他大勢の女の子たちの例に漏れずその言葉では言い尽くせないほど出来た人柄に乙女心がキュンと疼いたからである。
一年生にして授業で提出したレポートが面白いと教授に半強制的に研究室に入れられてしまった私に、同じく一年生のときに研究室に引き込まれたという先輩はよく目をかけてくれたのだ。
最近、あの「うぜぇんだよ~以下略。」と言い捨てたあの日からさらに4ヶ月経った今でも相変わらず私の前に現れるイケメン(しかも段々口説く口調が本気になってきている)に心底疲れていた私にとって、先輩の温かな人柄は心に余裕という名の潤いをもたらしてくれるオアシスとなり先輩への尊敬の気持ちはさして時間をかけることなく恋へと形を変えた。
そして、なんと。
次の授業の教室へ移動しているときに私はばったり先輩と出会ったのである。さらに今まで知らなかったが先輩が次に受ける授業の教室は私の向かう教室の隣らしい。
どちらも一人で教室に向かっていたため一緒に歩くことになって私の心はドキドキとウキウキが入り混じって大変なことになっている。
ああ、先輩の落ち着いた声、耳に心地よく響く静かな笑い声。その優しい笑顔はこの世のどんなお顔にも劣らないように見える。
恋とはまさに盲目だ。
だけどそれで良い。とにかく彼と一緒にいられるだけで私は天にも昇るような気持ちになれるのだから。
だからこそ、忘れていた。
あのイケメン(勿論先輩には劣る)が何故か私の時間割を把握しており、行く先々に必ずと言っていいほどの確率で現れることを。
「やあ、楽しそうだね?」
私と先輩の会話を空気の欠片も読まずぶった切ってきたイケメンは露骨に嫌な顔をした私を気にすることなくスタスタと近づいてきて、あろうことか素早く私を抱き寄せた。
「っな、」
予想外の出来事に呆然として動けない私を更に力を込めて抱きしめたイケメンは更に確実に先輩にも聞こえる声で言ってきたのだ。
「ねえ、次のデートはいつにする?今度は君が行きたいとこに行こう」
前回の存在を示唆しながらも今までのような口説き文句とは違った言葉を口にしたイケメンは最後に私の髪に口付け、颯爽と去って行った。
何が起こったのか分からなかった。だが、ひとつ私の頭の中では先輩に誤解される、ということだけがはっきりしていた。
だが、早く誤解を解かなければ、という思いは先輩の困ったような笑い声に間に合わなかった。
「んー、彼、絶対誤解してるよね。睨まれちゃったよ」
参ったなあ…と言いながらも大らかに微笑む先輩は突然のイケメンの行動に乾いた私の心に止めを刺した。
「彼氏くんの誤解、ちゃんと解いてあげてね」
と。
違います。呟いた言葉が先輩に届いたか分からなかったが無性に悲しくなった私は先輩をその場に置き去りにしたまま教室へと走った。一緒にいたら泣きそうだった。
その後はさんざんだった。
授業を受けているときも昼食をとっているときもふとした瞬間に涙が溢れそうになり、何度も慌てて唇を噛み締めた。早く帰りたかったが、イケメンのせいで授業を受けないなんてバカバカしくて最後まで耐えた。
内容が頭に入ったかどうかは別として。
ようやく授業が終わってさっさと荷物をまとめ校門へ足音も荒く歩いていると、突然腕を掴まれて気付いたら目の前にイケメンがいた。珍しくキラキラ笑顔でも色気漂う憂い顔でもなく不機嫌丸出しの仏頂面だった。
「ねえ、あの男だれ?」
言いながら掴まれている腕にかかる力が強くなった。痛い。
「僕の陽加里と一緒にいるなんて許せないんだけど」
誰がいつお前のものになった。
普段なら即座にそう言って掴んでくる手を振り払ってやるのだが、今はそれすらもどうでもよく面倒ですらあった。
口を開くのも億劫でイケメンが腕を離すのを無言で待っていると、また腕を握られる力が大きくなった。血があまり通っていないようでじんじんするだけで、もはや痛みもない。
「……なんで黙ってんの」
「……」
「なあ、なんか言えよ」
「……」
「、クソッ」
いつも優男風を前面に押し出しているイケメンには珍しく吐き捨てるように言うと、何故かそのままぐいぐいと私を引っ張って行き法学部の研究室が並ぶ棟の木で覆われたところの壁に手荒く押し付けてきた。
いわゆる壁ドンというやつである。やっているのが超絶イケメンであるため客観的に見ると非常に眼福なのだが、されている側としては何とも困った状況である。ちなみに初壁ドンだ。嬉しくない。
「で?」
ご丁寧に私の右手首を左手でつかんで軽く押し付け、右肘を壁につくという典型的な壁ドンスタイルを披露してくれたイケメンは物凄く偉そうに、かつ簡潔に、質問に答えるよう促してきた。
「……」
無論、私はだんまりだ。
イケメンに先輩の事を言う義理も、そもそもイケメンを相手にする義理も無い。
「なんか言えっつってんだろ。誰だよアイツ」
「……」
「おい、何度も言わ、」
「あのさあ」
イライラした様子を隠しもせずにもう一度聞こうとしたイケメンの言葉を遮り、億劫だと思いながらも口を開いた私から出た音は自分でも驚くほど低かった。
「っ、何だよ…」
すぅ、と息を吸い込みイケメンを睨みつける。冗談にしろ本気にしろ、もうたくさんだった。
「アンタ何様のつもりなの? もう懲り懲りなんだよね。『君をずっと見てたよ』『君は天使だ』『君のことが好きなんだ』。こんな台詞いい加減聞き飽きたんだけど。なに、甘い言葉でも囁いてれば喜ぶとでも思った? 学内で大人気のあの中辻陸斗に口説かれればこんな地味な女すぐに落ちるとでも思った? 適当に遊んでやれば面白そうとでも思った!?」
ああ、ダメだ。冷静に、なんて思っても感情が溢れてきてどんどん声が荒くなっていく。
「私はっ、アンタなんかに興味はない! 大人しくしとけば調子に乗ってからかって! 思ったよりも面白そうだからって散々ちょっかい出してきて! 挙句の果てに『僕の陽加里』呼ばわりだぁ!? っざけんな! あたしはもうテメぇの顔見るだけで虫唾が走んだ!! 良いか!? もう一回言ってやる」
イケメンの驚いた顔がいつの間にか眼を見開いたまま傷ついた顔になっていた。
それでもぐるぐると渦巻く感情は抑えられなくて、気付けば私の頬には涙が伝っていた。
悔しかった。大好きな先輩の前であんなことされたのが。
悲しかった。先輩に誤解されたのが。
何より――、疲れた。イケメンに絡まれるのも、一々こっちに踏み込まれるのも。
だから、
「うぜぇんだよクソが! さっさと消えろ。二度とあたしの視界に入んじゃねぇ!!」
何度でも、言ってやる。
こいつを、このイケメンをもっと傷つけてやりたい。いつでもチャラチャラした言葉で自分を飾りたて、今まで自分の思い通りにならなかったことなんてなさそうな顔をしている目の前の男のプライドをズタズタにしてやりたい。
そんなドス黒い感情が溢れだしてくる。
低く荒げ、威嚇してきた声はいつの間にか甲高くなっていた。
「離して! 離して!! 触らないでよ! 近づかないでよ!」
掴まれていた手を振りほどこうと、押し付けられた壁から離れようと、もがく。
もがきながら、自分でも何を言っているかわからないけど叫んだ。
「もうイヤ! なんで? 何であたしなの!? 何で邪魔するの!? アンタなんか嫌いっ! 嫌いっ!! 大っ嫌い!!」
最後には悲鳴をあげていた。パニックみたいになってなりふり構わず金切り声を出していた。
ぱたり、と掴まれていた右手が離されて落ちた。
その途端カクンと力が抜けてずるずるとしゃがみ込む。
イケメンは壁についた右腕に頭をのせて下を向いたまま何も言わない。もう外は暗くなっていてその表情は見えなかった。
カサリ。
不意に誰かが地面を踏む音と、私の大好きな、でも今は一番聞きたくなかった声が聞こえた。
「光石さん?」
顔を上げると少し先には戸惑った顔でこちらを見ている先輩がいた。この状況をどう捉えるべきか迷っているようだった。だが、先輩が何か言うよりも先にイケメンが動いた。
「ごめん」
ぽつりと一言だけ零したイケメンはそれだけ言うとサッと身を翻し足早に去って行った。ちらりと見た顔は月明かりに照らされ、その目元で何かがキラリと光ったように見えた。