私の嘘を信じてください!!
(姫)
「殿下。私、呪われているんです」
そう告げると、アルノー殿下は目を丸くした。
「呪い?」
「はい。満月の夜までに、真実の愛を育むことができなければ、私は死んでしまうのだそうです」
もちろん、嘘だった。そんな呪いなど、私の家には伝わっていない。そもそも、呪いにかかっているという話自体、今この場で考えたものだった。
けれど、ほかに方法が思いつかなかったのだ。
私はアルノー殿下が好きだった。
初めてお会いしたときから、ずっと。
殿下は誰にでも優しかった。身分の低い者にも、失敗をした者にも、分け隔てなく微笑みかける。私が何気なく話したことを覚えていてくださったり、困っているときに手を差し伸べてくださったりしたこともある。
そのたびに、私は期待した。
もしかしたら、私のことを特別に思ってくださっているのではないか、と。
しかし、そんな期待はいつも裏切られた。
殿下にとって、私は大勢いる知人の一人にすぎないのだ。
それでも好きだった。
だから、最後に一度だけ、夢を見てみたかった。
「……私に、できることはあるかい?」
殿下は、私の話を疑わなかった。
その優しさが、今はひどく苦しかった。
「真実の愛を育めば、呪いは解けるのだろう?」
「……はい」
「なら、私が君を救うよ」
ああ。
この人は、本当に優しい。
だからこそ、私はひどい嘘をついている。
「ありがとうございます、殿下」
私は笑った。
泣いてしまわないように、精一杯笑った。
***
(王子様)
正直に言えば、私は困っていた。
イリスが呪われているという話を、信じていないわけではない。いや、正確には、信じるしかなかった。
彼女はひどく真剣な顔をしていたし、嘘をついているようには見えなかった。
それに、もし本当だったら。
彼女が死んでしまうとしたら。
私は、何もしないでいることなどできなかった。
「真実の愛、か……」
私は執務室で一人、ため息をついた。
恋愛というものが、私にはよくわからない。
もちろん、誰かを大切に思うことはある。家族も、友人も、臣下たちも。
しかし、それが恋愛感情なのかと聞かれれば、答えに困ってしまう。
イリスのことだって、嫌いではない。
むしろ、好きなほうだと思う。
だが、それは彼女を恋人にしたいという意味ではなかった。
それでも、彼女を救うと約束したのだ。
「……やるしかないか」
私は本を閉じた。
恋愛について書かれた本を何冊読んだところで、答えが見つかるとは思えなかったが。
少なくとも、何もしないよりはましだろう。
***
最初の数日は、ひどいものだった。
私はイリスを食事に誘い、庭園を散歩し、彼女の好きな本を尋ねた。
しかし、何をしてもぎこちない。
「殿下、今日はどうなさったのですか?」
「どう、とは?」
「いつもより、ずっと私に優しい気がして」
「……いつも優しくしているつもりだけれど」
「ふふっ。そうですね」
彼女は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ると、私は少しだけ安心した。
これでいいのだろうか。
彼女が喜んでくれるなら、きっと間違ってはいない。
そう思っていた。
ところが、一週間もすると、妙なことが起こり始めた。
イリスが笑っていると、私も嬉しくなった。
彼女が好きだと言った菓子を見かけると、つい買ってしまった。
彼女がほかの者と楽しそうに話していると、なぜか声をかけるタイミングをうかがってしまう。
そして、別れ際に彼女が寂しそうな顔をすると、もう少し一緒にいたくなった。
おかしな話だ。
私は、彼女を救うために一緒にいるのだ。
それなのに、彼女と過ごす時間を、いつの間にか楽しみにしていた。
「殿下?」
「……ああ、すまない。少し考え事をしていた」
「お疲れなのですか?」
「いや。大丈夫だよ」
そう答えると、イリスは私の顔をじっと見つめた。
「無理はなさらないでくださいね」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
私は思わず笑ってしまった。
「ありがとう、イリス」
彼女も笑った。
その瞬間、私は思った。
この笑顔を、ずっと見ていたい。
……いや、違う。
彼女を救わなければならないからだ。
そう、自分に言い聞かせた。
***
(姫)
殿下と過ごす日々は、夢のようだった。
朝にお会いできるかもしれないと思うだけで、目覚めるのが楽しみになった。
殿下が私の好きな本を覚えていてくださったときは、嬉しくて仕方がなかった。
私が話している間、殿下はいつもきちんと耳を傾けてくださる。
時には、私の話など退屈ではないかと思うこともあった。
けれど、殿下は決して話を遮らなかった。
私は、その優しさが好きだった。
そして、そんな殿下が、少しずつ変わっていくのを感じていた。
最初はどこか遠慮がちだったのに、最近は殿下のほうから話しかけてくださる。
私が何かを言おうとすると、先に気づいてくださることもあった。
もしかしたら。
もしかしたら、本当に。
そんな期待をするたびに、私は自分を責めた。
これは嘘なのだ。
私は呪われてなどいない。
満月が来ても、死んだりはしない。
それなのに、殿下は私を救おうとしてくださっている。
私は、なんて卑怯なのだろう。
「イリス?」
「はいっ」
「どうかしたのかい?」
「い、いえ。何でもありません」
殿下は少し心配そうな顔をした。
「そうか。何かあったら、いつでも話してほしい」
「……ありがとうございます」
私は俯いた。
もう、十分だった。
これ以上望んではいけない。
殿下の優しさを、これ以上利用してはいけない。
満月まで、あと三日。
私は、その日にすべてを終わらせると決めた。
***
(王子様)
満月まで、あと三日。
私は、イリスの部屋を訪ねた。
最近、彼女の様子がおかしかったからだ。
以前よりも笑顔が減り、時折、何かを言いかけては口を閉ざす。
私が彼女を救うと約束したのに、何か不安にさせることをしてしまったのだろうか。
そんなことを考えながら扉を叩くと、彼女はすぐに出迎えてくれた。
「殿下……」
「少し、話をしないか?」
彼女は頷いた。
部屋に入ると、イリスはベッドの端に腰掛けた。顔色が悪い。
「大丈夫かい?」
「……はい」
「本当に?」
彼女は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「殿下。私、謝らなければならないことがあるんです」
「謝る?」
「はい」
彼女の手が、小さく震えていた。
「……実は、嘘なんです」
意味がわからなかった。
「何が?」
「呪いです。そんなもの、最初からなかったんです」
私は言葉を失った。
イリスは俯いたまま、続けた。
「殿下に、好きになってほしかったんです。私のことを、特別に思ってほしかった。だから……あんな嘘をつきました」
声が震えていた。
「ごめんなさい。殿下が私を救おうとしてくださったことも、一緒に過ごしてくださったことも、全部、私が嘘をついたせいです」
私は、すぐには何も言えなかった。
怒るべきなのだろうか。
騙されたのだから、そうする権利はあるはずだ。
けれど、彼女の顔を見ていると、そんな気持ちは少しも湧いてこなかった。
ただ、悲しかった。
彼女が、こんなにも苦しんでいたことが。
そして、私自身が、何も気づいていなかったことが。
「……どうして、今になって話してくれたんだい?」
「これ以上、嘘をつきたくなかったからです」
彼女は涙をこらえていた。
「殿下は、優しい方です。私が呪われていると言ったから、助けようとしてくださった。私が喜ぶから、一緒にいてくださった。でも、それは……」
彼女は唇を噛んだ。
「本当の気持ちじゃないんです」
その言葉に、私は胸を突かれた。
本当の気持ち。
私は、彼女と過ごした日々を思い返した。
彼女が笑ったとき、嬉しかった。
彼女が好きだと言ったものを見つけると、教えてあげたくなった。
彼女と別れるとき、もう少し一緒にいたいと思った。
それらはすべて、彼女を救うためだったのだろうか。
私は、そう思っていた。
そう思おうとしていた。
けれど。
「……イリス」
「はい」
「君が呪われていないのなら、もう、私が君を救う必要はないのだね」
彼女は、小さく頷いた。
「……はい」
「では、もう一つ聞いてもいいかな」
私は、彼女の目を見た。
「君は、私と一緒にいたいと思ってくれているのかい?」
彼女は驚いたように顔を上げた。
「……え?」
「呪いがなくても。私が君を救わなくても。君は、私と一緒にいたいと思う?」
彼女は、しばらく何も言わなかった。
やがて、その瞳から涙がこぼれた。
「……はい」
小さな声だった。
けれど、確かな答えだった。
「私は、殿下が好きです。ずっと、ずっと好きでした。殿下が私を好きでなくても、一緒にいられるだけで幸せでした。でも……本当は、私を好きになってほしかった」
私は、その言葉を聞いて、ようやく気づいた。
彼女は、私を騙した。
けれど、彼女の気持ちまで嘘だったわけではない。
そして、私もまた。
「……そうか」
私は、彼女の隣に腰を下ろした。
「私も、君に謝らなければならない」
「殿下が、ですか?」
「ああ。私はずっと、君を救わなければならないと思っていた。君と過ごす時間が楽しくなっても、それは君を救うためなのだと、自分に言い聞かせていた」
彼女は、黙って私の話を聞いていた。
「けれど、君が呪われていないと知った今、私は……」
言葉が途切れた。
怖かった。
ここで認めてしまえば、もう言い逃れはできない。
彼女を救うためでも、約束を守るためでもない。
ただ、私自身が望んでいるのだ。
彼女と一緒にいたい。
彼女に笑っていてほしい。
彼女が私以外の誰かを見つめているところを想像すると、少し寂しい。
そして何より、彼女が私の隣にいてくれることが、嬉しい。
「……私は、君のことが好きなんだと思う」
イリスが息を呑んだ。
「え……?」
「いや、違うな」
私は苦笑した。
「思う、ではない。私は、君が好きだ」
言ってしまえば、ひどく簡単なことだった。
どうして今まで、認められなかったのだろう。
「君が呪われていようと、いまいと。君が私を好きでいてくれようと、そうでな
かろうと。私は、君と一緒にいたい」
彼女は、呆然と私を見つめていた。
やがて、目元を押さえた。
「……そんなの、ずるいです」
「ずるい?」
「だって、私……もう、諦めようと思っていたのに」
その声を聞いて、私は彼女の手にそっと触れた。
「すまない」
「謝らないでください……」
イリスは泣きながら笑った。
「私、今、とても嬉しいんです」
その笑顔を見たとき、私は初めて、何の言い訳もせずに思った。
ああ。
私は、この人が好きなのだ。
***
(姫)
夢を見ているのだと思った。
だって、あまりにも都合がよすぎる。
私は嘘をついた。
殿下を騙して、私を好きになってもらおうとした。
そんな私が、どうして報われていいのだろう。
「……本当に、私のことが好きなんですか?」
思わず尋ねてしまった。
殿下は困ったように笑った。
「何度でも言うよ。私は、君が好きだ」
「でも、私、嘘をついたんですよ?」
「知っている」
「殿下を、騙したんです」
「うん」
「……嫌いになりませんか?」
殿下は、少しだけ考えた。
「君の嘘は、許されることではないのかもしれない」
胸が痛んだ。
けれど、殿下は続けた。
「それでも、君を好きになったことまで、なかったことにはできないよ」
私は、とうとう泣いてしまった。
ずっと欲しかった言葉だった。
ずっと、聞きたかった言葉だった。
けれど、こんなふうに聞くことになるなんて、思ってもいなかった。
「……私、殿下が好きです」
「うん」
「大好きです」
「ありがとう」
殿下は、私の手を握った。
温かかった。
それだけで、胸がいっぱいになった。
「ねえ、殿下」
「うん?」
「私、これからは嘘をつきません」
「そうしてくれると嬉しいな」
「だから……私が殿下を好きだということだけは、信じてください」
殿下は、私の手を握る力を少しだけ強めた。
「信じるよ」
それから、微笑んだ。
「私も、君を好きだから」
***
(王子様)
満月の夜が来た。
イリスは死ななかった。
当然だ。呪いなど、最初から存在しなかったのだから。
彼女は少しだけ気まずそうにしていたが、私は彼女を責めなかった。
もちろん、すべてが許されたわけではない。
嘘をつかれたことには、今でも思うところがある。
だから、彼女には一つだけ約束してもらった。
これからは、何か不安なことがあったら、嘘をつく前に私に話してほしい、と。
彼女は真剣な顔で頷いた。
そして、その翌日。
「殿下、今日は何をなさるんですか?」
「君と庭園を散歩しようと思っていたんだけれど」
「本当ですか?」
「本当だよ」
彼女は、花が咲いたように笑った。
私は、その笑顔を見て思った。
ああ、やっぱり。
私は、この笑顔が好きなのだ。
呪いがなくても。
期限がなくても。
彼女が死んでしまうかもしれないという恐怖がなくても。
私は、彼女と一緒にいたい。
「……イリス」
「はい?」
「これからも、私と一緒にいてくれるかい?」
彼女は目を丸くした。
それから、少しだけ頬を赤くして、笑った。
「もちろんです、殿下」
私は彼女の手を取った。
今度は、救うためではない。
彼女を安心させるためでもない。
ただ、彼女と手を繋ぎたかったから。
***
(姫)
私は、あの日のことを忘れないだろう。
自分の嘘を告白したときの、殿下の悲しそうな顔。
私の言葉を聞いて、静かに考えていた殿下の横顔。
そして、私の手を握ってくださった、その温かさ。
私は、間違えた。
好きになってほしいからといって、嘘をついた。
本当なら、許されないことだったのだと思う。
それでも、殿下は私の手を取ってくださった。
そして私は、もう嘘をつかなくていい。
好きだと伝えてもいい。
一緒にいたいと願ってもいい。
殿下が私を好きだと言ってくださることを、信じてもいい。
「ねえ、殿下」
「うん?」
「私、思うんです」
「何を?」
「きっと、私たちは真実の愛でつながっているんだわ」
殿下は少しだけ目を伏せた。
それから、私の手を握り直した。
「……そうだね」
私は笑った。
殿下も笑ってくれた。
真実の愛。
それは、最初からそこにあったものではなかったのかもしれない。
私の嘘から始まった関係。
殿下の優しさに甘えた日々。
互いの気持ちがわからず、遠回りをした時間。
けれど、そのすべてがあったから、私たちは今、ここにいる。
私は、殿下の手を握り返した。
もう、何も隠さなくていい。
もう、失うことを恐れて嘘をつかなくていい。
私は、好きな人と一緒にいる。
そして、その人もまた、私と一緒にいたいと思ってくれている。
それ以上に幸せなことが、この世界にあるのだろうか。
私は、そう思った。




