甘噛み姫
なんでもあり。
「──…ふーっ、ふ」
俺がお仕えしている姫様は、ご自身の手の親指の付け根を噛みながら、その目に涙を浮かべていた。
この国の第四王女である俺の主人、アビゲイル様はちょっとばかし残念な人だ。
顔はいい、背が低く童顔なのも一部から庇護欲をそそられるタイプだろう。
立場だって、4番目の王女とはいえ、王族なのだ。
悪いわけがないんだが、なんとも不遇なのが、俺の主人なのだ。
だから、こんな下っ端の俺が専属護衛騎士になんかになっちまうんだ。
「エノトリー、見てないで、水を取ってちょうだい…」
「はっ、ただいま」
ついでに世話係もいないから、姫様は自分の身の回りのことは自分でできる。
こうやって、手を甘噛みしている時くらいなもんだ、俺が手伝うのは。
水差しを持って近づいていくと、姫様は猫の威嚇ぐらいフーフーと息が荒かった。
「……背中でもさすりましょうか?」
「余計なことはしないでちょうだい。…ただの発作なんだから」
「失礼しました」
コップに水を注いで、俺はすぐに部屋の扉の前へと戻る。
これが、俺と姫様の適切な距離。
姫様は潤んだ目で睨みながら、水をグビグビ飲み切った。
到底、淑女にもご令嬢にも見えないお姿だが、それも姫様が悪いわけではなかった。
何世代、いやもっと前、何十世代も前に、人間と魔族は互いの領域を侵し合って、争い合っていた。
そして、戦争の終わりを迎えるために、和平のための両者から花嫁が捧げられることとなった。
こちら側に来た魔族の花嫁は、当時の王弟殿下の花嫁になったというのがこの国の歴史だ。
その魔族は、吸血型の魔族だったらしい。
アビゲイル王女殿下は、その先祖返りを一身に受けているお姫様だ。
おかげで、王族の中では敬遠されて、こんな端っこの離宮に追いやられているし、貴族からも『魔族姫』と揶揄されている。
どこかの人間へと降嫁させるかも悩みの種らしく、一部からは魔族の花嫁にやってはどうかという意見も出ているんだとか。
まあ、一介の騎士の俺には関係ないことなんだけど。
姫様は吸血衝動に駆られると、ああしてご自身の手を甘噛みする。
そして、収まるのをじっと待っている。
ただ、それだけのことだった。
姫様曰く、「人の血なんて飲みたいと思ったことはない。この血が欲しているのは、魔族の血よ。で、そんなことしてみなさい?外交問題になって一発で私の首が飛ぶわ」とのこと。
凄まれながら言われたので、よく覚えている。
「はあ…っ、疲れた…」
ようやく発作が終わったのか、姫様は額にうっすら汗をかきながら、椅子の背もたれにもたれかかるように脱力した。
姫様の下に配属されて半年、ああやって耐え忍んでいる姫様を見るのは、もう何十回目だろうか。
「エノトリー、第四王女って美人ってまじなの?」
下っ端騎士たちはみんな宿舎に暮らしているため、俺も食堂に戻ってきたら、今日はやたらと絡まれた。
なんだ?
「あー…、そりゃあ王族らしい風貌な方だけど、なんで?」
俺は疑問をそのまま口にしながら、飯を口に運ぶのはやめなかった。
姫様は夜はいなくていいと言うけれど、あの離宮に一人きりにさせるのも、騎士として憚れる。
だから、食事はさっさと済ませて、離宮前に戻りたい。
専属騎士が俺しかいないから、昼間のために体力温存しとけと言われればそうなんだけど…。
姫様への人員、俺だけってどう考えてもおかしいんだよなぁ。
「夜間手当ては出ないのに、精が出るわね」と姫様が呆れたように笑ってくれるから、それで十分だとも思っている。
あの人の周りには、人がいない。
いつも、一人だ。
俺くらいいてもいいんじゃないかと、思ってしまう。
それは騎士の領分を越えているから、やっぱり夜間用の騎士を派遣してもらうのが一番だよなぁ。
申請は出しているけど、全く通らん。
この国は、姫様が大事ではないんだろうか。
「お前は離宮にいるから知らないだろうけど、最近は第四王女殿下の噂で持ちきりなんだよ」
「ご本人は滅多に表に出ないのに、なんでまた?」
「第二王女殿下が結婚先相手を渋っているらしい」
「…?」
「ほら、大国に何世代かに一度花嫁を送っているだろう?それが今世代の番なんだけど、第二王女殿下が行きたくないって言い始めたんだと」
「それで、なんで第四王女殿下の噂になるんだよ」
俺はスプーンで掬う手が止まりながら、首を傾げた。
第一王女殿下はもう隣国へと嫁がれた。
順当にいって、次は第二王女殿下で間違いないはずだ。
「『私ではなくて、醜い第四王女を嫁がせればいいじゃない!』と豪語しちまったらしい」
騎士たちの同情ののったなんともいえない苦笑いと、ニヤついている奴とを見て、「あー…」と俺はそれ以上何も言わないまま、ご飯を食べ進めた。
姫様は、ここでも冷遇扱いか。
「エノトリー、夜は来なくていいって言っているでしょう?」
そう言いながらも、離宮の外の扉に立っている俺に、あたたかい飲み物を持ってきてくれた。
これでは、どちらが世話を焼いているかわからない。
「ありがとうございます。夜間用の騎士の申請はしているんですけどねぇ」
「そんなの来ないわよ」
「俺が来る前はどうしてたんですか」
「あなたの前には乳母しか覚えていないからわからないわ」
「そうですか」
俺はマグカップをヒョイと上げて、「ごちそうさまです」と笑った。
「ほどほどにしときなさいよ」と言って、姫様は扉の向こうへと消えていった。
翌朝、ガツンと頭に何かが当たって起きた。
振り返ると、姫様が扉を開けて驚いていたのを見て、あのまま寝ちまったんだと気づいた。
「…おはよーございます、姫様」
「あなた、宿舎に帰らなかったの?バカね」
「みたいです」
「そこの井戸に水を汲みに行くけど、あなたも来る?顔、洗っちゃいなさいよ」
「ありがとうございます」
寝ぼけたまま目を擦って、姫様の後ろをついていく。
俺よりもうんと背が小さくて、か細そうで、意志の強そうな背中が朝日に照らされて眩しかった。
「姫様って、食事も自分で作ってますよねぇ。誰に教わったんですか?」
俺は力仕事くらいさせてくださいと、姫様の代わりに井戸の水を汲み上げながら訊いた。
「乳母ね。私の境遇は悪くなる一方だったから、一人でも生きていけるようにって」
「小さい頃は違ったんですか?」
「そうね。少なくとも今よりは人がいたわね」
平然と言う姫様は、いつも通りかっこよかった。
この人は、かっこいいんだよなぁ。
「あなたには、…悪いことをしたと思ってる」
それなのに、姫様は珍しく歯切れ悪く、俯いた。
「何がですか?」
「お父様がね、16歳の誕生日に何が欲しいかって訊いてくださったの」
「えっと…、なんの話ですか?」
「ちょうど乳母の引退も決まっていたから、使用人をお願いするつもりだったのよ。私に仕えたがらない者ばかりだから、お父様も人材を探すのに一苦労でね」
「はあ…」
俺は今、なんの話をされているんだろうか。
「だから、誰か一人つけてほしいって言うだけのつもりだったの。そしたら、騎士団長があなたを推薦したのよ」
「えっ、そんな話、聞いたことないですけど」
「『貴族出身のくせに野心がなくて無害な男がいますよ』って」
「それ、褒められてないですよね?」
「私ね、お姫様が騎士に護られる絵本が好きだったの。だからね、魔が差しちゃったの。おかげであなたはここに追いやられた、出世もあんまり期待できないかも。ごめんね」
姫様が珍しくいっぱい喋るなぁと思ったら、気づいたら謝られていた。
そんなことを思っていたのか。
「俺は、ただの近衛騎士の下っ端です。王族の方々に仕えるのが本分です。姫様がそのようにおっしゃることは何一つないように思います。あと、出世は面倒なのでできれば避けたいです」
俺がそう答えると、姫様は目を丸くして、いつものようにけらけらと笑いそうになったのだけれど。
「……んっ!」
「姫様?」
「エノトリー、離れて…!」
姫様は持っていた水差しを投げて、自分の手を甘噛みし始めた。
発作だ、吸血衝動に悩まされているんだ。
「姫様…!」
「いいからっ、大丈夫だから…!」
肩を支えようとして、振り払われた。
騎士とは主を守ることなのに、こういう時の俺は本当に役立たずだなと思う。
井戸から水を汲み直して、姫様に差し出す。
「水です、姫様」
「──…ふっ、ふー」
「大丈夫ですか」
差し出した俺の手が、肩で息をしてフラフラしている姫様の唇に当たってしまった。
あっ、と思って、やっぱり体を支えようと思った時には、遅かった。
姫様は水をまた払いのけて、俺の指をガブリと噛んだ。
何が起こっているかわからなくて、本気で時間が止まったと思う。
姫様が俺の人差し指を噛み噛みしながら、息を整えていた。
思いっきり噛まれるのとは違って、やわやわな感触が、なんともくすぐったくて──。
だけれど、驚いているのは俺だけじゃなかった。
「……なんで?」
「姫様、あの、大丈夫で」
「どうして吸血衝動が収まるの!?エノトリー、あなた何かした!?」
「えっ、されるがままでしたが…」
「こんなの生まれてはじめてだわ!あなた、おかしいわ!乳母の手を噛んだ時だって、こんなふうにはならなかったのに!」
姫様は困惑半分怒り半分で、怖い顔で髪を振り乱していた。
なぜだか俺が怒られているみたいだ、なんでだろう。
「…文献で見た、『特別な異性にのみ気が収まる』ってこれのこと?じゃあ、なに。魔族以外でもよかったわけ?私、魔族に嫁がなくてもいいってこと?」
なにやらぶつぶつ言っている姫様の目が血走っていて、俺は騎士なのに腰が引けた。
姫様を支えようと地面に膝をつけていた体が、おずおずと下がっていく。
たぶん、今逃げないとまずいことになる…。
それは本能的にわかったが、姫様の唯一の騎士としては逃げられなかった。
「エノトリー!あなた、私に協力なさい!」
「…な、なにを?」
「次、吸血衝動に駆られたら、あなたの手を貸しなさい。また甘噛みするわ!」
「大変申し上げにくいんですが、未婚の姫様がそのようになさるのは外聞がよろしくない…」
「そんなものとっくの昔に悪くて、ないようなものよ!そんなことよりもっと大事なことがあるの!!!」
姫様は俺の胸ぐらを掴んで、俺を押し倒していた。
このか弱そうな細い腕のどこにそんな力があるんだ。
「私にとって一大事なの!あなたを噛んだら、昂った気持ちがすぐにおさまったの!こんなこと今まで一度だってなかった!あなたを噛んで済むなら、こんなにいいことはないわっ!」
「まぐれだったかも…」
「だから次から協力しなさいと言っているのよ!あなたが気になるというなら、あなたに降嫁したっていいわ!」
「はああ!?血迷いすぎですって!というか、俺、出世したくないんですよ!」
「あら、曰く付きの姫をもらうんだから、出世どころか爪弾きかもよ?」
「それ、堂々と言わないでくださいよぉ〜…!」
俺は興奮している姫様をどうにか引き剥がそうと起き上がったが、姫様はとどまるところ知らなかった。
「ねえ!お願い!甘噛みさせてくれるだけでいいの!あとは、あなたのしたいようにしていいからっ!」
「それ、他の人に言っちゃダメですからね!?頼みますから、姫様暴走だけは勘弁してください」
「それも含めて、あなたが見張ってなさい」
「んな無茶苦茶な」
「エノトリー、あなた私の騎士でしょ!?守ってくれるわよね!?」
こんなに取り乱している姫様ははじめて見るので、よっぽどすごいことが起きているんだろうとは、さすがの俺でもわかる。
だがしかし、俺は姫様の理性から姫様を守る必要もできたってことか…?
「……善処します。あと、突然噛むのはやめてください」
「努力するわっ!」
嬉々として嬉しそうな姫様にこれ以上なにも言えなくて、俺は頭を抱えるしかなかったのだった。
なんか、おかしなことに巻き込まれたことだけはわかる…。
ううっ、美人の可愛い見た目が好みの立場上の女性に指をしゃぶられて何もしなかった俺、偉くない…!?
誰か代わってくれと思う気持ちと、誰かに代わったらまずいだろという気持ちとで、もう一度俺は頭を抱えた。
その横で、姫様の大はしゃぎな笑い声が聞こえてくる。
本当に勘弁してくれぇ……。
了
お読みくださりありがとうございました!!
毎日投稿205日目。(寝るまではセーフとします、うん)




