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わずか五キロの毘沙門天と雷神

掲載日:2026/02/22

草木も眠る丑三つ時。

我が家では皆がぐっすりと眠りについていた。

時計の針の音とかすかな寝息だけが、静かに聞こえる。


真夜中の二時から二時半までは、鬼門と呼ばれる時間帯。

お化けや幽霊が出やすいのだそうだ。


そんな静寂が包む真っ暗な場所から、

二つの光が、睨むように発光しているように見えた。


その光は、光の筋を残し、一瞬にして消え去る。

そして物陰からそっと覗き込むように、また光がちらついていた。


「……むにゃむにゃむにゃ」


誰かの寝言に、その光が反応し、低く床伝いに光が動いた。


「こりゃ! ミケ!」


怒鳴るようなその寝言に、光が突如として雷鳴となり、とどろく。

物音を立てながら、地響きを起こすように静寂を打ち破った。

凄まじい轟音を立てながら、雷が空気を引き裂くような音。

その音は、遠ざかったと思えば、また近づき、何かにぶつかる。


「ガガガガガッ、ダダダダダッ、ドンッ」


壁にぶち当たる音とともに、何かが床に落ちる。

まるで台風が直撃したかの如く、凄まじい大立ち回りが始まったのである。


「がががら、がしゃ―――ん!からんからんからん……」


家の飼い猫のミケが、雷様となって覚醒したのだった。

廊下を駆け抜ける音。

床をひっかきながらの方向転換。

何かビニールを巻き付けたように、カシャカシャと音が移動する。


私は布団の中で目を閉じたまま、必死に現実を拒絶していた。


――違う。これは夢だ。


そう思い込もうとするたびに、廊下の向こうで何かが倒れる。

今度は、金属のような音だった。

ガシャーン、と何かが砕け散る音が響く。

確実に何かが割れた音だ。


それでも、夢だと私は必死で自分を説得した。

胸の鼓動が秒針より速く、ドキドキとうずくように耳に響く。


昔、祖母が言っていた。


「丑三つ時に光る目と目を合わせてはいけないよ」


その言葉が、不意に脳裏をよぎる。

私は、見てはいけないものを、さきほど確かに見た気がするのだ。

闇の奥に、二つの光。

それは、うちの飼っている猫の目だと分かっている。

分かっている、はずなのに……。


再び、ダダダダダッ――!

風が走る。

いや、風ではない。

ミケだ。


廊下はもはや直線ではない。

弧を描き、螺旋を描き、空間そのものが歪んでいるようにすら感じる。

本棚の影から、また光が現れる。

今度は低い。

床すれすれを滑るように移動する。

忍者か。

いや、雷神だ。

次の瞬間、ベッドの端が沈んだ。


「ぐふっ」


私の腹部に、五キロの雷が着地した。


やっと静寂が戻った。


ミケは何事もなかったように丸くなり、喉を鳴らす。

ゴロゴロというその音は、先ほどまでの地鳴りとは別種の振動だった。

まるで、

世界が無事であることを確認する合図のように。

私はそっと目を開ける。


闇は、ただの闇に戻っていた。

だが。

廊下の奥。

一瞬だけ。

もう一つの、光が――


「シャーーーーッ」


その威嚇とともに、家は再び嵐が吹き荒れる。

今度は黒猫のクロが、風神と化している。


それでもミケは、まるで何事もなかったかのように丸くなって寝ていた。

ついさきほどまで、廊下を疾風のごとく駆け、壁に体当たりし、得体の知れない何かと戦っていたとは思えぬ落ち着きぶりである。


暗闇の中、私は薄く目を開ける。

障子の隙間から差し込む月の光が、廊下に黒い影を映し出している。


闇に紛れ、目だけが煌々と光るクロの眼光。

風神というより、武神の如き威圧を放っていた。


――本当に、ただの夜中の運動会だったのだろうか。

丑三つ時。

鬼門。

この世とあの世の境が、もっとも薄くなる刻。


祖母はよく言っていた。


「夜中に騒ぐ猫はね、何かを追い払ってくれてるんだよ」


あのときは笑って聞いていた。

だが今は、笑えない。

あの二つの光。

あれは、確かに獲物を追う目だった。

遊びではない、狩りの目。


低く床を滑る動きも、壁へぶつかったあの勢いも、

ただの気まぐれでは説明がつかない。


私はそっと廊下を見る。

そこには何もない。

倒れたスリッパと、転がった空き箱だけ。


だが、空気がどこか澄んでいる。

重たいものが、消えたあとのような静けさ。


ミケの喉が、ゴロゴロと鳴る。

その振動が、腹の奥に伝わってきた。


まるで結界のようだ。

守られている――


そんな錯覚。


いや、錯覚だろうか。

もしも、あの大立ち回りが、見えない何かとの攻防だったとしたら。

もしも、あの雷鳴のような足音が、我が家を守るための出陣だったとしたら。


ミケは今夜も、任務を果たしたのだ。

私は小さくつぶやく。


「ご苦労、雷様」


するとミケは、片目だけを薄く開けた。

その瞳は、もうただの猫の目だった。


……いや。


ほんの一瞬だけ、金色に鋭く光った気がした。


クロもようやく落ち着いたようだ。


午前二時半。

世界は再び眠りにつく。


だが、もしも次の丑三つ時に、また雷鳴が轟くなら。

私はきっと、安心して布団をかぶるだろう。

なぜなら我が家には、

小さな守護神がいるのだから。


家の中は竜巻が通り過ぎたように荒れ果てていたが、うちのクロは、モップの棒を抱え、オレンジ色のビニールにくるまれ、宝塔のようなガムテープの丸まったゴミを左手にくっつけていた。


その姿は、まるで毘沙門天のようにカッと目を見開き、ガムテープをぬぐう姿は憤怒のごとく口を開き牙を光らせていた。


――戦は終わった。


そう告げるかのように、ミケとクロはゆっくりと頭を舐め合う。


私はベッドから起き上がり、スリッパを履く。

ガムテープが床を擦り、ぺたり、と鈍い音を立てた。


私は呆然と立ち尽くす。

廊下には倒れたスリッパ。

散乱するチラシ。

転がる空き箱。

なぎ倒された観葉植物の葉。


まるで妖怪の百鬼夜行が暴れ回った後のようだ。


しかし、不思議なことに。

空気は澄んでいた。


さきほどまで感じていた、あの重苦しい気配が、ない。


窓の外では、風もないのに、かすかにカーテンが揺れる。

私は、直感的に何かに気づいた。


あの丑三つ時の光。

低く床を走った影。

壁へと体当たりしたあの衝撃。


あれは、ただの夜中の運動会ではなかったのではないか。


もしや。


もしや、我が家に入り込もうとした「何か」を、追い払ったのではあるまいか。

毘沙門天は、もともと武神である。

邪を払い、福を招く守護神。


目の前のクロは、いまだ興奮冷めやらぬ様子で、オレンジ色のビニールを引きずりながら小さく唸っている。


その姿は滑稽でありながら、どこか神々しい。


「……ご苦労さまです」


思わず、私は頭を下げた。

その瞬間、クロはふっと我に返ったように、ガムテープを放り投げる。


ぺたん。


そして何事もなかったように前足を舐め始める。

毘沙門天、毛づくろいに入る。


しばらくして、クロは大きなあくびをひとつ。

牙の鋭さも消え、ただの眠たげな飼い猫に戻っていた。


だが。

その足元に転がったガムテープの輪が、まるで結界の名残のように見えるのは、気のせいだろうか。


午前二時半。

鬼門は閉じられた。

再び訪れる静寂。


私は荒れた部屋を見回し、ため息をつく。

片付けは明日にしよう。

なにしろ我が家は今夜も、守られたのだから。


布団に戻ると、ミケが当然のように腹の上に乗る。

ずしり、わずか五キロの我が家の守護神。


その重みを感じながら、私は目を閉じた。

遠くで、かすかに秒針が進む。

もし次の丑三つ時に、また雷鳴が轟くなら。


そのときもきっと――

毘沙門天と雷神が、我が家を守るために出陣する。


頼んだぞ、我が家の守り神。


挿絵(By みてみん)

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