わずか五キロの毘沙門天と雷神
草木も眠る丑三つ時。
我が家では皆がぐっすりと眠りについていた。
時計の針の音とかすかな寝息だけが、静かに聞こえる。
真夜中の二時から二時半までは、鬼門と呼ばれる時間帯。
お化けや幽霊が出やすいのだそうだ。
そんな静寂が包む真っ暗な場所から、
二つの光が、睨むように発光しているように見えた。
その光は、光の筋を残し、一瞬にして消え去る。
そして物陰からそっと覗き込むように、また光がちらついていた。
「……むにゃむにゃむにゃ」
誰かの寝言に、その光が反応し、低く床伝いに光が動いた。
「こりゃ! ミケ!」
怒鳴るようなその寝言に、光が突如として雷鳴となり、とどろく。
物音を立てながら、地響きを起こすように静寂を打ち破った。
凄まじい轟音を立てながら、雷が空気を引き裂くような音。
その音は、遠ざかったと思えば、また近づき、何かにぶつかる。
「ガガガガガッ、ダダダダダッ、ドンッ」
壁にぶち当たる音とともに、何かが床に落ちる。
まるで台風が直撃したかの如く、凄まじい大立ち回りが始まったのである。
「がががら、がしゃ―――ん!からんからんからん……」
家の飼い猫のミケが、雷様となって覚醒したのだった。
廊下を駆け抜ける音。
床をひっかきながらの方向転換。
何かビニールを巻き付けたように、カシャカシャと音が移動する。
私は布団の中で目を閉じたまま、必死に現実を拒絶していた。
――違う。これは夢だ。
そう思い込もうとするたびに、廊下の向こうで何かが倒れる。
今度は、金属のような音だった。
ガシャーン、と何かが砕け散る音が響く。
確実に何かが割れた音だ。
それでも、夢だと私は必死で自分を説得した。
胸の鼓動が秒針より速く、ドキドキとうずくように耳に響く。
昔、祖母が言っていた。
「丑三つ時に光る目と目を合わせてはいけないよ」
その言葉が、不意に脳裏をよぎる。
私は、見てはいけないものを、さきほど確かに見た気がするのだ。
闇の奥に、二つの光。
それは、うちの飼っている猫の目だと分かっている。
分かっている、はずなのに……。
再び、ダダダダダッ――!
風が走る。
いや、風ではない。
ミケだ。
廊下はもはや直線ではない。
弧を描き、螺旋を描き、空間そのものが歪んでいるようにすら感じる。
本棚の影から、また光が現れる。
今度は低い。
床すれすれを滑るように移動する。
忍者か。
いや、雷神だ。
次の瞬間、ベッドの端が沈んだ。
「ぐふっ」
私の腹部に、五キロの雷が着地した。
やっと静寂が戻った。
ミケは何事もなかったように丸くなり、喉を鳴らす。
ゴロゴロというその音は、先ほどまでの地鳴りとは別種の振動だった。
まるで、
世界が無事であることを確認する合図のように。
私はそっと目を開ける。
闇は、ただの闇に戻っていた。
だが。
廊下の奥。
一瞬だけ。
もう一つの、光が――
「シャーーーーッ」
その威嚇とともに、家は再び嵐が吹き荒れる。
今度は黒猫のクロが、風神と化している。
それでもミケは、まるで何事もなかったかのように丸くなって寝ていた。
ついさきほどまで、廊下を疾風のごとく駆け、壁に体当たりし、得体の知れない何かと戦っていたとは思えぬ落ち着きぶりである。
暗闇の中、私は薄く目を開ける。
障子の隙間から差し込む月の光が、廊下に黒い影を映し出している。
闇に紛れ、目だけが煌々と光るクロの眼光。
風神というより、武神の如き威圧を放っていた。
――本当に、ただの夜中の運動会だったのだろうか。
丑三つ時。
鬼門。
この世とあの世の境が、もっとも薄くなる刻。
祖母はよく言っていた。
「夜中に騒ぐ猫はね、何かを追い払ってくれてるんだよ」
あのときは笑って聞いていた。
だが今は、笑えない。
あの二つの光。
あれは、確かに獲物を追う目だった。
遊びではない、狩りの目。
低く床を滑る動きも、壁へぶつかったあの勢いも、
ただの気まぐれでは説明がつかない。
私はそっと廊下を見る。
そこには何もない。
倒れたスリッパと、転がった空き箱だけ。
だが、空気がどこか澄んでいる。
重たいものが、消えたあとのような静けさ。
ミケの喉が、ゴロゴロと鳴る。
その振動が、腹の奥に伝わってきた。
まるで結界のようだ。
守られている――
そんな錯覚。
いや、錯覚だろうか。
もしも、あの大立ち回りが、見えない何かとの攻防だったとしたら。
もしも、あの雷鳴のような足音が、我が家を守るための出陣だったとしたら。
ミケは今夜も、任務を果たしたのだ。
私は小さくつぶやく。
「ご苦労、雷様」
するとミケは、片目だけを薄く開けた。
その瞳は、もうただの猫の目だった。
……いや。
ほんの一瞬だけ、金色に鋭く光った気がした。
クロもようやく落ち着いたようだ。
午前二時半。
世界は再び眠りにつく。
だが、もしも次の丑三つ時に、また雷鳴が轟くなら。
私はきっと、安心して布団をかぶるだろう。
なぜなら我が家には、
小さな守護神がいるのだから。
家の中は竜巻が通り過ぎたように荒れ果てていたが、うちのクロは、モップの棒を抱え、オレンジ色のビニールにくるまれ、宝塔のようなガムテープの丸まったゴミを左手にくっつけていた。
その姿は、まるで毘沙門天のようにカッと目を見開き、ガムテープをぬぐう姿は憤怒のごとく口を開き牙を光らせていた。
――戦は終わった。
そう告げるかのように、ミケとクロはゆっくりと頭を舐め合う。
私はベッドから起き上がり、スリッパを履く。
ガムテープが床を擦り、ぺたり、と鈍い音を立てた。
私は呆然と立ち尽くす。
廊下には倒れたスリッパ。
散乱するチラシ。
転がる空き箱。
なぎ倒された観葉植物の葉。
まるで妖怪の百鬼夜行が暴れ回った後のようだ。
しかし、不思議なことに。
空気は澄んでいた。
さきほどまで感じていた、あの重苦しい気配が、ない。
窓の外では、風もないのに、かすかにカーテンが揺れる。
私は、直感的に何かに気づいた。
あの丑三つ時の光。
低く床を走った影。
壁へと体当たりしたあの衝撃。
あれは、ただの夜中の運動会ではなかったのではないか。
もしや。
もしや、我が家に入り込もうとした「何か」を、追い払ったのではあるまいか。
毘沙門天は、もともと武神である。
邪を払い、福を招く守護神。
目の前のクロは、いまだ興奮冷めやらぬ様子で、オレンジ色のビニールを引きずりながら小さく唸っている。
その姿は滑稽でありながら、どこか神々しい。
「……ご苦労さまです」
思わず、私は頭を下げた。
その瞬間、クロはふっと我に返ったように、ガムテープを放り投げる。
ぺたん。
そして何事もなかったように前足を舐め始める。
毘沙門天、毛づくろいに入る。
しばらくして、クロは大きなあくびをひとつ。
牙の鋭さも消え、ただの眠たげな飼い猫に戻っていた。
だが。
その足元に転がったガムテープの輪が、まるで結界の名残のように見えるのは、気のせいだろうか。
午前二時半。
鬼門は閉じられた。
再び訪れる静寂。
私は荒れた部屋を見回し、ため息をつく。
片付けは明日にしよう。
なにしろ我が家は今夜も、守られたのだから。
布団に戻ると、ミケが当然のように腹の上に乗る。
ずしり、わずか五キロの我が家の守護神。
その重みを感じながら、私は目を閉じた。
遠くで、かすかに秒針が進む。
もし次の丑三つ時に、また雷鳴が轟くなら。
そのときもきっと――
毘沙門天と雷神が、我が家を守るために出陣する。
頼んだぞ、我が家の守り神。




