1.8 崖っぷち令嬢の決意
「ゲイリード!」
現れたのは、セシリアの父コンラート付きの従者であり、この屋敷で最も古くから仕えている老僕、ヨハン・ゲイリードであった。
「お父さまは?」
「先程、お休みになられました。商人とやらの話を耳にされ、体調を崩されたようでございます」
セシリアの表情が曇る。
「・・・そう、それは心配です。くれぐれも無理なさらないように、気をつけてついていて差し上げて」
「はい、承知致しました、セシリア様。・・・ところで、その商人なのですが」
ゲイリードは、まるで時間の流れから切り離されたかのような男だった。
白髪は丁寧に櫛で後ろへ撫で付けられ、纏っている黒灰色のコートは仕立てこそ古いが、皺一つなく、銀のボタンは鏡のように磨き上げられている。
「このゲイリードに考えがございまして。先程伯爵にも許可を頂きましたので、お伝えに参りました」
ゲイリードは静かに一歩踏み出し、セシリアの手に、白い手袋をした己の手を重ねる。
「お父さまが?」
「はい、左様でございます。つまらない野良犬の相手でお嬢さまをこれ以上煩わせる訳に参りません。そのような始末はどうぞこの老僕にお任せくださいますれば」
まるで重くのしかかった岩の塊が溶けていくようだった。
気付かぬうちにこんなにも身体が強張っていたのかと思う。
セシリアはふと気を抜くとこぼれそうになる涙を慌てて堪えて、小さく頷いた。
「では、お願いします。ルーカス、貴方も」
「はい、お嬢さま」
二人が控えの間に向かって出ていくのを、セシリアは扉にもたれて見送り、深いため息をついた。
「うわぁ、ゲイリード、激オコだねぇ・・・」
背後から聞こえた感心するような声に、思わず吹き出した。
声の主は見なくても分かる。
ヴァルトハイム家の嫡男、リオン・アインハルト・フォン・ヴァルトハイム、セシリアの幼い弟であった。
「何されるんだろうね、あの人」
リオンは、ゲイリードの相手に心から同情しているようだった。
「・・・・確かに、あんなに怒っているのは久しぶりに見るわね・・・って、そんな言葉、どこで覚えたの、リオンたら」
やんちゃな弟の肩を抱きしめると、セシリアよりも濃い蜂蜜色の緩い巻き毛から、草原の新緑の匂いがした。
「苦しいよ、姉上。知らないの?街の子は普通に使うよ」
笑い声を上げながら身を捩らせるリオンの頭頂部に頬を当てて、そっと目を瞑る。
頬にやわらかい髪が触れる。
「そう、先生とはよく街へ出掛けるの?」
リオンは日中の大半を家庭教師との学習や修練に費やすのが常だった。
「うん、昨日はマセウス先生とローヴェイル森の方まで出掛けてこのあたりの地形と特徴について学んだし、そうそう、ジャムにする実も採って来れたし」
リオンはセシリアの手をとって書斎に入ると、肘掛け椅子にセシリアを座らせた。
「それから、午後は弓の練習も頑張ったの。僕、弓の腕は褒められた!」
得意そうに腕を組むと、にっこりと微笑んでみせ、本棚から地形学の分厚い本を引き抜いた。
「本を読むだけの講義は苦手だけど、実際に見て回って講義を聞くのは楽しいから好きなんだ!先生の話はとても面白いよ」
リオンは頬杖をついてページをめくりながら、如何に地形と人の暮らしが影響しあっているかを語った。
「本当に楽しそうね。マセウス先生が実践主義で良かったわね」
「姉上も一緒に来たら良いのに。まだ風はちょっと冷たいけど、天気の良い日はとても気持ちが良いし、きっと姉上も楽しいと思う」
リオンは思いついたように、書斎からテラスへと通じる扉を開け、セシリアをテラスへ連れだした。
微かに湿り気を帯びた春の風が、セシリアの頬を撫でる。
ヴァルトハイムの屋敷のたつ小高い丘からは、ローデルク領地が一望できた。
白い石造りの欄干に手をかけて身を乗り出せば、眼下には遮るもののない、圧倒的なパノラマが広がっていた。
春の西陽が領地を斜めに照らし、フローリスの街を黄金色に染めている。
街の広場に建つ教会の尖塔が細長い影を伸ばし、街道に並ぶ家々の赤茶色の屋根からは、煙突の煙がいくつも立ち上っている。
視界をさらに遠くへ巡らせれば、西陽を反射して銀色に光るテネウ川が草原を悠々とうねりながら横切り、その流れは、やがてローヴェイルの深緑の森へと吸い込まれるように消えて行く。
森の色彩はいつしか銀灰色へ霞み、濃い霧に覆われ、その先には蒼灰色の山脈が静かに座している。
稜線が薄紫の空と溶けるように柔らかな境界をなしていた。
「ほら、見て!」
リオンがはしゃぎ声を上げながら、テネウ川にかかる橋を指差し、明日赴くその川がどんな重要な役割を担っているかを語り、ついでに美味しい魚を釣ってくると約束した。
リオンの家庭教師、エドモン・マセウスは元は王宮で勤めていた男で、測量や調査などを行っていたと聞いている。博識なだけでなく行動派のようでリオンはとても懐いていた。
「お魚、楽しみにしているわ。村へ行くならお弁当と一緒に教会にジャムを持って行ってちょうだい。ヘレーネに託けておくわ」
母親と同じ暖かい茶色の瞳。
セシリアは、亡くなった母親にそっくりな弟の屈託のない笑顔をそっと見つめた。
ヴァルトハイム家は、ローデルク領を治める伯爵家である。
代々、忠実な軍人として王を支え、派手さはないが実直な領主として知られてきた。
だが数年前、アレンハイト王国全体を襲った歴史的な大雨はすべてを変えた。
各地で山は崩れ、街道は寸断され、川は溢れ、畑も村も大きな被害を受けた。
ヴァルトハイム家当主のコンラート・フォン・ヴァルトハイムは、迷うことなく
その年と翌年の地代と税を免じ、蓄えを切り崩して領地の復旧と救済にあたった。
それにより他の領地に比べ、餓死者や領地を捨てて逃げる者は少なく、暴動も起きなかった。
しかし農地を含め各所の復旧もすぐに元通りという訳にはいかなかった。
伯爵家の財は急速に痩せ細っていった。
元々保守的な領地経営を行なってきた家であり、新しい収入源を持たないまま、農地や牧場などの領地の収益も長期間停滞してしまった。
追い打ちをかけるように、王都から疫病が流れ込んだ。
洪水の後で衛生状態が悪化したこと、大雨による凶作で多くの領民が栄養不足だったこともあり、病は瞬く間に広がった。
領地内の教会は、多くの病人で溢れ返った。
セシリアの母は、自ら教会に赴き、必要な品を届け、聖職者とともに献身的に看病を行なった。
そして同じ病に倒れ、帰らぬ人となった。
葬儀の翌日から、コンラート伯爵もまた寝室から出てこなくなった。
表向きには、従軍の折に患った胸の病が悪化したため、療養中ということになっている。
昔からの付き人、ゲイリードのみ控えさせ、ほとんど人前に姿を現さなくなった。
セシリアは、弟の笑顔の奥に、今も母の面影を見る。
だからこそ、この家を、この領地を、守らねばならないのだと思う。
差し当たっては弟の成人の儀に相応しい舞台の備えをしなければならない。
それには途方もない額の資金が必要で、今のヴァルトハイム家の財政では絶望的に近い。
だが、セシリアの中に一つの考えがまとまりつつあった。
まだあやふやで不確実なそれは急速に形をなしていく。
気付けばセシリアは、街を、その中の一点を熱心に見つめていた。
ミラヴェルのお家の事情に続き、セシリアのお家の事情も少し。




