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1.4 遠い記憶と目覚め

もうどれくらいそうしていたのだろうか。

窓辺に揺れる木の葉を眺めるうち、いつのまにか取り止めもない考えに耽っていた。

春の訪れを告げる愛らしい黄色い花の、爽やかな甘い香りが、記憶を呼び覚ます。

思い出していた。


ちょうど今のように、日差しが暖かくなり始め、屋敷の裏に広がる谷のあちこちを白や黄色の小さな花の絨毯が彩り、涼しい風に乗って届く爽やかな香りに人々がそわそわしていたあの季節。

来るべき儀式に向けた、目も眩むような準備の日々。

連日続くドレスの採寸、肖像画のためにあくびを堪えて長時間耐える、退屈な午後。

様々な大きさ、形の箱に入れられ届く祝いの贈り物の数々。

淡い光沢と吸い付くような手触りの絹のドレスに、ふんだんにあしらわれた霞のようなレース。



季節が流れ、全ての用意を整えて訪れる、白銀に染まった王都。

初めての社交界を控え、眠れなかった夜。

降りしきる雪の中、御伽の国に連れて行ってくれるように見えた四頭立ての馬車。

外の静寂から一変、ヴァイオリンの調べ、さざめく笑い声、音の洪水、色とりどりの宝石で着飾った大人達と溢れる光、衣擦れの音と香水、ゴブレットに注がれる金色の果実酒、魔法のような夜の世界。


そして、その豪華絢爛な舞台の中心で皆の視線を一身に浴びていた、美しい少女。


「お嬢さま」


呼びかける声に、思考が引き戻された。


「お嬢さま、やはりご気分が優れませんか」

セシリアは身を正すと、鏡越しに声の主に顔を向けた。

「ごめんなさい。ちょっと考えごとをしていたの」



髪を梳かす手を止めて、心配そうな視線を向けるメイドに、セシリアは微笑んでみせる。

「クララ、本当に、私は大丈夫よ。心配しないで。それより、彼女は?」


クララと呼ばれたメイドは、セシリアの笑顔を見てほっとした表情を見せたのも束の間、続いた問いに顔を強張らせた。再びセシリアの淡い金糸のような髪を梳かしながら、慎重に告げる。

「あの・・・・まだ熱はありますが、大分落ち着いて、もう峠は越したようだと」

「・・・そう、良かった。正直、最悪の事態も覚悟していたから」

「ええ・・・ですが、お嬢さま、そのぅ・・」

クララは躊躇うように言いかけ、言葉を詰まらせた。

「何かあったの?」


言いにくそうに顔を上げたクララは

「・・・・あの方、怖いんです・・・」

普段から八の字の眉をいっそう情けなく下げ、丸い瞳を潤ませた。


(・・・・クララもなのね)

ミラヴェルに直接応対する者は限られているが、同様の訴えはすでに届いていた。

唯一、家政婦長のヘレーネだけが眉一つ動かさずに仕えている。

「お嬢さまのお客様に対して申し上げることでないのは重々承知しております、ですが、あの方は・・・!」


クララは堰を切ったような勢いで言葉を続けた。

「いえ、声を荒げたり手をあげたり、そういうことはなさらないんです。ただ、なんていうか、その・・・目が」

思い出すだけで恐ろしいのか、クララは、震える手でブラシを握りしめ

「何か人でないものを見る目というんでしょうか・・・いえ、もっとこう、虫を見るような、冷ややかな・・・もう、思い出すだけで・・・」


「生きている事に謝罪したい気持ちでいっぱいになるんです・・・」


・・・・病人の介護をしているだけでそのような気持ちになるとは、どういう状況だろうか。

「あの目で見つめられると、何もできなくなってしまうんです、こう、空間が凍りつくというか・・・」


セシリアは漆黒の髪のヘビがトグロを巻いて八の字眉のカエルと睨み合う様子を想像した。

「ヘレーネはそんなこと言っていなかったけど」

「あの方は・・・」

クララは、ぷっくりした頬を膨らませて断言した。

「あの方は、そう、マングースです!一緒にしないでください・・・!」

マングース。

クララも同じ想像をしていたようだ。

セシリアは髪一筋乱れのない髷を結ったマングースを想像し、

「なるほど」

思わず納得するセシリアの髪を器用にピンで止めながらクララは熱心に頷く。


「誰がマングースですか」

背後から届いた冷静な声に振り返ると、トレイにポットと茶碗をのせたヘレーネが立っていた。

「・・・!!・・・あの、いえ!」

「クララ、厨房で手伝いが必要だと呼んでいます。急いでちょうだい」

「・・・はい!失礼します」

セシリアは、ブラシやピンを手早く仕舞い慌てて退室するクララの後ろ姿、そして落ち着いた様子で茶の用意をするヘレーネへと視線を移し、この家政婦長の慌てたところを見たことがあるかしら、と首を傾げた。



セシリアが突然見ず知らずの病人を連れ帰ってもヘレーネは動じず、また詳しいことも聞かなかった。

運ばれた人物を見るや否や、クララやルーカスに指示を出し、自身も無駄のない動きで処置を始めた。

使われていない部屋の寝具にかかった覆いを外させ、毛布を運ばせ、濡れた衣服を脱がせて身体を乾かし、湯たんぽと温石をいくつも用意して冷えた身体を温めた。

セシリアはただオロオロとするばかりで、何一つ役に立たなかった。



事件遭遇から二日が経過していた。

あの夜、川岸に打ち上げられ、気絶している彼女を発見したセシリアとティモは、まだ息があるのを確認すると急いで濡れた身体を外套で包み、ティモの釣り用の荷車に乗せているところに戻ってきたルーカスと共に取り急ぎ屋敷へと運んだのだ。

見ず知らずの人間を屋敷に入れることに反対するルーカスに、事情は後で話すからといい含め、半ば無理矢理連れてきたのを良かったのか悪かったのか、今も判断できずにいた。

ちなみにこの従者の機嫌は未だに悪く、セシリアが機嫌を取ろうと話しかけてもどこかよそよそしい。

事件の翌日も、教会へ運んだ男の容体を聞きに街へ行こうとすると、自分が1人で行くと言い張り聞き入れないので、領主の代行として教会へ礼に行くのだと強引に主張したところ、苦虫を百匹すり潰して飲んだような顔をしてみせた。

「ああ、あの日お嬢さまに一緒に来て欲しいなどというのではなかったッ!」

悔やみきれないという感情を全身で余すところなく表して、2人を招き入れた司祭と若い修道士を困惑させた。

司祭と修道士の話では、ルーカスが運んだ男は脇腹に切り傷があったがそう深くはなく、応急処置を施して寝かせていたが、朝になって若い修道士が様子を見に行くとその姿はなかったという。彼を運んだ荷馬車も消えていた。



また、ボフミルについてさりげなく話を振ってみるが、こちらはさしたる収穫はなかった。

教会の後で広場に向かい、衛兵の詰め所に立ち寄って前日の街の出入りの記録を確認すると、事前の届出通り、ボフミルとその妻は買付の名目で街を出ていた。

予定では7日間となっているが、通いの下働きの者は戻りの予定について何も聞いていないと言い、その予定の真偽は不明だった。



そのまま2人は無人となった宿、ローゼンハインに足を向けた。

この宿は実のところ、ヴァルトハイム伯爵家所有の宿であった。

先代伯爵が、街を訪れる商人や巡礼者のために建てたもので、広場にほど近い便利な場所に位置していた。



自己所有故に得られる収益が他よりも高く、伯爵家にとっては貴重な収入源であったのだが、当代も先代も直接の経営に携わることを厭い全てを他者に委任してきた。



貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをせねばならぬ



その「ふさわしい振る舞い」の中に労働や金勘定は含まれていないという考えだった。

それはセシリアも幼い時から折りに触れ聞かされてきたものだ。

貴族は貴族らしく。

それは即ち国へ尽くすことを意味し、領地の統治を意味し、そしてそれに専念することを意味した。



ルーカスが鍵を開けた扉の奥には、埃っぽく雑多な酒場の様子が見えた。古くなった油と、湿気のこもった臭い。

セシリアはしばらくそのまま見入っていたが、何も言わずに、そのまま屋敷へ戻ってきたのだった。



「この間皆で摘んで干していたのが丁度良くできあがったんですよ」

ヘレーネがポットに湯を注ぎ、慣れた手付きで白磁のカップに淡い黄金色の液体を注いだ。

「ありがとう。そう言えばもうこの花の季節なのね」

「ええ、もうすぐ春告祭ですから、お嬢さまも無理なさらず。身体を壊しては元も子もありませんよ」

ふわりと鼻腔をくすぐる独特の香り。屋敷の裏の谷で採れた白い花を干して作ったハーブティーだ。

以前は舶来品の紅茶を飲むのが通常だったが、この香りにも慣れてしまった。

リラックス効果が高く、ここ数日続いた緊張を解きほぐしてくれるような香りだった。

セシリアは白磁のカップを両手で包み、しばらく無言でじっと見つめていた。

何かを考えている様子だったが、立ち上がると

「ヘレーネ、彼女の様子を見にいくわ」


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