1.2 宿の異変
春の黄昏には独特の匂いがあった。
雪解け水の冷たい気配と土の湿り気が混ざり合い、
草の青みを含んだ風が頬を撫でていく。
領主の館を出ると、並木道がなだらかに曲線を描きながら街へと続く。
左右には羊を放した放牧地が広がり、小さな農家の煙突から煙が空に薄く立ちのぼるのが見える。
緩やかな丘を下るにつれ、街の家々の漆喰の壁と赤茶色の屋根が姿を現す。
白く塗られた木柵には陶器の吊り鉢が掛けられ、薄桃色や青紫の小さな花が鮮やかな彩りを添えている。
夕餉の支度の匂いがどこからともなく漂い、通りには家路につく人の姿がまばらに見られた。
件の宿は、広場から一本通りを入った奥の、静かな場所にあった。
正面には石畳の広い前庭があり、その一角が馬車の向きを変えるための回し場になっている。
宿に隣接した馬小屋に馬をつなぐと、二人は正面の扉へ向かった。
宿は二階建てで、堅牢な木組みと淡い漆喰壁が上品な佇まいをつくり出している。
深い軒と広い出入口、そして正面を支える重厚な梁柱には、華美さこそないものの、
旅人を誠実に迎えてきた宿らしい静かな風格が宿っていた。
いまは外壁にわずかな汚れが残るものの、建物そのものはしっかりとした造りだった。
だが、開かれているはずの扉には固く鍵がかかっている。
中からは人の気配もなく、灯りもひとつも漏れてこない。
念のためノックをしてみるが、応答はない。
「裏を見てきます」
ルーカスが短く告げ、建物の影へと向かう。
セシリアは外套の襟を押さえながら周囲を見渡した。
宿の正面にある、馬車の向きを変えるための小さな回し場に刻まれた泥の轍が目についた。
荷馬車が通った跡らしく、重い荷を積んだとき特有の深い線が、
広場とは反対側――川へ向かう細い道へと続いている。
「・・・ルーカス」
視線は跡を追ったまま従者を呼ぶと、ちょうど戻ってきた青年はランタンを片手にしていた。
「物置も薪置き場も不自然なほど空です。仕入れに行くにしては妙です」
「そうね、営業を停止するとは聞いていないし・・・」
話しながら、セシリアは轍を辿るように細道へと歩みを進めた。
ルーカスも跡に気付いたのか、道へ視線を向けたまま、セシリアの傍らに続く。
小さな木立を抜けると、前方に川辺の開けた場所が現れ、その先には桟橋があった。
桟橋のそばには荷馬車が止まっており、その近くに二人の男の姿が見える。
短い怒鳴り声が風に乗り、断片的に耳へ届いた。
「・・・そんな話は聞いてねえ! これ以上――」
「・・・は既に・・・・・・様の・・・おい!!」
セシリアは思わず歩みを止め、草むらへ身をかがめた。
「お嬢さま・・・!」
「シッ・・・」
指を立てて制し、男たちへ視線を向ける。
数度しか会ったことはないが、そのうち一人は、宿の経営者ボフミルに間違いなかった。
離れた距離からでも、2人の剣呑な様子は感じ取れた。
押し殺した怒声が途切れ途切れに響く。
「離せって言ってんだろうが!」
「黙れ、今さら――」
夕陽の名残が急速に色を失い、空は藍に墨を落としたような群青へと沈んでいく。
男たちの影が絡み合い、桟橋の上で激しく揺れる。
「――ぐぁっ!!」
低い呻き声。片方の男がそのまま桟橋に倒れ込む。
木板が鈍い音を立て、身体が転がる。
倒れた男は微動だにせず、その隣で、もう一人が荒く息を吐いていた。
「畜生……!」
男は倒れた男の肩を乱暴に押して何かを確認すると、周囲を警戒するように見回し、
桟橋に繋がれた小舟へと飛び乗った。
川面はすでに深い群青に沈みつつあり、
逃げ出した舟の姿はすぐに影だけとなって遠ざかっていく。
セシリアが行き先を見ようと身を乗り出したそのとき――
大きな水音が闇の中で跳ね上がった。
ドボンッ。
重いものが落ちたような、鈍く深い音だった。
舟が急に進みを止め、男の怒鳴り声が短く漏れる。
男はどうやら落とした荷を回収しようとしているらしく、舟の影が何度か不自然に揺れた。
だがほどなく諦めたのか、甲高い悪態をひとつ吐き捨てると、
小舟は再び水をはねて、闇の向こうへ猛スピードで去っていった。




