初任給と、初めての出会い
金色の文字が、網膜に焼き付いて離れない。
[タナカ部長 様から ¥10,000 のスーパーチャットが贈られました:これは面白い! 来週の月曜、このスキルについて朝一で報告書を提出したまえ!]
「ひぃっ……!」
健人は短い悲鳴を上げると、這う這うの体で配信終了ボタンを叩いた。なぜだ。なぜ仮想空間にまで部長がいるんだ。しかもご丁寧にスーパーチャットまで付けて。挙句の果てに、報告書を要求されている。これは悪夢だ。間違いなく、過労が見せた悪夢に違いない。
一人、草原の真ん中で頭を抱えてうずくまる。心臓は恐怖で早鐘のように鳴り響き、冷や汗が背中を伝った。もうログアウトしよう。二度とこの世界に来るものか。
そう思った時、視界の隅にあるメニューアイコンが目に入った。『クリエイターダッシュボード』。先ほどの収益が確認できる場所だ。どうせ部長からの一万円だけだろうが、見ないことには始まらない。健人は震える指で、そのアイコンをタップした。
表示された画面を見て、健人は自分の目を疑った。
【本日の推定収益: ¥ 38,750】
「……は? さんまん?」
桁を一つ、見間違えたかと思った。もう一度見る。だが、数字は変わらない。内訳を確認すると、田中部長からの一万円の他に、数十人の視聴者から百円、五百円といった細かな投げ銭が大量に送られていた。さらに、視聴者数に応じた広告収益が数千円。合計で、三万八千七百五十円。
三十分にも満たない、初めての配信で。
ゴクリ、と喉が鳴った。
健人が命を削って稼ぐ、深夜残業の時給は千五百円にも満たない。この金額は、健人が地獄のような苦しみを味わいながら、朦朧とする意識の中で二徹、三徹してようやく手にできる金額だ。それが、たったの三十分で。
「これで……」
声が、震えた。
「これで、人生を……変えられるかもしれない」
会社の評価でも、上司の機嫌でもない。自分自身の、あの誰にも評価されなかった「社畜スキル」が、金を生んだ。現実を叩きつけられたような、強烈な衝撃。それは、恐怖を上回り、健人の心の奥底で長いこと死んでいた「希望」という感情に、火を灯した。
もう迷いはなかった。健人は顔を上げると、決意を新たにマップを開き、最初の目的地である「始まりの街」へと歩き出した。
◇
街は、活気に満ち溢れていた。
石畳の道を様々な種族のプレイヤーが行き交い、露店からは威勢のいい声が飛んでくる。鍛冶屋のハンマーが打ち鳴らされる音、酒場で吟遊詩人が奏でる陽気な音楽。すべてが、健人のいたモノクロの世界とは正反対の、鮮やかな色彩に満ちていた。
だが、その活気は、今の健人には少しだけ眩しすぎた。周りのプレイヤーは皆、いかにもファンタジー世界の住人らしい、きらびやかな装備に身を包んでいる。それにひきかえ、自分は初期装備の布の服一枚。まるで大企業のオフィスに、間違って迷い込んでしまった就活生のような気分だった。
どこに行けばいいのか、何をすればいいのか。右も左も分からず、広場の中央で途方に暮れていた、その時だった。
「あの、すみません!」
鈴が転がるような、明るい声が背後からかけられた。
振り返ると、そこに立っていたのは一人の少女だった。蜂蜜色の髪をサイドテールに揺らし、動きやすそうな軽装鎧をまとっている。大きな瞳は好奇心に輝き、その屈託のない笑顔は、太陽そのもののようだった。
健人がこれまで相手にしてきた、腹に一物も二物も抱えた人間たちとは、あまりにも違う。その眩しさに、思わず目がくらみそうになった。
少女は健人の姿をまじまじと見つめると、ポン、と手を叩いた。
「やっぱり! あなた、KENTOさんですよね? さっきのパワポの人!」
「え、あ、はい……」
いきなり「パワポの人」という、不名誉なんだか名誉なんだか分からない呼ばれ方をされ、健人はたどたどしく頷いた。少女はぱあっと顔を輝かせると、ぐいっと距離を詰めてきた。
「あなたの配信、すっごく面白かったです! 私、ファンになっちゃいました! あのパワポの魔法、一体どうやったんですか!? 見たことないユニークスキルですか!?」
マシンガンのように繰り出される質問に、健人は圧倒されるばかりだ。だが、その瞳には、純粋な好奇心と賞賛しか含まれていない。疑いや嫉妬、軽蔑といった、健人が日常的に浴びせられていた負の感情はどこにもなかった。
「えっと、あの……あなたは?」
ようやくそれだけを絞り出すと、少女は「あ、ごめんなさい!」とぺこりとお辞儀をした。
「私、アカリんって言います! 星川あかりです! あなたと同じ、ダンジョン配信者なんですよ!」
その名前を聞いて、健人は息を呑んだ。
星川あかり――『アカリん』。それは、この『ダンジョン・ストリーマーズ』でトップクラスの人気を誇る、超有名配信者の名前だったからだ。