デスマーチの果てに
チカチカと、天井の蛍光灯が不規則に点滅を繰り返している。まるで寿命が尽きかける虫の羽ばたきのような、弱々しい光。佐伯健人の意識もまた、その光と同じくらいに頼りなかった。
「おい佐伯くん! 例の資料、まだできないのか!」
パーテーションの向こうから、田中部長の苛立った声が飛んでくる。健人は「申し訳ありません、ただいま……」と消え入りそうな声で返しながら、意味もなくマウスを握りしめた。
時刻は午後11時をとうに回っている。フロアには健人と、彼に怒声を浴びせた張本人である田中部長しか残っていない。鳴り響くのは、無機質なキーボードの打鍵音と、サーバーの低い唸りだけ。まるで世界の終わりに二人きりで取り残されたような、静かで息苦しい空間だった。
(何が「例の資料」だ……)
心の中で毒づく。今日だけで五回は修正を命じられた、明日の会議でスクリーンに一瞬映るだけの、グラフの色やフォントを変えるだけの作業。そこに創造性も生産性もない。あるのはただ、上司の気まぐれに部下の時間を捧げるという、奴隷の労働だけだ。
胃がキリキリと痛む。もはや慢性的なもので、痛み止めも気休めにしかならない。モニターに映る数字の羅列が、ぐにゃりと歪んで見える。頭が痛い。目がかすむ。
(俺は、何のために……)
問いは、いつものように答えを得られずに霧散した。そうだ、考えるだけ無駄なんだ。思考を止めろ。感情を殺せ。ただの歯車になれ。そう自分に言い聞かせ、すり減った精神を無理やり動かして作業に戻ろうとした、その瞬間だった。
グラリ、と世界が傾いだ。
「え……?」
声は音にならなかった。視界の端から急速に黒い染みが広がっていく。遠くで田中部長が何か叫んでいるような気もしたが、その声は分厚い水の中にいるかのようにくぐもって聞こえない。キーボードを叩いていた指先から、急速に感覚が失われていく。
(ああ、ダメだ……)
それが、佐伯健人の意識が最後に捉えた思考だった。床に叩きつけられる衝撃も痛みも感じることなく、彼の世界は静かに暗転した。
◇
最初に感じたのは、ツンと鼻をつく消毒液の匂いだった。
次に、硬いベッドの感触と、規則正しい電子音。
「……ここ、は」
ゆっくりと目を開けると、そこは見慣れたオフィスではなく、真っ白な天井が広がる無機質な空間だった。状況を理解するのに、さらに数十秒を要した。病院だ。自分は、倒れたらしい。
「目が覚めましたか、佐伯さん」
カーテンの向こうから、看護師と思わしき女性が顔を覗かせた。彼女の淡々とした説明によれば、健人は過労と栄養失調で意識を失い、救急車で運ばれたのだという。「しばらくは入院が必要です」と告げられた言葉は、現実感がなかった。
会社は、どうなる。あの資料は。
そんな社畜根性が染み付いた思考が頭をよぎり、健人は自嘲した。あれだけ心身を削って尽くしたというのに、結局はこうしてあっさり戦線離脱だ。代わりはいくらでもいる。それが会社というシステムだ。
数日が過ぎた。体は少しずつ回復していったが、心は晴れなかった。窓の外の青空が、自分のいる薄暗い病室とは別世界のもののようだった。
退院したら、どうなる?
またあの地獄に戻るのか?
それとも、このまま――。
考えたくなくて、健人は枕元のスマートフォンを手に取った。目的もなくネットニュースを眺め、SNSのタイムラインをスクロールする。友人たちの楽しげな日常が、ガラス片のように心をチクチクと刺した。
ふと、画面の隅に表示されたポップアップ広告に目が留まった。
『――その経験が、最強の力になる。一攫千金も夢じゃない! 新世代VRMMO【ダンジョン・ストリーマーズ】、始動!――』
煌びやかな甲冑をまとった剣士や、美しい魔法使いが派手なエフェクトと共にモンスターをなぎ倒す、ありふれたゲームの広告。健人は普段なら指先一つで閉じるそれに、なぜか目を奪われていた。
(一攫千金……か)
馬鹿らしい。ゲームで稼げるなんて、ごく一部の才能ある人間だけだ。
そう思うのに、指は広告をタップしていた。表示されたのは、人気配信者たちのプレイ動画と、その横に表示される凄まじい金額の「投げ銭」のログ。月収数百万、数千万。自分とは住む世界が違う。
(……治療費、いくらかかるんだろうな)
貯金はほとんどない。会社に戻ったところで、今回の件で昇進の道は絶たれたも同然だろう。むしろ、体調管理もできない奴だと白い目で見られるのがオチだ。八方塞がりだった。
もう一度、広告に視線を戻す。
『その経験が、最強の力になる』
ありふれたキャッチコピーが、やけに心に引っかかった。
俺の経験?
パワポとExcelと、上司へのゴマすり。そんなものが力になるはずもない。
それでも。
もし、万が一。
この最低な現状から抜け出せる、蜘蛛の糸がここにあるのだとしたら。
健人は何かに憑かれたように、スマートフォンの画面を食い入るように見つめていた。そこには、「ダウンロード」という文字が、まるで誘うように、あるいは嘲笑うように、静かに浮かんでいた。
健人の指が、ためらいがちに、しかし確かに、そのボタンへと伸びていった。