9/決意の告白
既に陽の落ちた暗闇の中、俺はようやく自宅へと辿り着いた。結局、長い間ああしていたらしい。気がつくと辺りは夕焼けの空になっていたのだ。
彼女を自宅まで送り届け、別れを告げて帰路につく頃には、もう暗闇が空を支配し始めていた。
住宅マンションのエレベーターで五階に登り、廊下を進む。ポケットから鍵を取り出しながら。
目的の扉の前に到達。ようやく息が抜ける瞬間だった。
湿気で汗ばんだ制服を洗濯機に放り込み、適当な部屋着に着替える。身体が軽くなったようだ。
こんな時間になってしまった為、夕食はあり合わせで作るしかないだろう。冷蔵庫に何かあった筈だと探す。
作業をしながら、ずっと引っかかっていた疑問を掘り起こす。
溝口孝史は、どうして死んだのだろう。学校側からは、彼の死以外、詳細な情報を明かしてはいなかった。
これは不自然なことではないか。葬式にまで参列したというのに、その人物がどうして、どのように命を落としたのか知らないなんて。
もしも交通事故か何かならば、そう言うと思うのだが。
隠す理由など、何一つないのだから。
そう言えば彼の死が教師の口から明らかになったとき、クラスの連中は口々に言っていたな。事件がどうとか。殺人がどうとか。
あれは一体なんだったのだろう。身体の中を、取り払えない重石がのしかかっているみたいで気分が晴れない。
止まない雨は、止んだ筈ではなかったのか。
翌日、湿気の多い蒸し暑い朝。寝室から這い出し、リビングへと向かい、扇風機をつけた後、テレビの電源を入れると、事の次第は明らかになった。
朝のニュース番組。キャスターが淡々とした口調で話す。
都内の高校で、殺人事件。被害者は男子高校生。犯人は未だ特定せず。
それは紛れもなく自分が通っている高校だった。俺は、そのことに気付くまで、少しの時間がかかってしまった。
殺人事件。この被害者というのは間違いなく彼のことだろう。
殺人事件。彼は、その四文字によって永久に独りになってしまったのだ。
毎日の報道で上げられる痛々しい事件の数々。俺はそれを見て、ああ殺人事件って毎日起こるんだな、くらいの感想しか抱いてこなかったと思う。
毎日そんな報道がされることに慣れていて、別に不思議に思うこともなく、ただ日々を過ごしていた。
殺人を犯した犯人は逮捕されるだろうし、家族を殺された遺族は悲しむだろうし、被害者の知り合いは一時の感傷にさいなまれながらも、何時までも止まってはいられないから忘れて先に進むしかないだろう。
そんな風に思っていて、そんな風にしか思っていなかった。思ってこなかった。
実際に自分のすぐ身近でそれが起こって分かった。俺の考えなんか全く的を射ていなかったことに。
そんな簡単なわけがないだろう。簡単に忘れて、簡単に前へ進めるわけがない。
何の罪悪を感じることのなく、無感動にそうしたことができる人間には、俺はなりたくない。
それを教えてくれた、彼女の為にも。
犯人は未だ特定せず。
俺は、自分でも馬鹿なことだと分かる考えを、頭の中で打ち出していた。
平日の朝。忙しく飛び交う人々を横目で眺めながら、俺は駅前の広場にいた。学校の制服ではなく、私服なのは、殺人事件が起こったと正式に報道された為、学校はしばらくの間休校となったのだ。
俺はこんなもやもやした感情を抱えながら、家でジッとしていることに耐えられなくなり、彼女と待ち合わせることにした。
一人の少女が俺に気付き、駆け寄ってくる。俺は手を振り、彼女も手を振り返した。
「……おは、よう。斎田」
「ああ。昨日は眠れたか」
彼女は顔を赤らめて言った。
「……えと、あんまり。考え事してて」
昨日の一件から、二人の間には妙な空気が流れていた。今まであった距離感が、急になくなったみたいに。少しやりにくいな。
「話って、何」
そうだ。俺はそう言って彼女を呼び出したのだった。
「ああ。まずはどっか店に入ろうぜ。雲行きも怪しいし」
今日は朝から雨が降る可能性があると天気予報で言っていた。一応傘は持ってきていたが、使わないで済むならそれに越したことはない。
巳波と相合い傘……そんな想像をして、少し目がくらみながらも、何とか持ち直し、喫茶店でもないかと歩き始める。
彼女の手には傘はなかった。折り畳み傘を持っているような気配もない。彼女の方も、もしかしたら期待しているのかもしれない。
俺達は最初に見つけた喫茶店に入り、店員に二人と申しつける。
窓際の席に案内され、注文をする。俺はブレンド。彼女は、オレンジジュース。
駅前だけあって、中々いい雰囲気の店だった。暗めの店内は、落ち着いて話をするのに適しているだろう。
飲み物がやってくると、俺は本題に入る事にする。
「ニュース、見たか」
「……見た。わたし全然知らなかった」
彼女は、次第に表情を暗くしていき、俺はそんな彼女を見ていたくはなかったが、続けた。
「誰が、殺したんだろうな」
「……誰がって」
犯人は未だ特定せず。警察が動いている筈だし、それならいずれ犯人は逮捕されるのだろうが、そんな考えは頭の中にはなかった。
「溝口を殺したのは、誰だろう」
「…………」
今朝のニュースでは、彼は帰宅途中に被害にあったらしい。背後から鈍器のようなもので後頭部を殴打。
苦しむ暇もなく、彼を死に至らしめた。
なぜ、彼は殺されたのだろう。
「……警察は、通り魔の犯行の可能性が高いとか、言ってた気するけど」
「ああ、そう言っていた。けど、何か納得いかなくて」
俺がそう言うと彼女は、しばらく無言で俺を見つめた後。
「…………どうしたの?」
そう言った。
「納得いかないって、そんなこと、言ってどうするの。納得なんて、しなきゃいけないの? もう全部終わったことじゃない」
いや、まだ終わりではない。
「俺、バカなこと言ってただろ」
「え……」
「奴が死んで良かったとか。当然とか。そんなことを。死んでいい人間なんて、いるのかって、ずっと考えたんだ。そんなもんいるわけねえって、答えが出た」
「…………答え」
お前が教えてくれたんだ。巳波がいなかったら、俺はまだ気付けなかったに違いない。
「償いなんだ。これは。エゴでもなんでもいい。自己満足だって、分かってる」
俺は、言う。
「犯人を捕まえる」
「捕ま、える?」
当惑する彼女。それは当然だろう。正気の沙汰ではないのだから。素人が殺人事件の犯人を捕まえるなんて。
「俺は、奴が死ねばいいって思ってた。死んでしまえと思ってた。そしてそれが本当にそうなったとき、心の中から悪魔が這い出してきた」
「…………」
彼女は、そんな俺の言葉を真剣に聞いていた。
「人が、死ぬことは、痛々しいことだ。命は、尊いものだ。それを今の人間は、忘れかけていたんだ。そんな大切なことを。俺だってそうだったんだ。だから、俺は」
巳波凪に、伝えたい。
「溝口を殺した人間に、言ってやりたいんだ。この大事なことを。言わなきゃならない気がするんだ」
「……そっか」
彼女は、暗い表情を、少しだけ明るくしたような笑顔をつくった。
「なら、そうすればいいよ」
「……ああ、ありがとう」
彼女は、心強い力になってくれるだろう。
ならば現実的に色々と考え始めなければならない。
「でも、学校もないんだよな。ずっと。犯人が通り魔なら、現場で聞き込みでもするしかないのか。本当に、長い道のりだな」
「じゃあ、最初は家に行ってみる?」
「……家って?」
「溝口孝史の、家」
彼女は、そう言った。