8/生きているということ
しとしと、窓を打つ雨が多少弱くなってきた。そんな放課後。二人以外教室に誰もいなくても、嫌な沈黙は雨の音が消してくれる。
なのに……こんなときこそザアザア降りになって欲しかった。彼女は一向に顔をあげようとしない。もう限界だった。
「巳波……おい。どう、したんだよ。巳波……」
俺は、彼女が崩れたように起き上がらない机の前に、立って言った。感情に任せて、吐き出した。
「もう、いいだろ。顔をあげろよ。あげて、くれよ。もう大丈夫だって、なんだって。良かっただろうが」
「…………」
俺は、そんな彼女の両肩に手をかけた。強く、壊してしまいそうなくらい。力の加減が効かない。
「っっ……」
そうすると、彼女はビクンと上半身をあげ、目の前に俺の顔を確認して目を背けた。
痛々しい表情。それは取り返しのつかない何かを犯してしまったとでもいうような、罪悪感に満ちた顔だった。
「奴は、死んだって。はは、こういうことってあるんだな。天罰って、あるんだな。知らなかったよ。いや信じてなかった。悪いことをしたら、それが自分に返ってくるなんて、大人が勝手につくった妄想だって、思い込んでたけど俺。実際にないわけじゃ、ないんだな。いい気味だ」
当然の報いだ。そうだろう。そうだろうが。
悪いことをしちゃあ駄目だから、法律って物があるんだろう。罰って物があるのだろう。
そう叫ぶ俺は間違っているのだろうか。
なぜ彼女は震えているのだろうか。俺の目を見てくれないのだろうか。
「……ひどいわ」
ボソッと、ともすれば聞き逃してしまいそうな、それでもそんな、彼女の苦痛に満ちた言葉を今の俺が逃すはずがなかった。
「……? な、なにが」
「ひどいの。最低なの。最悪なのよ……」
彼女はその瞳を逸らしたまま、悲痛を噛み締めるように言った。
「私が、最低なの」
「は……」
言葉の意味が、分からなかった。言っている意味が入ってこない。
なぜ彼女がそんな事を口にしなければならないのだ。そうじゃないだろ。最低で最悪なのは、もっと他にいて……
「何、言って……」
「私、わたし……喜んでしまったの」
「…………」
「彼が死んだって、あの先生が言ったとき、心の底から、気持ち悪い何かがこみ上げてきて、気付いたら……笑って、いたの」
そんな、でも彼女は。今はどうして。そんな苦しそうな顔を。
「そんな自分が恥ずかしくて、怖くて、……何で、どうしてそんな、私は」
その横顔は、泣いてはいなかったけれど、泣き顔よりも酷い。もし泣くことができていれば、少しは増しだったかもしれない。そんな顔だった。
「人が死ぬことを喜ぶなんて、イヤ……」
頭の中を強い衝撃が走った。鈍器で殴られたような、鈍い衝撃。しかしそれは身体ではなく、心がたてた悲鳴だっただろう。
人が死ぬことを喜ぶなんて、イヤ
彼女はそう言った。一字一句違わなく。彼女はそう、言ったのだ。
俺は耐えきれず、その場でしゃがみ込んでしまった。
俺は、喜んでいた。自分のことが悪魔だなんだと言っておきながら、心の底からくる邪悪なる快感のされるがままになっていた。
人が死ぬ。そんなにもこの世に重いことが、他にあるだろうか。そんなもの、探す方が間違っている。
俺は、自分が恥ずかしくなった。
その場を蹴った。蹴って蹴って蹴って蹴った。
扉を強引に引き剥がし、外に出てからも蹴って蹴って走った。
一瞬だけ見えた彼女の顔が、やはりまだ苦しそうで、それでも蹴った。
後日、俺は服装だけはそのままに、ある施設へとやってきた。
そこは葬式などを執り行う斎場であり、喪服や学校の制服を着た者がたくさん来ていた。
溝口孝史の葬式に、俺は参列していた。別に今更同情が湧いたわけではない。同じクラスである生徒には全員参加が義務付けられているのだ。
ならば彼女も来ているはずだが、探す気にはなれなかった。
会場内では溝口孝史の家族、親戚だと思われる人間が大勢いた。両親、兄弟、祖父母、皆が顔を悲しみでいっぱいにしていて、中には泣き出してしまう姿も見られた。
溝口の母親と思しき女性。背が高く、気が強そうに見える金髪の女性だったが、彼女は夫に始終支えて貰わなければ、立って歩くことも叶わなかったに違いない。
泣いていた。入念にしたであろう化粧が崩れることにも構わずに。周りの視線を集めることも構わずに。
俺は、面を食らって動けなくなってしまった。あんなにも、生きている間に卑劣な所業を働いた溝口が、いなくなったことによってこんなにも悲しむ人間がいるなんて。
あんな奴、死んだって誰も何も思わない。そう決めつけていたのだ。俺は。
それなのに、目の前にはそれと正反対の光景。涙、涙、涙。
つられて泣き出す者。順番に線香をあげる際にも、手が震えて上手くいかない人が大勢いた。
俺の前方右側の席に座っていた巳波、彼女の瞳にも流れるもの。
これが、人が死ぬってことか。俺は、全然わかってなかった。分かったつもりでいた。
死んでいい人間なんて、いないのだ。
いなくなっていい人間なんて、存在しない。悲しむ者がいる限り、思う人がいる限り、死んでいい人間なんて、誰一人としていないのだ。
溝口は最低の人間だったかもしれない。最悪の人間だったかもしれない。
けれど、それがどうしたというのだ。そんなもの、俺からの観点で言っているにすぎない。
独り善がりで言っているに過ぎないではないか。
ちっぽけな俺なんか、この中の、大勢の人々の中に埋もれてしまう。
この涙を否定する資格が、俺にあるのか。
帰り道、自由解散となった俺達は、散り散りに皆の場所へと帰っていった。
施設から最寄り駅へと通じる道路で、彼女に追いつくことができた。
弱々しいその背中は、誰と見間違えることもない。すぐに分かった。
俺は周囲のクラスメート達の視線などないかのように、彼女の下へと近寄っていき、その肩を抱いた。
すると彼女は、一瞬身体を震わせながらも、俺の腕の中で大人しくなる。
温かい。彼女の体温。ちゃんと生きている。人間の温もり。生の証し。これが生きているということ。
好奇の視線とざわめきが起こる中、俺達は二人いつまでも立ち尽くしていた。
お互いの存在を確かめ合うように。その手がするりと逃げていかないように、強く彼女の腕を掴む。
細い腕。それでも、耳をすませれば血液が流れる音が聞こえてきそうだ。
生きている。ああ、良かった。生きている。
俺は、もういつからか忘れていた筈の、本当に久しぶりに、心から涙を流した。