7/お願いだから笑って
傘をさして歩く。時折入ってくる風と雨に耐えながら、一歩一歩進んでいく。
昨日の雨で濡れた制服は無理やりアイロンし、間に合わせた。連日の雨は非常に面倒だ。
梅雨が明ければ今度は蒸し暑い季節が待っているが、それでもそれが待ち遠しい。
靴の中が濡れるのはどうやら、避けられそうにないらしい。本当に憂鬱だ。
とにかく、まずはいち早く教室に着くことだ。それに変わるものはない。
何とか高校の見慣れた門をくぐり、二年生の校舎を目指す。そして下駄箱に到達。水に浸したように濡れた傘の水気を払い、片手で自分の上履きを取り出す。
湿気の蔓延した廊下を進んでいく。じめじめとした不快な空気を吸って、汗が体中から吹き出てくる。
しかし、確かにそれは不快であり、俺の心に重くのしかかっているのだが。それとは違う所で、もっと厄介な問題を抱えてもいた。
言うまでもなく、彼女のことだ。
他人のことでこれ程悩むのは、あまり経験がない。そんな必要は、全くなかったからだ。
自分に関係のあることにだけ、労力を行使していれば良かった。
それが、今はどうなってしまったのだろう。昨日は遅くまで寝られなかった。
今にして思えば、昨日の自分はおかしかったと思う。頭が熱くなっていたみたいな。何かとんでもないことを考えていた気がする。
殺人がどうとか。死体がどうとか。何かおぞましい想像が頭の片隅に残っているのだ。
その断片のどれもが、今朝から抜けない気だるさの理由なのだ。睡眠不足も当然あるだろうけれど。
俺はそんな自らの身体に鞭打ち、教室へと向かう足を早くする。
階段を登る。湿気で滑りやすくなっているそれを一歩一歩慎重に、ラバーの部分を踏みしめて登った。
二階に辿り着く。そうなれば、目的の場所はもう目と鼻の先だ。
「…………」「…………」「…………」「…………」「…………」
待っていたのは、喧騒と視線とが形を持ったような光景だった。教室中が、騒々しく落ち着かない。
皆それぞれのグループで固まり、何やら深刻な顔で話している。声から明らかに動揺が窺える者も少なくない。
自分はそんな光景に疑問を抱きながらも、深く考えることはしなかった。その前に、まず彼女がいるかどうかの確認。
ふう、今日は何もなかったのだろうか。彼女は、できるだけ自分の存在を目立たせないように存在することに努力しているようだった。
席に着く。鞄を机の上に乗せ、そこへ頭を預けて突っ伏す。空いた時間を潰す為に、睡魔へと身を委ねようとした、そのとき。
ガラッ
扉が開く音は荒々しくした。そこから覗いたのは担任の女性教師。それだけならば、いつもより多少早くHRが始まることに嘆く者がいるかいないか、そんなことに無駄な思考を割かないかどちらかだっただろう。
明らかに平常を失った顔で。今にも泣き出しそうな表情で入ってきた彼女に、教室内の生徒は皆視線を集中させた。
していた喧騒が一瞬収まり、担任教師はゆらゆらと、力ない歩き方で教壇へと向かっていく。
そして言った。
「もう知っている人も、……いるかも、分かりませんが。……本当に、残念な、お知らせを…しなければ、うっうぅ。ハァ、なり、ません……」
先生、お気を確かに。
後から共に入ってきたのは、生徒指導の中年の男性教師。彼は彼女の肩を支えるように、脇に立つ。
嗚咽を始めた彼女の代わりに、彼がその続きを話す。
「溝口が、昨日亡くなられた……」
周囲のざわつきは、一気に増す。
「やっぱマジ……」「マジで死んだ」「…ヤダコワイ」「殺された? どんな死に方だろ」「は、殺人なのかよ。殺人事件? それってやばくね」「事件事件って、まだわかんないし」「俺知ってる奴死んだの初めて」「えーなんか暗い。やめようよそんなの」
俺は、一人その騒ぎからは取り残されていた。クラス中の人間が、何かを知った上で話しているように見える。
しかし、彼女は……巳波だけは俺と同じ状況に置かれているらしく、それを確かめて安心している自分がいた。
溝口が死……。死んだ、死。死亡、殺された、事件、殺人、終末。終了、死んだだと、生きられなくなっただと。死んでしまったなんて、何だ、それは何だ。
ちょっとまて。少しでいいから、お願いだから、何なんだ。死んだってなんだ。亡くなられたって、それは何。
人が死んだ。そういう報告。一人の人間が永久に独りになってしまったという事実。
それは現実で、決して夢なんかではない。確かにそこにある現実。触れればそこにある、生々しい当たり前。
現実感を伴うもの。人が一人、死んでしまったのだ。
「……溝口、死んだって」「うわ、マジかよやば」
溝口とは、このクラスに所属している……していた、男子生徒である。背は高く、髪は染められ、性格は荒く、クラスに強い影響力を持っていた人間。
巳波凪に嫌がらせをしていたグループの、リーダー的位置にいた人間である。
溝口とは、話したことはないが、周りからは地味な根暗で通っている筈の自分を良く思っていたわけはないだろう。
いずれ彼の矛先は、自分に向いていたかもしれない。
溝口は死んだ。死んだ、死んでしまった。もう戻らない。もう彼はその扉を開けて、その派手な髪を弄りながら入ってくることはない。
……やった。馬鹿、ざまあみろ、死んだ。地獄イキ、天罰、天罰が下った。神様はいた。いないなんて言ってごめんなさい。本当に、本当にすいませんでした。調子こきました。
神様はちゃんといたんですね。ちゃんと見ててくれてたんですね。巳波を救ってくれたんですね。ありがとう。感謝感激。ありがとうございます。
口元に指を這わせると、自分でも驚くくらいそれが横に裂けているのが分かった。自分は悪魔かもしれない。そう思った。
巳波はっ。
彼女はどうだろう。自分を苦しめていた忌々しい人間が永久に消え去った。死んだ。死とは苦痛を伴う結末。痛い痛い痛い苦しい苦しい。
それはきっと死ぬ程痛くて苦しいものだろう。自分を傷つけて苦しませてくれた奴には、それが相応しい。
彼女の席へと視線を送る。巳波凪は果たして青ざめた顔をしていた。それは担任教師に負けるとも劣らない血の気の失せた表情だった。
なぜだろう。もっと喜べよ。嬉しくないのか。
なんでどうしてそんな顔をする。お前がそんな悲しそうだと、俺一人で嬉しくなっているのが馬鹿みたいだ。
だから巳波も笑えよ。もっと笑ってくれ。お願いだから、泣かないでくれよ。なんで泣いてんだよ。泣いて欲しくないよ。好きなんだよ。何で笑ってくれないんだよ。お願いだから、笑って。
そんな、顔を上げろよ。なんで落ち込んでるみたいなんだよ。悪いことしたやつなんか死んで当然だろ。死んだって構わないじゃないか。苦痛にまみれて屑のように捨てられたって構わない。
死ねばいい。生きている価値はない。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
生きていたことを謝れよ。謝りながら死んで、それでようやく許される。
神様はお許しになる。
俺は神様なんて信じてなかったけど、今日この瞬間からそれは変わった。
巳波凪は何もかもから見放されたわけではなかった。
見放されていたわけではなかった。
そう思った。それでも、彼女は……髪の毛で顔が隠れて、見えない。
俯いていて、きっと泣いている。