6/傷だらけの少女
誰もいなくなった放課後。部活やその他の理由でまだ校内にいる者でも、それぞれの場所に向かった後。
閑散とした教室。時間が止まっているかのような空間。ここだけが、まるで周りと切り離されたかのようだった。
彼女は、ようやく元通りとなった自らの机に突っ伏していた。表情が窺えない。泣いているのかもしれないし、笑っているのかもしれない。
それは分からなくても、確かに言えることは、彼女はもう限界だということだ。もう無理なのだ。大の大人でさえ、あんな仕打ちを受ければ精神がおかしくなっても不思議ではない。
それなのに、彼女は少女だ。十七才、女子高生。人間として、まだまだ成長段階。まだまだ成長の途中。
それなのに何だ。この地獄はなんだ。彼女が何をした。彼女が何をしたというのだ。一体何をしたというのだ。
もう彼女は、泣いてはいなかった。泣き腫らし、涙が枯れたといった方が正しいのか。
クラスのHRが終了し、皆が教室を後にしても、彼女は立ち上がろうとしなかった。
それを気にとめる者はいなかった。視線を向ける者はいても、自分から関わろうとはしない。それはいつも通りの光景。
担任教師である、若い新任の女性教師は、これまでに何回か、このクラスでのそういった現状を問題に上げることをしたが、彼女はどうやら、自分のクラスでいじめなんていうものが起きているなんて信じられない……信じたくないのだというように、それを頑なに認めようとしない。
彼女は帰りのHRで皆を集めてこの問題を話し合うときも、いじめという言葉を使ったことはなかった。
皆さん、皆さんはもう高校生なのですから、自分でちゃんと分かっていると思います。間違っていること、正しいこと。その区別がちゃんとつくはずです。私は皆さんを信じます。皆さんが、それをできると、信じます。それが私の仕事です。
……呆れたことに、彼女はそれで全てが終わったと思っているらしい。
初めて受け持ったクラスで、初めてぶつかった問題を見事に解決して見せた。その達成感だけで既に終わってしまっているのだ。
自分という人間の有能さに陶酔し、現実をもう目に入れてすらいない。彼女は遅かれ早かれ、どこかで失敗する人間だと思う。
そこで独りきりで追い詰められている彼女の心の叫びが、聞こえないのか。きっと聞こえないだろう。
人は、誰かに聞いて欲しいことに限って、心の一番奥で叫んでいるものだ。
誰にも聞こえない。そんな心の奥底で。
俺は、そんな彼女の心の叫びが聞こえる場所にいる。俺だけだ。他には誰もいない。彼女は俺だけには、その全てを見せるようになった。
まだ俺は、彼女と長い時間をともに過ごしたわけではない。
深い絆を持ったわけではない。けれど、彼女はそんなことを抜きにして、やはり俺の前では強がらないのだ。
それはようやく見つけた隙を見せてもいい相手というのか。今まで緊張を続けてきた彼女の精神は、安らぎを求めて俺に寄りかかってくるのだった。
「苦しいよ……ぐずっ、嫌だよ……どうしてっ、私なのかな」
彼女は、自分の運命を呪うように、悲痛な言葉を口から漏らす。
俺はそれに、どんな言葉を返せばいいのか。どんな言葉なら、彼女は救われるのか。
そんなことは、とても無理な気がした。
どんな言葉も、その場しのぎの慰めにしかならない気がした。
「巳波……」
俺は、一人では何もできない。今すぐ奴らを追いかけていって、一人ずつ殴ってやることもできない。
喧嘩したことなんかないし、自分は体力に自信もない。あったとしても、そんなことは自分には無理だったろう。
こんなとき、漫画やアニメや小説や映画なら、正義の味方が颯爽と現れて、あっという間に彼女を助けてしまうのか。悪を倒し、弱きを救う。そんなお決まりのハッピーエンドを迎えてエンドロールが流れるのかもしれないが、これは現実だった。
残酷で無慈悲な、現実だった。残酷で、誰も助けない。
神様がもしいるのなら、この世界に戦争は起こらないという。それは本当にそうだろうか。神様の性格が悪いだけじゃないのか。
下で哀れに踊る、人間を見てほくそ笑んでいるのではないか。
俺は、一歩一歩ゆっくりと彼女に近づいていく。そして彼女の隣の席に腰掛け、俺も机に突っ伏してみた。
視界が覆われる。何も見えない、見えない。机の木の匂いがする。何故か懐かしい、そんな匂い。
そして、背中に温かい感触。驚いて顔を上げれば、彼女が椅子に座りながら寄りかかってきていた。
その綺麗な顔を俺の背中にぴったりとつけ、やはり見えない。
こんなことがあるだろうか。日夜ニュースで凶悪犯罪が報道される日常。こんな光景など、それこそ世界中で起こっていることだ。でもなんで、彼女なのだ。
分かりきったこと。それは彼女が弱いからだ。周囲に上手く取り入っていけないものは、淘汰される。もしくは俺のように、人間関係から排除されるかだ。
だが、それなら強い奴が正しくて、弱い奴が正しくないのか。そんな、そんなのは、余りにも残酷じゃないか。
彼女は、震えていた。その弱々しい震えが、彼女の体を通して伝わる。
そんな彼女に何もしてやれない。分かっていたつもりだったが、改めて自分の無能さを嘆く。
いじめが終わる時は、その相手との直接的な関係が切れたときだ。それ以外では難しい。嫌がらせというものは、千差万別。ほんの小さなことまで教師が相手していたら、いくら人がいても足りない。
ならば、ここで見えない涙を流す彼女は、救われないということなのか。
希望は見えてこない。一向に降り止まない雨。
明日は、彼女の机に何もされないという保証はない。
それに、この俺の肩に体重を預けてくる、小さな女の子は、明日にも、自分だけ安全圏から見下ろしているだけの俺に白い目を向けるかもしれない。
それを考えると身が震えた。そしてそんな自分にまた溜め息。
自分は、このままでも構わないと思っているのかもしれない。安全圏から見下ろしているというのは、別に間違いではなく事実かもしれなかった。