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5/12

5/鬱の中

騒々しい程に耳につく雨音。梅雨はやはりまだ、去ってくれる気はないらしい。


昨日の一休みは、溜めに溜めたその分を、今日一気に放出するためだったのかもしれない。


傘が役に立たない程の強い雨。季節からして、凍えることはないが、それでも雨の日は憂鬱。


濡れて張り付いたスラックスは、歩く度に不快を感じさせた。


「来たぜ」「ああ」


そんな掛け合いが聞こえてきて、目をやってみれば、教室のドアが開く音。


そこから現れたのは、黒髪をなびかせた少女。


巳波凪。


彼女は、その視線に脅えながらも、それでも自分の座席を目指して進む。右手には傘。それを途中で傘立てに刺そうとして、そこで気づいたように踏み止まる。


彼等の醜悪な笑みが、その行為を嘲るように見守っている。


そのまま傘を手放せば、それが後に彼女の手に二度と戻ることはないだろう。


彼女の傘は、透明なビニール傘であり、ごくありふれたそんな傘が、一つ無くなっていた所で誰も気付かない。


……例え気付いたとしても、何が変わることもない。


日常の嫌がらせは、そんなくだらない些細なことであっても、積み重なればそれは本人にとっては苦痛なのだ。


彼女は傘を持ち直し、それを自らの机に掛けることにした。ようやく辿り着き、そして見る。


見つける。自分の机に、真っ白い線で何かが書き込まれているのを見つける。


しかし、それは書き込まれていると言うべきなのかどうなのか。埋め尽くされていると言った方が、あるいは正しいのかもしれない。


「っっ……」


そこに刻まれていたのは、悪意の罵詈雑言であった。彼女はそれを見て、打ちのめされたように呆然する。


「パンツ」「下着」「ブス」「ミナミ」「巳波」「死ね」「自殺」「帰れ」「淫乱」「変態」「自殺しろ」「バカ」…………


それらの文字は、確かな敵意を持って彼女を傷つける。そんな犠牲と引き換えに、何人かの人間の、誰かを傷つけたいという欲求が満たされる。


いじめとは合理的だ。すべからく、それは理に叶っている。たった一人の人間を犠牲に払うことで、それ以外の複数の人間が潤うのだ。


だからいじめはなくならないのだと思う。大多数の人間にとって、全体からして、それはむしろプラスに値するのだから。


世界中から犯罪をなくせないのと、同じように。


彼女は、ポケットから出した ハンカチで、チョークの文字を消し始めた。


懸命に擦るが、乾いたハンカチは、虚しくその汚れを広げるだけだった。


消えない。呪いのようだった。彼女の周囲から、悪魔の笑い声が漏れる。


複数の悪意の、視線が注がれる。


その中を、彼女は何時までも擦り続けた。何回も、何回も。


悪夢を振り払うように、何回も。


しかし、振り払えない。悪夢は覚めることなく、彼女を魘す。


そんなとき、ふと彼女と目が合った。視線がぶつかった。その悲痛な瞳に、助けて欲しいと叫んでいるように。


心の底の、声には出せない言葉を込めて。しかし……


彼女は目を逸らした。再び机に目を向ける。その時の、彼女の表情。


何かを諦めたような、何かを手放したような。


ここで俺に救いを求めれば、俺にも迷惑がかかってしまう。俺を巻き込んでしまう。


彼女に手を差し出すということは、彼女と共に雨に濡れろということだ。彼女と共に、手を繋いで歩けということだ。


いじめを傍観する一番の理由。それが身を守る一番簡単な方法だから。


それが人間。人間なのだ。考えることができる、人間の答えなのだ。


現に今、俺自身。


一部始終を見つめる俺自身の足。机の下で震えている。


それは悔しいからじゃない。武者震いじゃない。ただ怖いだけだ。


怖くて、怖くて。恐ろしいだけだ。今にも彼女が俺の名を呼ぶのではないか。


昨日二人で帰ったときに教えた、俺の名前を呼ぶのではないか。


やはりそのまま別れれば良かったかと。他人の線を超えなければ良かったかと。


彼女という人間の全てを背負う覚悟なんて、決めてなんかいないのに。


自分の身を危険に晒してまで、彼女を助ける気など、無い癖に。


馴れ馴れしくしやがって。馬鹿じゃねえか。ただ一瞬見とれただけで、そんなことをして。


取れない責任を、負うなんて格好つけて。彼女と話す時間を、夢見て。


自分だけが彼女を助けられるなんて意気込んで。


心の葛藤。腹の中で暴れまわる自虐心。後悔、そんな中でも、この場を切り抜ければ後でまた彼女と話せるかなんてことを、考えている自分に嫌になる。


……死ねばいい。




死ねばいい。あいつら全員死ねばいい。死ねば死ねば死ねば死ねば死ねば死ねば死ねば死ねば死ねば死ねば死ねば死ねば死ねば死ねばいい。


いち、にい、さん、しい、ごお、ろく、…………


気がつけば、数えていた。彼等、彼女を虐げるいつものグループを……その人数を数えていた。


一人、髪の毛が茶色い。校則では、禁止されているが、彼等には関係ないことだ。


二人目、制服のYシャツの胸元をボタン三個空けて、それが自分を良く見せていると大きな勘違いをしている男。


三人目。後は、皆似たようなものだ。


死ねばいい。そうすれば、そうすれば元通りだ。


元凶さえなくなれば、いなくなってしまえば、彼女は救われる。


一人残しても駄目。そこからまた、悪意は増殖し、蘇る。


彼女は永遠に抜け出せない。悪意の罠から抜け出せない。


何時までも机を擦り続ける彼女から目を背け、自分は窓の外を見た。


降り続ける雨。予報では、当分止むことのない、雨。明日も明後日も明明後日も。太陽が照らすことのない悪天候。


心まで曇っているような気がして、心に雲がかかっている気がして、憂鬱になる。


暗雲たる気分とは、こういうことをいうのだな、と思った。


色んなことを言う、人がいるものだ。


それなら、人を傷つける人間がいたって、おかしくない。


誰も争わない世界など、実在しないだろう。もしもあったのなら、そちらの方が疑わしい。


嘘じゃないかと。偽物じゃあないかと、疑う。


だからこれは、仕方のないことなのだ。誰かの死を願うのは、不自然なことじゃない。


自分にとって不都合な存在の消失を願うのは、おかしいことではない。


人間なら皆やっていることだ。弱い者が、強い者に一矢を報いる為の唯一の方法。


願うことだ。呪いをかけるように、想像で人を殺す。


それにより、実際の半分の半分の半分でも、気が晴れるのなら、人はそうしてしまう。


あいつさえいなければ……。


雨は止みそうになく、それはまるで彼女の心の中にも降っているようだった。


降り止まない雨。終わらない悪夢。


彼女が一体、何をしたというのか。


前世か何かで罪を働けば、こんなことになるのだろうか。


もしそうだとしても、前世の自分に文句を言うことなど、できない。


自分はそこに見えない筈の、空を見つめた。雲に隠れて見えない太陽を見つけようと、必死に探す。


無理なことは分かっていた。意味のないことだなんて、知っていた。


ただ足掻いてみたくて。何か見えないものを否定したくて。


できないことだと分かっているのに。


そんなことをする自分は、どうしたのだろうか。


それも分からない。どうしたいのか、分からない。何をしたくないのかも、分からない。


とにかく、苦しかった。


救いを求めるように、曇った空を探し続ける。


そして考える。人が死ぬには、どんなことが必要か。


どんな要因が有り得るか。


交通事故。自殺。病死。自然死。死体、死体死体死体死体死体。


殺人……


心の中から、暗い何かがのぞき込んだような気がして、身震いする。


だが、気がつけば、足の震えは止まっている。

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