4/神様は、一体何をしているのか
「サイタ? ああ、斎田ね。斎田って言うんだ。そか、私知らなかった」
「……もう7月に入ったぜ。同じクラスの人間の、名前くらい知ってろよ。お前」
すると彼女は、拗ねたようにそっぽを向き、無表情をつくって言った。
「……そんなの、そんなこと、言わないでよ。そんな、余裕なんて、…」
俺は、考えて思い直す。彼女には、そんな余裕はなかったのかもしれない。そんなことに思考をさいている場合では、なかったのかもしれない。
人は、貧窮しているときに、自分とは遠いものに対して思考を向けられない。
余裕があって初めて、人はくだらないことを考えだすものだ。明日にも死にそうな人間が、冗談なんて思いつかないのだ。
自分に起こっていることで既に、余裕なんて使い果たしている。
ならば彼女は、やはりそうなのだろう。
「……悪い。それじゃあ、仕方ないよな。無理もない、か。まあでも、じゃあこの際覚えといてくれよ」
「うん。私の名前は知ってる? 巳波っていうけど」
「……知ってる」
「ミナミって変な漢字だよ。十二支の……干支ね。蛇のことを、巳って書くでしょ。それに波で巳波」
「それも、知ってる」
すると彼女は、意表をつかれたようになって返す。
「あれ、知ってたんだ。聞いただけじゃ分からないと思ったけど、そっか……」
彼女の名前が、黒板中に、至るところに殴り書きされるという、嫌がらせがあったのだ。
珍しい苗字。人より変わっているというだけで、外れているというだけで、起こる差別や迫害。
それは別に身近なことに限らず、世界中で起きていることだ。人種、性別、性格、外見。肌の色や、生まれの違い。
こんなときに人間は、決して平等なんかではないということを思い知らされる。
平等というのは、皆同じということだ。何一つ変わらないということだ。
そんなものは、気持ち悪い。人は、皆違いすぎている。
「まあいいけど、家、どこなんだ? 大体の方向とか、教えてくれないか。じゃないと、歩き辛いからさ」
「駅の方だよ。マンションに、一人暮らし」
……一人暮らしということは、上京してきたのだろうか。
両親、家族と離れて暮らす彼女は、何か困ったときに頼る相手がいるのだろうか。
「一人暮らし、かよ。それって、大丈夫か……」
「もう馴れたよ。最初は、少し寂しかったけどね。けどそうじゃないにしても、いずれは皆、一人でしょ」
「まあ、そうかもしれない」
いずれは一人か。そうだな、そうだ。
いや……いつも独りだ。
人間はいつも独りだ。
俺達はあの後、誰もいない教室を後にし、彼女の自宅まで送ることにした。
長引いていた梅雨だが、今日は雨雲が一休みしているかのような、1日だ。雨が降らないだけで、空が晴れ渡っているわけではないけれど。
俺の隣を、いそいそと一瞬に歩く彼女。巳波凪。その肩には男子用のブレザーが掛かっている。
それは俺が貸したものだ。
彼女はそれでも、自らの姿をちらちら伺いながら、周りを伺いながらの歩きをしている。
「……あの、ええと……斎田、は。斎田は大丈夫なの? この後用事、とか」
気遣いのような、言葉。彼女は、誰かのことを心配できる人間だった。
それは本来無関係なはずの俺に対して、少なからずの罪悪を感じてのことだったのかもしれないが。
「……暇だよ。家、誰もいないし」
「一人暮らし、なの?」
「いや、滅多にいない姉貴だけ。だからまあ、でも一人暮らしみたいなもん」
「……そう」
誰にでも、人に言いたくない事情はある。知られたくないことがある。
どんなに親しい家族であれ、友人であれ、自分の全てをさらけ出すのは怖いのだ。
全てを見せて、そして拒絶されたときのことを考えてしまう。どうしても頭を過ぎる。
救いを求めて、それを突き返されたら……どうすればいい。
「……まあそれはいいや」
革靴の乾いた音を響かせ、二人は歩く。方向としては駅前に向かっているので、徐々に喧騒が高まっていく。
高校の授業が終了する時間帯ということもあって、辺りには他校の生徒達の姿もあった。
男子同士で集まりながら、最新のテレビゲームについて話し合う者達。耳にイヤホンを付け、音楽を聴きながら一人で歩く者。
中には男女で二人、手を繋ぎ合っている光景も少なくはなかった。
……俺達は、周りにどう見えているんだろう。
見ようによっては、異性同士の関係を連想する者がいてもおかしくはないのではないか。
……だったらなんだよ。そこで思考を切る。
「…………」
見ると彼女は、周囲への警戒心を先程までよりも強くして、殊更に神経質に歩いていた。
どうしたのだろう、と考えて思い至る。
人か。人が多い。……失敗したな。
駅前に向かって大通りを進む内に、周囲を見渡せば人で溢れかえっていた。
休日の都会と言わないまでも、それは彼女の異質な服装が目立つには充分過ぎた。
男物のブレザー、今はまだそれほど暑くはないとは言え、もう初夏である。
彼女は、すれ違う人達に、度々視線を向けられていた。
……もっと人通りの少ない道を選べばよかっただろうか。
そう考えて、そして決心。少しの思考の末、たどり着いた答えを実行に移す。
「……えっ、ちょっと」
「いいから、こっち」
彼女の手を取り、方向を逸れて裏道に入る。そこは狭い路地になっており、ここからならすぐに道を折れれば、遠回りをすることもないだろう。
「…………あり、がと」
「……別に、いいよ」
彼女は、俯きながらそう言った。
ここからは見えないが、きっと悔しさを滲ませた瞳をしていることだろう。
前傾し、表情が前髪で隠れてはいたが、それが俺には、何となく分かった。
自分だけではどうにもならない、そんな境遇が、どれだけ辛いか。どれだけ苦しいか。
どんなに悔しいか、俺は知っている。
だから分かった。
「ごめんなさい」
「…………」
謝らなければならない理由なんて、ないだろうに。彼女は、謝る必要なんてない筈なのに。
そう言わなければならない彼女の気持ち。そうせざるを得ない状況に置かれた彼女の心情。
人間は、追い詰められると余裕がなくなる。
追い込まれると、余裕をなくし、思考に支障を来す。
彼女は、これから先もずっとこうなのだろうか。虐げられ、辱められる、奴隷のような人生。
それは一般的な一女子高生とは比べるべくもない程に、差の開いたもの。彼女と同年代の少女なら、彼氏の一つでもつくって青春を謳歌することも決して早すぎることもない。
人生の中で、一番濃密な時期であるはずなのに。
彼女は、今止まない雨に降られている。
何時まで経っても、止まない雨。待てども待てども、降り止むことのない。
時が経つに連れ、その勢いは増すばかり。冷たい雨が、彼女を濡らす。
体温を奪われ、人の温もりを失い、マイナスの感情を常に背負い、終わりの見えない、光の見えない道。
また一年過ぎて、クラス替えがあれば彼女は救われるだろうか。
それとも、偶然すらも、運命すらも、彼女を助けてくれはしないのか。
いや、それでなくとも、クラスという小さなくくりが変化した所で、彼等は彼女を逃しはしないかもしれない。
そんな低い壁は、彼等は嘲るように踏み越えるだろう。
いくらでも、方法はある。人が人を傷つける方法など、いくらでも。
彼女が初めて俺に放った言葉。弱々しくも、辛辣な言葉。あれは、彼女の精一杯の抵抗なのだ。
彼女は、誰にも隙を見せるわけにはいかなかった。
きっと、望んで使った言葉ではなかっただろう。
「勝手な想像を、押しつけないで」
「吐き気がするわ」
「あなたに私の何が分かるっていうの」
どれも毒気のない言葉だった。使い慣れないことがすぐ分かる、言葉だった。
しかしそうせざるを得なかっただろう彼女の心情を考えると、それも分かりそうなものである。
目の前で打ちひしがれる彼女を見て、思った。
救いなんてものは、存在しない。神様なんて、やっぱりいないのかもしれない。