3/弱さの中に、綺麗なもの
「っっ!?」
彼女は、そこで初めて俺の存在に気づき、意表を突かれたように、驚愕の表情を浮かべ、次いで身体を庇うように押さえた。
床に這い蹲るような体制でいたためか、多少に衣服が乱れているからだろう。
それに彼女は、今は……恐らくまだ……
「…………」
していた作業を止め、こちらを向くもその先が出てこない。彼女はただ、ただ俺を見つめて戸惑うばかり。
今にも崩れてしまいそうに、崩れそうな身体を支えるように、弱々しい目をしていた。赤い目。
二つの瞳は、赤くなっていた。
断続的に鼻をすするような音をさせ、その赤い瞳を拭いながら黙々とそれを探す彼女の姿を、つい想像しようとして思い止まる。
「……なに、してんの」
それは本当に、本当に残酷な質問だった。彼女が何の為に、どんな思いでそうやって地面に這うような目に遭っているかなんて、分かりきっている筈なのに。
彼女からしてみれば、俺にそんなことを聞かれたくなんかないだろう。
当たり前だ。彼女が探しているものは、彼女からすれば異性である俺には決して知られたくないものの筈だからだ。
教室での一件を見て知っている筈の俺が、そんな問い掛けをなぜしたのか。理由なんてない。
理屈なんてない。彼女に話しかける為のきっかけならば、何でも良かったのだ。
彼女がそれに返してくれる問い掛けならば、どんなものでも。もっとくだらない質問でも良かっただろう。
「…………」
しかし彼女は、一向に沈黙を続けるばかり。その口を開くことはない。
「……多分、そこにないぞ。ていうか、ここにはないだろ。奴ら、簡単に手放すわけねえって」
核心を突いた。
彼女だって、分かっていたことだろう。そんなことは、分かりきっていたことだろう。
分かっていたところで、彼女にはどうすることもできなかっただろうけれど。彼女に何ができるとも思わないけれど。
そして……
「……うん」
彼女が、初めてその口を、開いた。言葉を、紡いだ。
「うん……」
「うんって……」
ならば、彼女はどうして未だにそんなところで這い蹲っているのだろう。
「じゃあお前、なにしてんだよ」
彼女は、絞り出すような表情になって、言った。
「……あんた、何?」
「……何って、それは……」
「あんた、私の何よ。どうしてあんたなんかに、そんなこと言わなきゃいけないの? うるさいわね、話しかけ、ないでよ」
意表を突かれたのは、今度はこちらの方だった。
その言葉は、今にも萎れそうな中にも、周囲に埋もれない強さがあったのだ。
普段の彼女を、教室で見て知っている俺からすれば、それは驚くに値するものだった。
人見知り、地味、内気。それらが彼女を端的に表す言葉であった筈なのに。
今の彼女の言葉と表情は、それとは程遠い。
「え、あ。その……」
そんなギャップに、返す言葉が見つからない。
自分はどこかで、彼女を見限っていたのかもしれない。
内気な少女。虐げられる少女。何をするにも行動が遅い。
ならば、自分の方が優れているのだろう、と。心の何処かで安心さえしていた。
自分よりも下の存在を確認し、満足する。人間の習性だ。
それなのに、彼女は今。俺に噛みつくような視線を向けている。
「……あは、あんた。なにその顔。私が、そんなこと言っちゃおかしい? もっと、弱々しい女の子だと、思ってた? 冗談言わないで。人に勝手な想像押し付けないで」
彼女は、鋭く尖ったような……辛辣な言葉。そうすることで自らを守るように、使う。
「自分の考えを、一方的に押し付けるなんて、吐き気がするわ。やられた方はたまったものじゃない。あんたに、私の何が分かるっていうの?」
「…………言いたいことは、分かったけどさ」
やられっぱなしは、いい気がしないので、彼女が反撃できない方法で迎え撃つことにした。
「その格好じゃあ、説得力ない」
彼女は、殊更に自身を抱きしめるように庇う手を強くした。これは効いたようで、その表情はどこか弱いものへと変わっていく。
「…………うう、え……えっち…」
「……お前、どうすんの。ずっとここにいるわけには、いかないだろ。家、帰らないと。まずいだろ」
「分かってる。そんなこと。仕方ないから、もう、帰るわよ。……帰るしか、ないもん」
彼女は、弱く言った。
弱音というものは、どうでもいい相手と、聞かれても大丈夫な相手にしか吐かないと言う。自分の弱い部分を、簡単にさらけ出すようなことは、普通はしない。
なのに今彼女は、俺に弱さを見せている、のか。
改めて彼女を見る。本当に、綺麗な顔をしている。この顔が笑ったら、どんな笑顔になるだろう。彼女に嫌がらせをする奴らは、そっちの方には、興味がないのだろうか。
きっとその方が、皆幸せになれるだろうに。
彼女の笑顔を、想像しようとして失敗する。
うまくいかない。それは自分が、まだ彼女のそんなところを見たことがないからだ。
そんなのは、悲しすぎる。
「一緒に、帰ろうか」
「え、……え、一緒って、何で」
「いや、その格好じゃ、家まで辿り着くのも大変だろって。ほら、これ着ろよ」
そう言って、自分の上着のブレザーを差し出す。彼女に差し出す。
不思議に思った。自分は、彼女を救うことはしないと決めていた筈なのに。救うことなんて、できるわけがないと思っていた筈なのに。
今自分がしているのは何だ。どうしてしまった。お前は、どうしてしまったというのだ。他人なんて、救う必要があるのか。その責任を、負えるのか。
手を出しておいて、途中で止めるとか、無理なんだぞ。
人間関係は、ゲームとは違う。リセットはきかない。
「……あり、がとう」
彼女は、それを受け取った。そして羽織る。夏服のブラウスの上から、ぴったりと。
それでも、スカートは押さえたまま。下は仕方ないだろう。上半身の警戒が減っただけ、それはましというものだ。
彼女はようやく、安堵の顔になった。しかしそれは笑顔とは違う。マイナスだったものがゼロに戻ったような。
「あなたは、どうしてそんなことを、してくれるの」
彼女は、疑問。当然の疑問。人は、意味の無いことはしない。それは、無駄だからだ。疲れるだけのことは、しない。
意味、理由。それをする、理由。
俺は、なぜ。……なぜ、か。
「別に、何となくだよ。通りすがりの善意だって、思ってくれていい」
意味のあることが全てじゃあ、ないだろ。
そんな風に言うと、彼女は戸惑いながらも、納得したようになった。
そして、一瞬目が眩んだ。貧血のような、乗り物酔いみたいな感覚が襲ってきて、それはなぜかと考えるのも、一瞬。
それは、すぐに明らかになる。自明の理であった。簡単だ。
彼女が、笑ったのだ。その端正のとれた人形のような顔を、笑顔にしたのだ。
太陽というよりは、月。月が輝いたような、どこか薄暗い笑み。妖艶な笑顔。
それは、とても綺麗で、引き込まれた。
弱さの中に、美しさを感じる。儚いながらも、それは息を呑むほどに綺麗で……
一目惚れというのは、迷信ではないということを、俺は知ったのだった。