11/限りあるもの
犯行現場、それは何とも言えない非現実的な言葉だった。
自分はこれまで、そしてこれからもそんな言葉とは関係ないところで生きてきて、生きていくのだろうと信じていたのだが。
それはやはり、人生なんて何が起こるのか分からないということなのだろう。
「……ここが、そうなんだね」
「ああ。ここで、犯行が起きた」
それは、溝口家からさほど離れていない駅までの通り。今はまだ時間にして、陽が出ている頃のはずだが、妙に人通りが少ない。
まあそれは雨が降っているからだろうし、ここで痛々しい事件が起こったからでも、あるのだろう。
「あそこ、……だよね」
巳波が気まずそうにしながらも、ある一カ所を指差した。
そこは、住宅の一軒家が並ぶ通りで、何の変哲もない道の塀。ある一カ所に赤い汚れが付着していた。
赤い汚れが、付着していた。
ここで……まさにここで、起こったのだ。冗談なんかではなく、本当に。
目眩のような感覚に襲われ、一瞬身体を支えられなくなる。
その場に倒れそうになるが、何とか持ち直す。
一つの傘の中にいた巳波は、それを見て「大丈夫?」と声をかけてくる。
近距離だったため、その声は耳に吹きかけられるようだった。
再び襲う眩み。そっちの方が強烈だったとか、そんな馬鹿なことを考えていたら、何か色々なことがどうでもよくなってきて。
「なんかさ、人が死ぬなんて当たり前だろ。毎日テレビでやってるし。誰も死なないなんて、有り得ないし、無理なんだ。なら、やっぱり死ぬしかない。いつかは誰でも、死ぬ、んだよ。だけど……」
俺は耐えきれなくなって、抱え込んだ思いを吐き出すように巳波にぶつけた。
「……だけど、やっぱり、死ってどうにもならないくらい嫌だな」
そこで強制的に人生の幕を下ろされた溝口が、後ろに立っているような気がした。
幽霊がいるのだとしたら、きっと溝口は今叫んでいる。そう思う。
俺だって叫びたい。
「本当、なんで、なんだよ」
「……斎田」
彼女は、そこで一瞬迷うようにしながらも、顔を背けながらも、俺を振り返って言ってくれた。
「私だって、そうだよ」
「私だってそうだし、みんなそう。皆、自分や自分の大切な人がもしもいなくなったらって、たまに考えてしまって、落ち込んだり、塞ぎ込んだり。だからそれは、別におかしいことじゃない」
「…………ああ、そう、だな」
自分でも驚くほど素直に、笑うことがてきた。
彼女は薄く頬を染めていて、照れたようになってまた顔を背けてしまったけれど。
「知ったようなこと言って、ごめん」
「そんなこと、ない。すげえ、助かったよ」
「私、その、斎田が苦しむとか、辛いなら……無理しなくても、と思って」
「……俺は、大丈夫」
そうだ。まだ、こんなところで止まる訳にはいかないのだ。止める訳にはいかないのだ。
それにしても、警察とかがまだ現場検証とかを続けているのかもとも思ったが、そんなことはなかった。
付近の住民に配慮したのか。それとも警察は犯人に繋がる有力な何かを既に掴んでいるのか。
ともかくこの場所は、知らなければそうとは分からない位に日常そのものだ。
ここで、あの溝口が何者かによって命を奪われたなんて、信じられないが、それは真実だ。
「まあ、来たからって、何かが分かるとも思わないけれど」
「……初動捜査は、警察がもうやった後だろうしな」
重要な証拠なども、持ち去った後だろう。俺達がここでできることはもうない。
しかし。
「ねえ、一つだけ」
巳波がそう言った。
二人で手を合わせる。もしもこんなことで、溝口の魂だが何だかが安らぐというのなら、と願いながら。
俺達は近くで見つけた花屋で花を買い、ここへと戻ってきた。それは彼女の提案だった。
俺では気がつかなかっただろう。女性らしい気遣いといえる。
置いた花は、虚しく雨に濡れる。梅雨が明けるころには、もうバラバラになってしまうかもしれない。
形なんて、いつかは壊れてしまう。人の命と同じだ。
人生なんて、そんなものだろう。だからこそ、思いだけは届くだろうか。
「溝口のこと、恨んでないか」
俺は、聞いてみた。聞いていいことなのか少し迷ったけれど、俺は聞いた。
「……全然、ではないけど。まだ、少しは残ってる、かな。あんまり思い出したくない感情……」
そうだ。人は人をそんな簡単には許せない。ならば、俺も許しては駄目だろう。
溝口の命を奪った犯人を。許しては絶対に駄目だろう。
俺達は、しゃがんだ姿勢から立ち上がり、再び寄り添いあう。
「今日はもう帰ろうか」
「うん、そだね。雨、降ってるし」
まだ止まない雨。
陰鬱な天気は、まるで終わりを見せようとしない。
俺はもう一度、そこに向き直って立った。
溝口、お前はどうして、死んだんだ。
そんなの知らねえよと、言っただろうか。
「お邪魔、します」
「うん、いらっしゃい。ていうか、楽にしていいよ。誰もいないし」
「……そう、だよな」
場所は、変わってマンションの一室。
この間は前まで来て帰った巳波の一人暮らしの部屋にお邪魔していた。
それにしても片付いていた。やはり女の子だからな。
質素な部屋で、一人で暮らすにはやや大きい一室だった。
ここで巳波は、毎朝起きて毎日寝ているのか。
こんなに広くて、寂しくなったりしないのだろうか。
「はい」
と手渡されたのはバスタオル。もう片方の手にはもう一枚。
「濡れちゃってるでしょ。これで拭いて」
「ありがと」
ありがたく受け取る。いくら傘をさしていたとは言え、一つの傘に二人で入っていたわけで。
色々な所が濡れてしまっている。
バスタオルを頭から被ると、ゴシゴシと擦る。
目の前が暗くなり、そして落ち着く香りがした。
あ、巳波これで身体、拭いてたり、して。
…………………………………………。
「巳波の匂いがする」
「っはぁっっっ? ちょ、な、何っ?」
タオルの向こうで、彼女が狼狽える声がした。
「巳波の匂いがする」
「…………もう」
ガシッと、掴まれた感覚。温かい感触。それが少し、ほんの少し震えていることに気がついた。
俺は聞いてみる。
「巳波。どうした」
「う、えあっ。べ、別に、大したことじゃ、なくて」
「大したことじゃなくて」
暗闇の向こうから、彼女の声がする。
「危ないことは、しないでね……」
「……ああ、わかってるよ」
分かっている。彼女に寂しい思いはもうさせない。苦しい思いはもうさせない。
「わたし、わたし…………斎田がいなくなったら、もう、もう」
その声は、どこか寂しげで、良く聞くと涙が混ざった声。
また、泣かせてしまった。もう、二度とさせるものか。
彼女だけは、俺が。
「巳波、いつまでくっついてる」
「…………ん、ずっと」
だから俺は、そんな甘えたような声に参ってしまって、自分の家に帰る気力も失ってしまって。外はまだ雨が降っていて、それはまた一段と激しくなっていて、彼女の家で一夜を明かしたのだった。