10/隣り合わせ
…………ポツポツと、ついに降り出した雨。俺達はそれを口実に、一つの傘の中に収まっていた。
俺はこんなに女性と身近に接するのは初めてで、それはどうやら彼女も同じらしい。ならば少しずつ、慣れていけばいいと思った。
ゆっくりでいいのだ。
そして目の前にあるのは、どこにでもあるような一軒家の住宅。俺達は電車を乗り継いで、ここまでやってきた。
表札を見ればそこには溝口と。
溝口孝史の実家だった。
「何で、場所しってたんだ」
「……一度だけ、連れて来させられたの」
そこから先は、萎れるように言った。
「……強引に、犯されそうになって」
「っ……」
俺は、すぐ傍にある彼女の身体を抱きしめた。そして彼女も俺に身体を委ねる。
「ごめん」
「……うん、いいの。もう大丈夫だから」
大丈夫な筈がない。
「思い出させて悪かった。もう、いいから。もう、嘘とか強がりとかで、自分を塗り固めないでいいから。俺の前では」
「……うん」
俺達は、数分の間、そうしていた。そして少しずつ、離れる。今は先に、まだやらなきゃいけないことがある。
「ていうか、誰かいるよな。両親とか、話しを聞きたいとかでいいのか。友達のふりでもすればいいよな」
「うん、そだね」
インターホンを押す。ありきたりな電子音が数回鳴り、誰かがドアの向こうから近づいてくる気配。そして扉が開く。
出て来たのは、見覚えのある顔だった。
金髪の、背の高い、若く見える女性。俺はその人が泣いていたのを知っている。
溝口孝史の母親だった。
「あの、どちら様……」
俺は、頭の中であらかじめ考えておいた言葉を口にする。
「……ええと、俺達、孝史君の友達、です」
「…………そう、ですか」
彼女は、まるで俺達が来たことによって思い出したくない何かを、思い出させられたような、表情をした。
平静を装うとしたのは明白だが、誰の目からもそれは明らか。
「……同じクラスの、斎田といいます」
後ろで聞いていた巳波が、少し苦しそうな顔をしながらも、決意したように前へ出る。
「……巳波です」
「……そうだったの。斎田さんと巳波さん。じゃあ、もしかして葬式に」
「はい。いました」
俺はそう答えた。
「そう、なら……恥ずかしい所を見せてしまったわね」
謝罪するように彼女は言った。しかし。
「そんなことありません。当たり前ですよ。心中お察しします」
巳波が言った。俺も同じことを思ったので、心の中で彼女に感謝した。
「……そうね、ありがとう。じゃあ、あがって貰おうかしら。簡単な物なら、お出しできるわよ」
俺達は、そこで目を見合わせ、お互いに頷き合ってそして俺が答えた。
「はい。お邪魔します」
通されたのは、リビング。そこには所々まだ彼の生活感が残っているようで、どうにもやりきれない。
今俺達が腰掛けているテーブルや椅子も、永久に失われてしまった主人を悼んでいるようだった。
溝口家は四人家族。溝口孝史には兄がいた。葬式で確認している。ということは、四人掛けの、このテーブルが埋まることはもうないのかもしれない。
「……他に誰もいないのかな」
隣で巳波。その疑問には俺が答えられる。
「父親は仕事だろうし、溝口孝史の兄は、見たところ年が離れてたから、もう一人暮らししてるんじゃないか」
「そうなんだ」
彼女は納得したように言った。そこへ一人分の足音がやってくる。
扉が開き、麦茶と菓子を乗せたトレイを持って溝口母は現れた。
テーブルを俺達を挟んで向かい側に腰掛けた。
「どうぞ、二人とも」
「ありがとうございます」
「どうも……」
氷が入ったグラスは、手で掴むとひんやりした。それは何となく死体を連想する。
自分もいつか死ぬときが来る。そのときは、こんな風に冷たくなってしまうのだろうか。
「孝史は、学校でどうしていましたか」
溝口母は、そう聞いてきた。それは、とても答え辛い質問だった。溝口孝史を、俺はまだ許したわけではなかった。
多分、この先もそれは同じだろう。巳波凪を傷つけた。そのことに変わりはない。
俺は、その母親と今向かい合っている。そのことにはあまり感じることはなかった。
少年犯罪は、それを育てた親の責任だと言うが、きっと皆自分の意志で決めたことだろう。
自分の犯した罪の一端を親に擦り付けているだけだ。人間が間違えるのは、他の誰でもない自分のせいなのだから。
「溝口君は、みんなに慕われていましたよ」
俺が迷っている内に、巳波はそう答えた。言わせてしまった。
俺一人で良かったのに……。嘘を吐かなければならなかったのは……。
「そう……そうなの……」
彼女は、果たしてそれは悲しみからきたものだろうか、迷うような表情を浮かべて巳波の言葉を聞いていた。
自分の息子が生きていた頃の話。決して気持ちの良いものではないだろう。
「……ごめんなさい。今あの子の話は……」
溝口母は絞り出すように言った。
「……すみません」
巳波は、申し訳無さそうにそう言った。顔を伏せて、ああ、俺は何をやってんだ。
彼女にこんなことをさせる為に来たんじゃない。そうじゃない。
「溝口さん。俺達、それでも聞かなきゃならないことがあるんです」
俺はそう言い放った。ここに来て迷いは消えた。
「……何かしら」
「殺された、そうですね。溝口君は」
悲痛。悲壮。そんな顔だった。彼女は、隠しきれずに感情を露わにする。
こんなこと、出来ればしたくはなかったけれど。もう仕方ない。
「……そう、です」
もし、俺の身近な人間が死んだとしたら、俺はどうなってしまうだろうか。明日、姉が死んだとしたら……泣くだろうか。
巳波が死んだら…………
「犯人はまだ捕まってないんですよね」
巳波は言う。
「……ええ。警察の人に色々と聞かれたりもしたわ。けれどまだ、……捜索中、だと」
ただの通り魔事件なら、程なく犯人は捕まるだろう。計画性のない突発的な、感情的な犯行は証拠が残りやすい。現に目撃者の証言もあるらしい。
俺のしようとしていることは、意味なんかないことかもしれない。
「ただ……」
そこで彼女は、含みのあるように言葉を濁らせた。
「……?」
「……ただ、とは?」
「いえ、警察の方が、男子高校生なんて狙う理由がないだろうって」
「……ああ」
犯行現場にはまだ行っていないが、犯行は人通りもある通りで行われた。
犯人が通り魔であるのなら尚更だ。感情的な理由で誰かを傷つけたいのなら、もっと弱い存在を狙えばいい。
言っては難だが、男性より女性の方が狙いやすいだろう。よりにもよって、体力的にも旺盛な、見るからに体格のよい溝口を襲う理由が分からない。
そして現に犯人は、彼の命を奪うことができた。そうか。
犯人は、少なくとも男性。溝口を一撃で倒すことのできる、腕力を持つ者だということにはならないだろうか。
そこで溝口母は言った。
「ごめんなさい、二人とも。もういいかしら。申し訳無いのだけど……もうあの子の話は……」
「すみませんでした。では、もう失礼させて頂きます」
「……そう。ごめんなさいね」
「いえ、お邪魔しました」
俺達は溝口母に玄関まで見送られ、溝口家を後にした。
「あんまり、はっきりとしたことは分からなかったね」
巳波は溜め息と共にそんな言葉を吐き出した。状況に何の発展もなかったことへの憂鬱だろうか。
「……そうだな。まあ、そんなもんだろ。結果を求めてしていることじゃあ、ないんだしな。仕方ない」
見上げれば、雨は小雨になっていた。これくらいなら、我慢できないこともなかったが。
「……」「……」
俺達は、同じ傘の中に収まっていた。