1/彼女は悪くない
群集心理という言葉があるけれど。それが何の、どういった学問か何かに出てきたのかさえ、俺は知らないが。
知っていて忘れていたのかもしれないが。
読んで字の如く、そのままの意味なのだろう。
群れる集まりの、心の理。心理というくらいだから、それは恐らく人間にのみ適用される言葉だろう。
人は一人では生きられないと言う。ならば二人なら生きられるのか。それとも、二人だけでも、人間は生きていけないのか。
自分はこれから生きていく中で、一体どれだけの人間と関わっていくのだろう。
「おい、お前。何で下着つけてきてんだよ。ざけんなよ、マジ殺すよ」
「うわ~、何で。昨日言ったじゃん。お前明日はいてくんなって。何でだよ、何でだよ」
「はあ、マジない。死ねよ、今日それなかったら学校こねえっての。来なきゃよかった。チョーだる」
「奴隷が下着つけてんじゃねえよ。……じゃあこうしようぜ。今から男子トイレ行って脱げお前。なあ、そうしよーぜ」
お、いいね。賛成賛成。おら、立てよ。行くぞ、さっさと立てこら。
多勢が一人を追い込むような、容赦の全く感じられない言葉。そこには相手を気遣うような配慮などは皆無であり、一方的な敵意と……玩具で遊ぶかのような悦楽のみがある。
「…………そ、そんな」
それは絶望に満ちた悲痛の声だった。
自分に降りかかる悪夢のような悪意に、どうすることもできない。されるがままに蹂躙され、これ以上ない程の屈辱。
「おら、お前が悪いんだろうが。お前自分で言っただろ。明日はいてこないって。言っただろうが。自業自得だっつうの」
「そうそう」
少女を取り囲む集団の一人が、少女の手を強引に取って立たせる。その際、少女は本来弱者である女性特有の、「きゃっ」というような悲鳴を上げるが、それにかまう者は誰もいない。
はい御一人様ご案内~。行き先は男子トイレ。連れてけ連れてけ。早くしろ時間なくなる。分かってるよ。
女性はなす統べなく集団に身体を拘束され、教室の隅からドアの方へ連行される。
教室内にいる他の人間は、その一部始終を観察してはいたが、自分から関わろうとはしない。
当たり前だ。
皆自分が可愛いのだ。……それに。
こいつら楽しんでやがる。
朝のHR前の教室には、クラスメートはまだ半分ほどしか登校してきていないが、その中には少女を助けようという者は誰もいない。
男子女子ともに半分づつくらいだろうか。特に男子生徒が、……少女を辱めるいつものグループではない他の男子生徒は、それでもその毎日の恒例である光景を、どこか楽しげに眺めていた。
醜悪な笑みで、その口を歪めて笑っている。
……他人の不幸は楽しい。自分とは関係ない場所で、誰かが苦しむのは、自分がそうではないのだということを実感させてくれる。
そして彼等にとってはそれだけではない。女子高生という人間として相応である、女性として成立しつつある少女が、時には嫌らしく、時には恥辱にまみれた目に合わされるのを見るのは快感だ。
まだ性行為に及んだこともない者が多いだろう。日常では不足する性の欲求を、こうして間接的に満たす。傍観という名の共犯者達だ。
いじめを止めない奴も、いじめに荷担したのだと皆言うが、そんなことを言う奴は、その場に居合わせた全てのそういった行為に対して、同じようにできるのだろうか。
この国の人間は皆そうだ。あいつはやってんのに、何で俺は駄目なんだよ。お前もそうするなら、俺もそれにしよ。
横並び主義。みんなで渡れば怖くない。圧倒的大多数から外れたくない。
俺自身がそうではないとは、言わない。
現にこうして、目の前で起きた全てを傍観していたこの俺が、一体何様のつもりで何を考えているのだろうと思ったが……まあそれはいい。きりのないことだ。
何かを考え続けていれば、その人間は死ぬまで考えていなければならない。
無難に、朝一番目の授業の準備をする。火曜日の一時間目は保健体育の時間である。……彼等がそれを見越してまで、先程の陵辱を仕掛けたのかまでは、分からないが。
ふと窓の外を見る。今日は曇りだ。後に晴れることも降り出すこともないという予報である。傘が邪魔にならないだけ、雨の日よりはましという天気だ。
自分のこの教室での位置は、窓際後ろから三番目という、無難な場所である。
自分のこのクラスでの立ち位置は、あまり友人がおらず、いつも独りで隅で本を読んでいるような、ぱっとしないものだ。あの少女とは、似て非なるキャラクターである。
巳波凪、という。先程連れていかれた少女の名は、ミナミ、ナギという。
背丈は一般的な女子高生の平均を僅かに下回る程度か。しかし容姿はその比ではないだろう。
整った小さな顔。綺麗なラインを描く目鼻立ち。くりくりとした、可愛らいしく覗く2つの瞳。
髪の毛はセミロング。校則通りに黒髪であり、あまり手はつけられていないようだ。
といったような、それなりの美人なのだが、彼女はあまり笑顔でいることはない。彼女に現在進行で起きている辛苦を思えば、それも仕方のないことか。
高校二学年。進級して一ヶ月程で、彼女の運命は決まった。
異常なまでの人見知り。何をするにも行動が遅く、要領が悪い。
あっという間に周囲でグループが出来ていく中で、彼女は孤立していく。
それだけならまだいい。友人を作らず、一人で過ごす高校生活という選択肢ものこっていただろう。
……しかし彼女には、それさえも許されることはなかった。
クラス内での不良グループに目をつけられたのだ。地獄の日々は、始まった。
まず彼等は、慎重に行動した。
彼女のクラス内での行動を計り、彼女という人間性を計る。
例えば彼女が、誰かから危害を受けたらどうするだろう。助けを求める相手がいるだろうか。
それとも、周囲の人間が、それを止めるだろうか。
教師は、友人は、……両親は。
始まりは些細なことからだった。
新学期も半月という頃、周囲のグループが完全に固まり、彼女の孤立がいよいよ際だってきた頃。
それは起きた。
登校してきた彼女の机に、チョークで落書きが施してあったのだ。白い線で、一言。
ブス、と。
カタカナで二文字。馬鹿馬鹿しい程に、くだらない。単純で、ありがちなその二文字ではあったが……彼女の脆い精神は、人から受ける敵意を緩和できない。
まともに受けてしまった。深く傷を負い、次の日……彼女は学校を休む。
それを見た、落書きの犯人……犯人達は思う。丁度良い獲物じゃあないか、と。
面白い、と。
彼女のクラス内での立ち位置は、そうやって決定した。
底辺も底辺。最下層に落ち込んだ。
言葉による暴力は日常。陰湿な嫌がらせは、毎日。彼女の持ち物で、一週間と無事であった物があるだろうか。
標的が男子生徒なら、そこで終わっていたのかもしれない。
しかし彼女は、女性である。男子からすれば、年頃の異性。嫌がらせは、次第にそちら側へと悪くなっていく。
彼女にとって、不幸なことに……彼女の身体は、女性らしい成長を順調に済ませていた。
その一人の女の子は、複数人の悪意の捌け口にされることになる。
……可哀想というよりは、運がないと思う。
いちいち他人のことを可哀想だなんて感じたところで、それでその人が救われるわけではないのだからと、彼女に対してとは限らずに、自分はそう思うようにしている。
可哀想ではなく、運がない。
彼女は悪くない。
彼女の運が、悪かっただけなのだから。