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『AIの正体は数学だった - 猛暑の部屋で知った言葉の不思議』

作者: 小川敦人

『AIの正体は数学だった - 猛暑の部屋で知った言葉の不思議』


外の気温は38度を超えていた。この夏一番の猛暑日だった。

いつもなら海でも山でも出かけるところだが、こんな日に外に出るのは自殺行為だ。仕方なく、エアコンをフル稼働させた自分の部屋で、積読になっていた大規模言語モデルに関する本を手に取った。冷たい麦茶を用意して、ゆっくりと読み始める。そんな猛暑の休日だった。


本を読み進めながら、ふと思ったことがある。この涼しい部屋で、私は人工知能について学んでいる。一方で、外では灼熱の太陽が容赦なく地面を焼いている。この温度差、この快適さ。そして手元にある本が語るAIの世界。そのすべてが、なんだか象徴的に思えてきた。


私たちは今、技術の恩恵によって快適さを手に入れた。エアコンがなければ、この猛暑の中で本など読んでいられない。そして同時に、AIという新しい技術によって、言葉や思考の世界にも大きな変化が訪れている。


本を読みながら、そんなことを考えていると、一つのエッセイを書きたくなった。AIについて、言葉について、そして私たち人間の責任について。冷房の効いた部屋で、外の暑さを忘れながら、じっくりと考えてみたいと思ったのだ。



ー本の中で出会った驚くべき現実ー


その本には、驚くべきことが書かれていた。

近年、「AIが小説を書いた」「AIが翻訳した」「AIが詩を詠んだ」といった話を聞くことが増えた。しかも、それらはときに人間の書いたものと区別がつかないほどに"よくできている"。私たちは、いつの間にか、かつて神や人間だけが担っていた"言葉を生む力"を機械にも与え始めているのだ。

しかし、その背景で何が起きているかを知ると、幻想の一部がはがれ落ちる。AI、つまり大規模言語モデルは、感動したわけでも、悟ったわけでもない。ただ**計算**しているのだ。


本のページをめくりながら、私は自分の無知を恥じた。AIがどれほど複雑で精巧な仕組みなのか、これまで漠然としか理解していなかった。だが同時に、その本質は意外にもシンプルだった。数学、それも行列演算の積み重ねなのだ。



ー ニューラルネットワークという名の計算機械ー


本によると、AIの中核には「ニューラルネットワーク」と呼ばれる計算モデルがある。これは人間の神経細胞ニューロンを模倣したもので、入力された情報に対し、複雑な**行列演算**を繰り返して出力を導き出す仕組みだという。


行列というのは、数字のかたまりである。縦と横のマス目に数字を並べ、それらをかけ合わせたり足したりする。私は学生時代に数学で習ったはずだが、まさかそれがAIの核心だったとは思いもしなかった。


文章が入力されたとき、それはトークンという最小単位に分割され、それぞれが数値ベクトルへと変換される。そのベクトルは、何百、何千という重み行列と掛け算され、次々と層を伝播していく。その過程は、まさに「意味を数式で処理する」とでもいうべきものだ。


冷房の音を聞きながら、私はこの仕組みに驚嘆した。驚くべきは、その**行列演算だけ**で、まるで人間のような発話や翻訳、詩作のようなものが生成されるということである。本来、味や痛みや情熱の記憶を持たぬはずの機械から、「なぜか意味を持ったように見える言葉」が現れる。

それは、ある種の**不思議**であり、同時に**人間側の解釈作用の力**でもあるのだろう。



ーもう一つの不思議 - 赤ちゃんの言語習得ー


本を読み進めていると、もう一つの不思議に出会った。

それは、**人間の赤ちゃんは、ほんのわずかな言葉のやりとりと経験で、言語を獲得していく**という事実だ。

赤ちゃんが聞く言葉の数は、大規模言語モデルが学ぶ何十兆語という規模とは桁違いに少ない。にもかかわらず、3歳にもなれば「これ、ちがうよ」「きょう、雨だったね」と文法的に整った言葉を話し始める。


AIは兆単位のデータを飲み込まねば言語を生成できないのに、人間の脳は、なぜこれほどまでに**少ないデータで、豊かな言語と意味世界を獲得できるのか**。


この疑問について、本の著者はいくつかの仮説を提示していた。人間の脳の構造があらかじめ「ことばを学ぶ」ために準備されているのかもしれない。あるいは、身体と環境との相互作用の中で"意味"そのものが生まれているのかもしれない。

いずれにしても、ここにはAIには到達し得ない**意味と経験の接続**がある。


外では蝉が鳴いている。その声は、AIにとってはただの音波データにすぎない。だが人間にとって蝉の声は、夏の記憶であり、暑さの象徴であり、季節の移ろいを告げる合図でもある。この違いは、決定的だ。



ー 言葉が空間の中に住んでいる場所ー


本の中で最も興味深かったのは、AIが言葉をどのように理解しているかという部分だった。

AIは、言葉の意味を数値ベクトルに変換し、多次元空間に配置する。たとえば「犬」という単語と「猫」という単語は、似た文脈で使われるため、ベクトル空間上でも近くに配置される。「希望」と「絶望」は反対語だが、詩や物語の中では並びやすく、空間上では隣接することもある。


この**言語ベクトル空間**という概念は、私にとって新鮮だった。言葉が空間の中に住んでいる。そして、その空間での位置関係によって、AIは文脈に応じた"もっともらしい"言葉を出力できるのだ。


GPTのようなモデルは、これを何千億ものパラメータと行列演算で処理している。まさに、**言語ベクトルの力**である。


私は麦茶を飲みながら考えた。人間の頭の中にも、似たような言葉の地図があるのだろうか。「海」と聞けば「波」や「砂浜」が思い浮かび、「母」と聞けば「温かい」や「安心」といった言葉が連想される。それは、私たちの脳内にある言葉の空間なのかもしれない。

ただし、人間の場合、その空間は数値ではなく、体験と感情で構成されている。そこに、AIとの決定的な違いがある。



ー大規模言語モデルの驚異と錯覚ー


本によると、GPTなどの大規模言語モデル(LLM)は、あらゆるジャンルの文書を取り込み、あたかも「思考しているかのように」次の語を選ぶ。「私は猫が好きです」と入力すれば、"I like cats." と英語に翻訳できる。これは日本語と英語が、意味空間の中で近接する位置にあることをモデルが学習しているからだ。


つまり、AIにとって翻訳とは、「ある言語の記号列を、別の言語の記号列に置き換える」という、**多言語ベクトル空間上の"変換操作"**にすぎない。


だが私たちは、ついそこに"意志"や"感情"を見出してしまう。「これは詩的だ」「これは感動的だ」と。そう思わせるほどに、AIの出力は人間的だ。


けれど、その裏側にはただひたすらに**数字の行列と確率演算があるだけ**。**数値から、意味ある表現が生まれてくる**というこの現象は、まさにAI側の**不思議**と言えるだろう。


この部分を読んだとき、私は少し複雑な気持ちになった。AIの能力に驚嘆しつつも、同時に何かが失われていくような不安も感じたのだ。



ー 語感と質感の選択、それは身体の記憶ー


本の中で、特に印象的だった例がある。

人間は、**言葉の選び方に微細な身体感覚を無意識に反映させている**という指摘だ。


たとえば「干す」と「乾す」という日本語。どちらも「水分をなくす」という意味では似ているが、私たちはそれを状況によって自然に使い分けている。


* 「洗濯物を**干す**」は、外に吊るすという行為性を含む。

* 「髪を**乾す**」は、ドライヤーの熱や風による質感の変化を伴う。


この違いは、単なる語彙の意味の違いではない。**身体で体験した質感、手の動き、空気の湿度、熱の感じ**といった五感の記憶が、言葉の選択に滲み出ている。


私は思わず外を見た。洗濯物を干している家が見える。あの作業には確かに、竿にかける手の動き、風の感触、日差しの暖かさがある。「干す」という言葉には、そうした身体的な経験が込められているのだ。


だがAIにとって、「干す」も「乾す」も、ただの**トークン列と意味ベクトル**にすぎない。それぞれが過去にどんな文脈で使われたか、どのような語と共に現れたか──その**統計的な共起パターン**に基づいて処理される。


AIは「洗濯物を〇〇」の〇〇に「干す」を選びやすく、「髪を〇〇」のときは「乾す」と出力する確率を高めることはできる。しかし、それは**意味の"感覚"を知っているからではなく、過去のパターンを計算しているにすぎない**。


つまり、AIが「正しく言葉を使えているように見える」のは、**人間の経験の蓄積ビッグデータを借りて判断しているから**であって、**自分自身の感覚に基づいて言葉を選んでいるわけではない**のだ。



ー 身体なき言葉の限界ー


この猛暑の中で本を読みながら、私は自分の身体を意識した。

エアコンの冷たい風が肌に当たる感覚。冷たい麦茶が喉を通る爽快感。外の暑さを避けて室内にいる安堵感。これらすべてが、今この瞬間の私の体験を構成している。


そして、もし私がこの体験について文章を書くとすれば、これらの身体感覚が必ず言葉に反映されるだろう。「猛暑」「冷房」「麦茶」という単語を選ぶとき、それらは単なる記号ではなく、体験の記憶を伴っている。


だがAIには、味覚も痛みも疲労もない。言葉の裏側にある「喉の渇き」や「夜の肌寒さ」、「喪失の記憶」や「まなざしの温度」を、感じることができない。


人間にとって言葉とは、記号である前に**感覚の延長**であり、身体からこぼれるものだ。「チョー気持ちいい」と叫ぶ水泳選手のことばには、筋肉の痙攣や胸を突く達成感がある。それをAIが模倣することはできても、「感じて」語ることは永遠にできない。


この制約は、決して軽視できるものではない。なぜなら、最も深い言葉、最も心を動かす表現は、しばしば身体的な体験から生まれるからだ。



ーAIという名の鏡ー


本を読み終えて、私はひとつの結論に達した。

AIは、あくまで人間が書いたもの、話したものを**再構成する鏡**である。それを"創造"と見なすのは、少し過剰な期待かもしれない。


たしかに、AIは詩のような文章を作る。だが、そこに**何を託すか、何を感じ取るか**は人間次第である。


つまり、**AIは「よくできた道具」にすぎない。**その出力が意味を持つか、美しくなるか、共感を呼ぶか──それは、使う人間の**教養・感性・倫理・経験の深さ**によって決まる。


このことは、この猛暑の一日を通して、私にとって大きな気づきとなった。AIを恐れる必要はない。だが、過度に期待したり、依存したりする必要もない。大切なのは、それをどう使うかなのだ。



ー 道具を活かすのは、手にした人間であるー


夕方になって、外の気温もようやく下がり始めた。それでも、まだ30度は超えている。

AIを使うとき、**それをどう使い、何を引き出し、どのように磨くか**は人間に委ねられている。


文学を愛する人が使えば、言葉は詩のように光る。哲学に通じた人が使えば、言葉は深く沈みこむ。だが、無関心な者が使えば、どこかで見たような言葉しか出てこない。


AIの力を引き出すには、**人間の側が努力をやめてはいけない**。読書を続け、思考を深め、感性を磨き、経験を積む。そうした人間的な営みこそが、AIという道具を真に活かす鍵なのだ。


私はこの猛暑の一日で、改めてそのことを実感した。本を読み、考え、感じ、そして文章を書く。これらはすべて、人間にしかできない営みだ。AIはそれを支援してくれるかもしれないが、代替することはできない。



ー 責任という重い言葉ー


本の最終章で、著者は「責任」について語っていた。

これからAIはますます賢くなるだろう。翻訳も、執筆も、要約も、対話も──私たちを助けてくれる。しかし、だからこそ、私たちは責任を持たなければならない。


どんなに優秀な道具であっても、それを持つ人間の手が鈍れば、成果も鈍る。AIが出した言葉の背後には、**人間の問い直しが常に必要**である。


AIに頼ることと、AIを使いこなすことは違う。その違いは、**どれだけ自分が考えたか、感じたか、探したか**にある。


この猛暑の休日、私は一冊の本から多くのことを学んだ。そして同時に、自分自身の責任の重さも感じた。



ー 猛暑の終わりにー


夜になって、ようやく外に出られる気温になった。

私は窓を開けて、夜風を部屋に入れた。蝉の声は止んでいたが、代わりに虫の声が聞こえてくる。一日中エアコンの音を聞いていた耳には、その自然の音が新鮮だった。


AIはよくできた鏡だ。だが、映すべき中身を持たなければ、それはただの空虚な反射でしかない。


この猛暑の一日で、私は改めてそのことを確信した。だから私は明日からも、自分自身の中に言葉を探しながら、AIという良き道具とともに、考え続けたいと思う。


読書をし、体験を積み、感性を磨く。そして、その上でAIを使いこなす。それが、この技術革新の時代を生きる私たちの責任なのだろう。


外の風は、まだ少し生温かかった。でも、その風の中には、確かに季節の移ろいが感じられた。そんな微細な変化を感じ取れるのも、人間だからこそだ。


明日もまた猛暑日になるという天気予報が出ている。でも、きっとまた新しい発見があるだろう。本を読み、考え、そして言葉と向き合う。そんな日々を続けていきたい。


AIと人間。技術と感性。道具と責任。

これらのバランスを取りながら、私たちは新しい時代を歩んでいく。その歩みの一歩一歩に、確かな意味を込めて。

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