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信じる者は大抵救われるし、信じていない者もたまには救われる

 宝石泥棒になるのが俺の夢なんだ、とクラスメイトの小林覚(こばやしさとる)が言った。

 幸い昼食時の談笑に花を咲かせていた周りの生徒には聞こえていなかったようだが、白昼堂々と犯罪予告をしてきた友人に秋崎皆人(あきさきみなと)は一言だけ返した。

「やめておいた方がいいと思うぞ」

 小林は秋崎の返事を聞いて、いかにも残念がる様子で目の前の弁当に視線を戻した。

「やっぱりそうか。そうだよなぁ」

 経験則から察するに、彼は今朝からずっと宝石泥棒になる方法について考えていたのだろう。秋崎の知る小林覚とはそういう男だった。


 秋崎が小林と知り合ったのは高校に入学した直後のことだ。話すようになったきっかけは、初めの席が隣同士になるという、あまりにもありきたりな出会いからだった。秋崎と小林は何か共通の趣味を持っていたわけではないけれど、なぜか馬が合った。どこか波長のようなものが合う、そんな曖昧な感覚を秋崎は抱いていたし、小林も同じような感覚を持っていたようだった。

 秋崎が小林の少々変わったところに気づき始めたのは、入学して数日が経ったころだった。

 小林は真剣な様子で秋崎に聞いた。

「秋崎はアナゴとウナギはどっちが美味いと思う?」

 記憶の限りでは何の脈略もなく、その話題が出てきたように思う。秋崎はウナギは食べたことがあるが、そんなに好きではない、アナゴは食べたことがないから分からん、と正直に答えた。すると小林はそうかと腕組みをして考え込む様子で俯いた。聞けばどちらも食べたことがないと言う。じゃあなんでそんな話題を持ちかけたのかと聞くと、小林はこう答えた。

「最初にどちらの方から食べるか悩んで、未だに食べられていないんだ。かなり似ているから、先に食べた方が好みではなかったら、もう一方も食べたくなくなるだろう。しかし残った片方は好物かもしれない。最初にどちらを食べるかは大事な選択なんだよ、俺の人生にとって」

 その後もウナギとアナゴについての意見を求められたし、後日アナゴはもう食べたかと何度も聞かれた。秋崎はアナゴを食べる予定もなければ、さして食べたいとも思わなかったので、その度にまだ食べていないと答えていたが、三度目くらいに、食べたとき報告すると告げたら、その後は一度も聞いてこなくなった。

 この件も含めて、小林のなかで何が重要なことで、何がどうでもいいことなのか、秋崎にはさっぱり見当がつかなかった。

 同じく食に関する話で挙げると、カレーは無水カレーでないとカレーとは言わないと言い張っていたにもかかわらず、恐らく無水ではないカレーを使ったカレーパンを美味そうに頬張っていたし、サンドウィッチに挟むべきなのは具材であってジャムなど言語道断である、と言う割にはピーナッツバターを挟んだサンドウィッチをこれまた美味そうに口に運んでいた。

 決してこちらや周りが食べているものを否定したりはしないのだが、意見を呈する割には、さして嫌っているものがあるようにも見えず、むしろ食えないものなどないのではないかと思えてしまうほど、小林は昼食時、色んなものを美味そうに口にしてはその味を楽しんでいるように見えた。

 当然といえば当然なのだが、小林が他のクラスメイトと打ち解けるようなことはまるでなかった。クラスには比較的人格者が多く、聞く限りではいじめやそれに準ずるような話はほとんど耳にしなかったのだが、常識人が多い空間において、小林はかなり浮いた存在になっていた。

 ある日の体育の授業前に体操着に着替える際、皆と同じく教室で着替えようとしていた小林の下着を見て、ある男子生徒がこう言った。

「小林、お前それ水着じゃないか?」

 見れば臀部の左上に世界水泳連盟FINAの公式マークがついた水着を小林が履いていた。時期はまだ春、入学直後の授業で水泳があるわけがない。彼は何事もなかったように冷静に答えた。

「あぁ、中学のとき水泳部でね。毎日これで学校に行ってたから慣れちゃって変えられないんだよ」

 うちの学校に水泳部はない。すなわち小林は水泳部員ではない。秋崎は小林が放課後にどこかに泳ぎに行っているという話を聞いたことがなかった(この後も含めて)。つまり彼は本当に水着を下着として着用していたのだ。

 小林のこうした変わった側面をあらかじめ知っていた秋崎は笑みすら浮かべていたが、周りのクラスメイトははっきり言ってかなり引いていた。最初に聞いた男子は気まずそうに、そ、そうか、とだけ言い残して足早に体育館に向かって行った。周りの生徒も同じくやや急ぐように自分たちの教室を後にしていた。

 その後も小林は、自分の中ではなんらおかしいと思っていないが、一般的に考えればかなりズレている発言を何度か繰り返した。水着の件は教室で着替えていた男子だけに露呈した話だったが、次第に女子の中にもこの人はかなり変わっているかもしれないという噂が出回り始めた。きっかけは小林が常に携帯しているのど飴の在庫が切れてしまったときだった。

 小林には特別低血糖の症状があるわけでもないし、飴を舐め続けなければいけない絶対的な理由があるわけではなかった。舐めている飴もほとんど糖分が含まれていないものばかりで、糖分補給に飴を使っているわけではないことは明確だった。しかし小林には定期的に飴を舐めていないと落ち着かないという習性があった。

 その日、飴の残りがほとんどないことに気づかず学校に来てしまった小林は、とうとう我慢できなくなり、三時間目の授業前に学校を抜け出して近所のコンビニにのど飴を買いに行くという、一般生徒からすれば考えられない行動に出た。授業に少し遅れた小林だが、基本的に嘘がつけない彼の遅刻の言い訳はちょっとした騒ぎになり、クラスどころか学年全体にまでその名が広がってしまうほどになった。

 露骨に無視するようなこともないが、積極的に話しかけるのは少々危険だろう、そんな雰囲気がいつのまにかクラス内に流れていた。

 ただ、当の本人はこのことをさして気にもとめていないようだった。むしろ自分が浮いた存在になっているということを自覚しているのかさえ怪しいところだったが、とにかく小林がクラスの中で日常的に話をするのは秋崎ばかり、という状況になるまでにそこまで長い時間はかからなかった。

 一方の秋崎も、他のクラスメイトとはそこまで馴染むことが出来ないでいた。良い人間ばかりなのは承知していたが、それは悪く言えば面白みがないということでもあった。小林ほど浮いているわけでもないし、授業や連絡事項等で必要な会話は基本的にこなしていたものの、周りから見れば小林と仲が良い変わったやつだと思われていたに違いなかった。


 小林が宝石泥棒になりたいと言い出したのは、中間テストを目前に控えた五月の下旬辺りのことだった。まともな答えが返ってくるとは思えなかったものの、あまりにも真剣に悩む小林を見て、秋崎はとにかく理由を訊ねてみることにした。何より秋崎は小林とこういう脈略のない話をしている時間を割と本気で気に入っているところがあった。

「なんで宝石泥棒なんだ。高価で盗みやすいものなんて他にいくらでもあるだろう」

 すると小林はいかにも抗議の眼差しを向けて言った。

「心外だな。俺は別に大金を稼ぐために宝石泥棒を志しているんじゃないぞ」

 小林は皆と同じく昼食中だったが、その場に箸を置き、まっすぐに秋崎の方を見て続けた。

「それに盗みなんてしたいわけじゃない。俺はたとえどれだけ小さなものでも、人様の物を盗む奴が大嫌いなんだ」

 相変わらずその表情にはふざけた様子がまるでなかった。秋崎は視線を水筒に移してお茶を飲み始めた(以前聞いたときは緑茶だったから多分そうなんだろう)小林に向かって言った。

「じゃあどうして宝石泥棒なんだ」

「言われたんだよ」

「誰に」

「それが分からんから困ってるんだ」

 支離滅裂で筋も通っていないように思えた。ただ、小林の話は彼の表情が物語るようにいつも本気だった。決して人を笑わせようなどとは思っていないし、騙してやろうとも思っていない。それが秋崎の心をいつも強く刺激していた。他人から見れば馬鹿馬鹿しいだろう会話も、小林の話ならば積極的に聞き続けることができた。

 秋崎はそれまでに聞いたことをまとめあげるように改めて小林に訊いた。

「つまり、誰かに宝石泥棒になるように言われたが、それが誰かはよくわからない。自分自身盗みは良くないことだと分かっているが、どうしてもこれだけは成し遂げたいと思っている。ここまでは合ってるか?」

「大体そんなところだ」

「どこで聞いたんだ」

「夢の中だな」

 大方予想通りだった。

 大抵、他人の夢の話というのは興味を持って聞いていられるものではない。展開が何でもありな分、ラジオ等では御法度とされているらしい。しかし秋崎は小林の夢の話にいささか興味があった。なにより彼自身がその夢にかなりの影響を受けているように見てとれたからだ。秋崎は言った。

「詳しく話してくれ」

 すると小林は食べかけのサンドウィッチが入った弁当箱に一度視線を下ろし、少し記憶を整理するような仕草を見せた。

 サンドウィッチを箸で食べるというのもかなり変わっているが、今日のサンドウィッチにはジャムでもピーナッツバターでもありきたりな野菜等でもない、特異な食材が挟まれていた。一つ目は納豆キムチ、二つ目は海苔の佃煮、三つ目は赤ジソのふりかけだった。どれもご飯に乗せると真価を発揮するように思うのだが、美味いのだろうか。

 秋崎がそんなことを考えながら言葉を待っていると、小林は顔を上げて流れるように話を始めた。いつものように特別な前置きもなく唐突に始まる話だった。

「気づいたとき、俺はトンネルにいた。行ったこともなければ見たこともないトンネルだった。外は雨が降っていて真っ暗だったし、中も田舎のトンネルだからか、壁や天井に明かりのようなもの一つないトンネルだった。多分外は真夜中だったんだろうと思う。そんなに長いトンネルじゃなくて、入り口付近からでも出口がそれなりに大きく見えるほどの長さだった」

 秋崎は気になったことを素直に訊ねる。

「一ついいか? 中には明かりがない、外も真っ暗なのになんで出口が見えるんだ」

「設置された明かりこそなかったが、トンネル内に光が何もなかったというわけじゃない。少し遠くの方でスマホの画面と思しき光が見えたんだ。周りが暗かった分、それは際立って明るく感じた。事実それなりに明るい画面だったんだと思う。ただ実際、いくら短いとはいえスマホ程度の光で出口まで先が見えるようになるかは分からん。夢だからな。見えちまったもんは仕方ない」

「確かにそうだ。続けてくれ」 

「俺はスマホの光の方に近づいていった。暗がりの中で自然と光を求めるのは、多分どんな動物や虫だって変わらないんだろうな。するとスマホの近くに俯いたまま座り込んでる一人の少女の姿が見えた。年は多分今の俺たちと同じくらいか一つ下くらいだったと思う。中学生なのか高校生なのかは分からないが、とにかく見たことのない制服を着ていた。スマホは彼女の一メートルほど前で光り続けていたが、彼女のものかは定かじゃなかった。ただずっとロック画面のままスリープになることもなく光り続けているんだ」

 小林は一拍間を置いて続けた。

「俺は少女に声をかけた。こんな夜中にどうしたんだってな。俯いている彼女は外の雨の音で正確には聞き取れないものの、泣いているようにも見えた。すると次の瞬間、彼女は顔をゆっくり上げてこちらに顔を向けてきた。その表情には確かに悲しみのような雰囲気があった。もしかしたら本当に泣いていたのかもしれない。しかしそんなことすら絵になるほど、彼女は美しい容姿をしていた。小顔で鼻筋の通った綺麗な顔立ちだった。そんな彼女がしばらくこちらを見つめた後、こう言ったんだ『宝石泥棒になるべきよ。そうすれば罪を免れる』ってな。

 俺はもちろんどういうことかと聞こうとした。だがそこで夢が終わった。現実に戻った。もちろん続きを聞こうと何度も眠りにつこうとした。だが無理だった。そして忘れることもできなかった。彼女の言った言葉が、ずっと頭から離れなかった」

 小林は話は以上だと言わんばかりに再び水筒を手に取り、一口飲んだ。秋崎は一通りの話を聞いて、思ったことを正直に述べた。

「変わった夢だな」

「まぁ夢なんてみんな変わってるもんだろう」

「それもそうだが……」

 秋崎が夢を見る場合、過去のいずれかの時間、もしくはどこかしらで見てきた世界に飛ばされることが多い気がした。世間一般的にどうなのかは分からないが、見たこともないトンネルの夢を見るというのはいささか珍しいのではないかと思った。

「それでどう思う? 俺は宝石泥棒を目指すべきだろうか」

 小林の表情はあくまで真剣そのものだった。これと同じ夢を見て、さて宝石泥棒になろうと本気で思うやつが果たしてどれくらいいるものか、いや、そんなことで宝石泥棒が生まれていては、この国の治安はここまで安定していないだろう、秋崎はそんなことをなんとなく考えていた。少なくとも秋崎の知りうる範囲の人間で、このような夢に対してここまで悩むことが出来るのはこいつだけなのではないかと思った。

 秋崎も一切ふざけることなく彼の話に答えることにした。それが彼に対する秋崎なりの礼儀だった。もちろん笑顔も含めていたが、それは場を和ませるために必要な最低限の笑顔だった。

「一つ言えるのは、宝石泥棒は泥棒側にどんな事情があろうと基本的には罪に問われるはずだということだ。俺はやっぱり反対だな」

 小林はこう見えて馬鹿ではない。むしろ学校の成績は秋崎よりも遥かに優れている。善悪の判断だって秋崎が同意する程度にはまともだし、政治思想も偏ってはいない。だから宝石を盗むという行為自体を肯定的に捉えているわけではないはずだ。そうするべきではないことももちろん分かっている。ただ宝石泥棒という存在になんらかの引っかかりを感じているのだ。

 小林は今一度、サンドウィッチを箸で掴みながら一切表情を変えることなく言った。

「あの夢には一体どんな意味があるんだろうか」


 その日の最後の授業は比較的早く終了した。化学基礎の普段から口の悪い教師が、金曜くらい早く帰ろうぜと言って五分ほど前倒して、さっさと教室を出ていってしまったからだった。

それから数分後に担任教師がやってきてホームルームが始まり、ものの二分程度で解散ということになった。授業が早く終わったため、帰り支度を既に終わらせていたクラスの人間たちは、ホームルームの終了とともに一斉に教室を飛び出した。

 街の方に寄ろうと言い出したのは小林だった。宝石の下見なんて御免だからなと、あらかじめ断っておいた秋崎に小林は言った。

「さすがに行かないよ。高校生二人じゃ怪しまれるだけだしな」

 小林は変な言動こそ見受けられるが、嘘をつく奴ではなかった。行かないと言うのなら行かないんだろうし、秋崎はテスト勉強の息抜きがてらついて行くのも悪くないだろうと思っていた。

 秋崎が小林と繁華街の方に出るのはこれが初めてではなかった。共通の趣味こそ特にないものの、繁華街には書店や喫茶店など、ただ時間を共有するという意味で適した空間が多かったので二人は放課後、なんとなくそこに向かうことが多かった。二人とも部活に入るような人間ではなかったので、放課後の時間には余裕があったのと、ほぼ電車移動のみで行けてしまう手軽さが最大の理由だった。

 JRから市営電車に乗り換え、いつもの駅に降り立った二人は、とりあえず駅から数メートルの距離にある書店に向かった。それからは各々興味のある場所に移っていった。秋崎は現代小説を数冊試し読みし、小林は絵画や建築などアート関連の本を眺めていた。

 秋崎はこういう場合、大抵小説のブースに向かうのだが、小林が向かう場所は毎回定まっていないような気がした。何も買わないときもあれば、二、三冊一気に買っていくこともある小林の家が、経済的にどのくらいの余裕があるのかを秋崎は一度たりとも聞いたことがなかった。

 二十分ほどゆっくり見た後、秋崎は気になる文庫本を一冊見つけたので買っていくことにした。それから小林のもとに向かい、何かあったかと訊ねると、今日は何もなかったと言ったので二人で書店を後にした。

 それからどこかで小腹を満たそうということになった。繁華街には至る所に飲食店が存在するが、二人は比較的手頃なファストフード店を選んだ。値段や量、滞在時間を考慮してそれくらいが一番妥当だろうという結論に至った。

 繁華街のその店舗は、一階が会計のレジ、二階が客席という構造になっていた。二人は各々の注文を済ませ、商品が乗せられたトレーを受け取ると、足早に階段を上っていった。

 二階は金曜の夕方にしては比較的空いていたのだが、二人は窓際の席に隣り合って座った。向かい合って座る席も空いているには空いていたんだが、これから混み合うだろうという予測のもと、小林が窓際の席に行こうと言い出したので、秋崎はそれに従うことにした。

 右隣に座った小林のトレーを見てみる。秋崎はこの店に行く場合、大抵期間限定のものを優先して頼むことが多かったのだが、小林は毎度同じものしか頼んでいなかった。今日もそこには、分厚い肉とチーズが二枚ずつ交互に重ねられた正式名称の分からないハンバーガーとポテトにドリンクが置かれていた。

 学校での弁当のバリエーションとは打って変わって、外食のときの小林は、それぞれの店舗で大体同じものしか頼まないというスタンスを取っていた。一度なぜ同じものばかり食べるのだと訊ねたことがあるが、この店でこれ以外を食べるなんて俺には考えられないと一蹴されてしまった。秋崎はおそらくその店舗で初めて食べたものをずっと気に入っているだけではないかと睨んでいたが、真相は未だに分からないままだった。

 何度か来ているこの店舗では、それぞれ頼んだメインの物を食べ終わるまで話し始めないという暗黙のルールが二人の中で自然と生まれていた。そもそも二人はもとからそこまで口数が多い方ではないため、基本的に何も話題がないときはただ黙々と食べ続けることができた。

 ただ、今日はそのルールが早々と破られることになった。先に口を開いたのは外のある一点を見つめていた小林の方だった。

「なぁ、あれって宝石店だよな」

 秋崎は小林が視線を向けていた左側の方を見た。そこには時計・宝石店の文字が確かに見えた。そもそもこの繁華街にそういった店がある事に秋崎は初めて気がついた。何度も歩いている通りであるものの、あまりに縁がないので存在すら知らなかったのだ。

 ただ、この店舗の窓際からその宝石店を観察するには、それなりの距離があった。店の奥にいた数名がどんな人間なのかはよく分からなかったものの、店先に立っていた店員らしき身なりの整った男と、上品な服装に身を包んだ中年の女性の姿がかろうじて認識できた。秋崎は言った。

「行かないからな」

「分かってるよ」

 そう言いつつ、小林の意識はそこからなかなか離れないようだった。距離的に宝石店を見るためにこの店舗の窓際を選んだとは思えなかったが(もっと近くでよく見える飲食店があるはずだ)、こうなってしまってはそれなりの時間、ここに留まることも秋崎は覚悟しないといけなかった。

 事実、その後の小林の食べるスピードは明らかに遅くなってしまった。秋崎も仕方なくその店を一緒に眺めつつ、ゆっくりと自分が注文したハンバーガーたちを食していくことにした。

 眺めていると、秋崎はあることに気づき、驚いた。宝石店という高価な商品を扱っている店舗にも関わらず、その店はなかなか前のめりな販売方針をとっている店だったのだ。指輪の試着でも試しているのか、店先で中年女性が男性店員に指先を差し出しているのが分かった。高級店は自ら訪れた客に寄り添った接客をするイメージだったのだが、商魂たくましいと言うべきか、その時計・宝石店はとにかく周辺に通りかかる人の目に届きやすいように努めている印象があった。安価なものから高価なものまで、大体のものがインターネットで注文できてしまう現代において、やはりこれくらい前のめりでないと高級店もやっていけないのかもしれないなと秋崎はなんとなく思った。

 しかし次の瞬間、思いも寄らない人影が店員の前を通り、一瞬にして去って行った。遠目に見ても違和感を抱くほど、周りの世界からかけ離れていたその人物は、帽子にサングラス、マスクといった覆面の格好で勢いよくその場を駆け出していった。

 右に座っていた小林は思わずその場に立ち上がった。何か異変が起こったことは誰の目にも明らかだった。すぐに誰かの叫ぶような大声が周辺に響き渡った。

「泥棒だ! 捕まえろ!」

 ファストフード店のガラス越しにも聞こえるその絶叫の主は、おそらく宝石店の店員だったのだろう。店員はすぐにその場から走り出し、覆面の人物を追いかけた。覆面はその場にいた何人かの男の妨害を上手く避けながら、通りに向かって走って行った。そして遂には近くに停まっていた仲間らしき人物の車に乗り込んで消えてしまった。

 だが、それと同時のことだ、まさに一瞬の出来事だった。何が起こったかは分かっていても頭の処理が追いつかない、そんな感覚が現場を見ていた全員に生まれているのではないかと秋崎は思った。宝石店のちょうど隣に建っていた三階建の建物(何の店舗かまでは遠すぎて読み取れなかった)から店の縦看板が勢いよく宝石店側に落下したのだ。幸い客の中年女性にはギリギリで当たらなかったものの、先程覆面を追いかけていった店員が接客をしていたまさにその場所に、看板が落ちているのが分かった。

 幸い大きな怪我をしている人物は見る限り一人も見当たらなかった。警察を呼べとの声がそこら中で鳴り響き、周辺がざわざわとし始める中、戻ってきた店員は呆然とした様子で店先を見つめていた。

 中年の女性客は腰砕けになり、その場に立ち上がることができなくなっていた。秋崎にとってその光景は、今後の人生で二度と忘れられないものになるんだろうという確信があった。二人は食べ物に一切手をつけることが出来ないまま、眼前に広がる光景を声も出さずに延々と見つめ続けていた。騒ぎから数分間、まともに動くことも喋ることもできなかった。


 警察も駆けつけて、報道陣も続々と集まってきたタイミングで小林が、行くかと言ってその場に立ち上がった。正直、そうしてくれなければいつまでも立ち上がることができなかったかもしれないと秋崎は思った。目の前で起こった非現実的な出来事を上手く飲み込むことができなかった。二人は頼んだものをほとんど残してしまっていたので、残ったハンバーガーやポテトを鞄に入れて持ち帰るような形で店を出て、市営電車に乗り込んだ。

 帰りの市営電車はやや混み合っていた。世間の退勤時間と被っていたのもあるが、例の騒ぎを聞きつけた人たちが様子を見に集まっていたのが理由として大きい気がした。

 電車内でも二人は一言も言葉を交わさなかった。単純に人が混み合っていて、大きく喋ること自体憚られるような雰囲気があったのも事実だが、それ以上に何か言葉そのものを生み出す力を一定時間失っている感覚があった。秋崎は近くの手すりに掴まって何度か深い呼吸をして電車内の乗客を眺めていたし、小林はつり革に掴まり、ただ一点を見つめて考え込むような様子を見せていた。それぞれが考えることに必死で、なんらかの言葉を発することすらできなくなっていた。

 市営電車を降りてJR駅構内に入ってから少し経って、小林が言った。

「今日はすまんかったな」

 一言目が謝罪だったのは、秋崎からすればかなり意外なことだった。なぜならこの約二ヶ月の間に、秋崎は小林の謝罪の言葉というものを一度も耳にしていなかったからだ。秋崎は純粋な疑問をそのままぶつけるように短く返した。

「なんで謝るんだよ」

「街に行きたいって言い出したのは俺だからな」

 事実、秋崎は今日の一連の出来事についてそれなりにショッキングな感情を抱いていた。しかしそれはなにかしらの傷を負うような感覚ではなかった。

 秋崎は今作ることできる精一杯の笑顔で小林に言った。

「いつものことだろう」

 それだけ聞くと小林はほんの少しだけ相好を崩して、秋崎の位置よりも一歩前に出て言った。

「じゃあまた来週な」

 小林の乗る方向は秋崎と反対側の電車になる。だから二人はいつも入場口を抜けた先で別れていた。だがこのとき、ホームに向かって歩き出す小林を秋崎は一度呼び止めた。

「小林」

 互いの足が止まる。秋崎は言った。

「それでも宝石泥棒はやめておいた方がいいと思うぞ」

 小林はこちらを振り向いて笑った。

「分かってるよ。お前の言うことは大体正しいからな」

 それから二人はそれぞれの電車が着くホームに歩き始めた。辺りはもう暗くなり始めていたが、駅構内にはそれなりの人間がうろついていた。

 反対側のホームに小林の姿が見える。もう先程までの小林とは少し何かが変わっているような気がした。彼はその場で数学らしき教科書を取り出し、眺め始めていた。

 来週末からは中間テストが始まる。秋崎は英単語帳の出題範囲に指定されている箇所を開きながら、何時に到着するか分からない電車を待っていることにした。

 電車はなかなか来なかった。先に小林の方の電車が来て彼がいなくなったとき、秋崎はこの世界に自分だけが取り残されてしまったような不思議な感覚を覚えた。早くこの世界から抜け出してしまいたいと、秋崎は切に願っていた。

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