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その7 水しか知らない彼と、油絵より歪んだ世界で恋をした

 彼が自分の正体を明かしてから、数日。


 私は一度も怖いと思わなかった。

 それどころか、ようやく“彼の全部”に触れられた気がしていた。

 けれど、そんな静かな幸福は、あまりにも脆かった。


     *


 その日、私は彼の部屋にいた。

 彼の本来の姿のまま、隣に横たわる彼の呼吸――いや、静かな“循環音”を聞きながら、私はその存在を確かめていた。


 ……ドアが、強く叩かれた。


「英二。開けなさい」


 聞き覚えのある、冷たく澄んだ声。

 南明璃だった。


「君には、もう選択の余地はない。――帰還命令が出たわ」


 私ははっとして英二さんを見る。


「……帰還?」

「そう。あなたの観察任務は終了。そして、三上涼子。あなたは、私たちの世界にとって“ノイズ”なの」


 英二さんが立ち上がった。

 その姿は、再び人間の擬態をまとっていた。

 だが、その瞳は怒りと悲しみに揺れていた。


「明璃。……僕は行かない」

「は?」

「僕は、地球に残る。彼女といる。それが、僕の選んだ“本心”だ」

「……あなたは、私たちの存在を危険に晒すつもり?」

「危険に晒したのは君だ、明璃。“彼女を排除する”と、平然と言う君こそが――」


 英二さんの声が震えた。

 私は、ただ彼の背中を見ていた。

 そしてその背中が、どこまでも頼もしく思えた。


「……なら、いいわ。あなたもろとも、“消去対象”になるだけ」


 そう言って、明璃の体が変化を始めた。

 擬態がほどけ、皮膚の表面がぬるりと溶け、膨れ、そして――

 触手のようなものが、黒く、しぶきをあげて伸びた。

 私は思わず悲鳴を上げた。


「涼子、こっちに!」


 英二さんが私の腕をつかみ、非常階段へと駆け出した。

 すぐ背後で、壁を叩きつける水の音が聞こえる。

 何かが、ぬめりをともなって追ってきている。


 私は泣いていたのかもしれない。

 でも、彼の手だけは離さなかった。


     *


 夜の町を、ふたりで逃げた。

 人通りのない裏路地を抜け、線路沿いを走り、廃工場に身を隠した。

 鉄骨の上に座り込んだ英二さんが、静かに言った。


「もう、逃げられないかもしれない」

「それでもいい。……私は、あなたといる」

「でも――」

「あなたが“宇宙人”でも、“水だけで生きる”存在でも、私にとっては“英二さん”なの。あの日、公園で水を飲んでいた、あなただけが人間に見えた。それだけが、真実なの」


 英二さんが、私を見た。

 その瞳は揺れていたけれど、ゆっくりと、確かな強さを湛えていった。


「……ありがとう、涼子さん。君に出会えたことが、僕の人生の奇跡だ」


 私は、彼の胸に顔を埋めた。

 水の匂いがした。

 でもそれは、冷たくなく、温かかった。


     *


 その夜、英二さんは泣いていた。

 “水”としてしか流れない涙が、私の手を濡らしていた。


「僕は、君を守れない」

「守ってるよ。今もこうして、そばにいるじゃない」

「もうすぐ、帰らなきゃいけない。……そうしなければ、君が“本当に”危ない」


 彼の種族は、涼やかで優しく、でも冷酷でもあった。

 感情ではなく、水の論理で動く存在。


 人間は“支配”すべき対象。

 涼子は“例外”――だが、例外は、残酷な世界では許されない。


「帰っても、また会える?」


 私は聞いた。わかっていた。再会が叶わないことを。

 でも、それでも聞かずにはいられなかった。


「会える。……いつか、もう一度」


 彼は微笑んだ。

 そして、朝が来る前に姿を消した。


     *


 私は町へ戻った。

 けれど、そこにはもう“町”はなかった。


 人がいない。


 駅も、スーパーも、信号も、全部が止まっていた。

 道には誰の足音も響かない。

 “世界”だけが、音もなく空っぽになっていた。


 私は、ただ歩いた。

 「誰か」とすれ違いたくて、でも誰にも会えずに。

 しばらくして気づいた。


 ――自動販売機の中の水が、全て空になっていた。


 誰かが、それを集めたのだろうか?

 それとも、それすら“誰もいない世界”の余白なのか?


     *


 私は公園へ向かった。

 初めて英二さんと出会った、あの場所。

 水を飲んでいた、あの蛇口の前に立つ。


 まだ、水は流れていた。


 かすかに、ぬめりを含んだ水だった。

 私はペットボトルの蓋を開けて、その“記憶の水”をゆっくりと飲んだ。

 透明なのに、ほんのわずかに、甘さがあった。

 目を閉じると、彼の声がした。


「――君に出会えて、よかった」


 私は笑った。泣きながら、笑った。


     *


 ふと、足元を見ると――

 ベンチのそばに、“何か”が這った跡があった。

 ぬめりを含んだ粘膜のような痕。

 それは、蛇口のほうへと向かって消えていた。


(……英二さん?)


 それとも、彼じゃない“何か”?

 私は、わからなかった。

 でも、思った。


(それでも、また会える)


 誰もいない世界で、ひとりきりの私の声は、空に溶けた。


「……おかえりなさい」


 そして、もう一度水を口に含んだ。

 それは、やっぱり、あのときと同じ味がした。

 かつて私は、世界が歪んで見えるようになった。

 人の顔は油絵のように滲み、笑顔も怒りも識別できず、誰も“人”には見えなかった。


 けれど、あの日。

 真夏の公園で水を飲む彼だけが――

 私の中で、はっきりと「人間」に見えた。


 彼は水しか知らなかった。

 私は歪んだ世界で、ただ愛を探していた。


 そして私たちは、触れた。

 異なる種でありながら、たしかに通じ合った時間があった。


 たとえこの世界がすでに終わっていても。

 人が滅んでいても。

 空っぽの町を歩く私の手の中に、彼が遺した水のぬくもりがあるかぎり――


 私は覚えている。


「水しか知らない彼と、油絵より歪んだ世界で恋をした」ことを。

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