その6 告白
その日、私はいつものように公園のベンチで英二さんを待っていた。
けれど彼は現れず、代わりに――別の人物が、私の前に姿を現した。
「こんにちは、三上さん」
声をかけられ、顔を上げると、そこに立っていたのは南明璃だった。
スーツ姿の彼女はどこか洗練された雰囲気で、声のトーンは穏やかだった。
だが、私は直感的に“何かがおかしい”と感じた。
――顔が、見える。
歪んだはずの彼女の顔が、なぜかやけにクリアに、輪郭をもって見えている。
それは“普通に見える”英二さんと同じ現象だった。
「……こんにちは、南さん。すみません、いつもとお化粧を変えられましたか?」
「ああ、やはりあなたは理解できるんですね」
「それは……どういうことでしょう?」
「少し、お話ししませんか? あそこ、カフェが空いてます」
彼女の微笑みには、どこか冷たいものが混じっていた。
「……ええ、まあ」
断る理由もなく、私は仕方なく頷いた。
*
カフェの席に着くと、明璃さんは先に注文を済ませた。
私はアイスティーを頼んだが、彼女は『水だけで』と言った。
その言い方が妙に引っかかった。
「英二さんのこと、よく知ってるんですね」
「もちろん。彼のことなら、誰よりも。昔から一緒に行動してましたから。……あなたより、ずっと」
言葉のひとつひとつが、針のように刺さる。
「三上さん。あなた、本当に彼のこと……わかってるの?」
「……わかってるって、どういう……?」
「彼は、特別な存在なの。普通の男じゃない。あなたが知ってる“地球の恋愛”なんて、彼には無意味。 ――だから、あなたの役目は、終わったんじゃない?」
その言葉に、思わず手の中のグラスが震えた。
「何が言いたいんですか?」
「英二さんは、私たちの世界に帰るべきなの。人間と交わるなんて、間違ってる。それに……あなたみたいな凡庸な女が、英二さんにふさわしいとでも?」
言葉が、鋭く胸を裂いた。
「……彼が、そう思っているとは限らない」
「そう思い込んでるだけよ。――でも、そうね。一度、彼の“本当の姿”を見てみる? あなたの目なら、見えるんでしょ?」
そう言って、明璃はすっと手を伸ばしてきた。
その指先が、私の手に触れた瞬間――ぞわりとした悪寒が走った。
皮膚が粘つくような、冷たい膜に覆われた“何か”だった。
私は反射的に立ち上がった。
「……やめてください」
声が震えた。
「怖いの? やっぱり、あなたには無理よ。彼の隣にいるには、覚悟が足りない」
その瞬間――
「明璃。やめろ」
聞き慣れた声が響いた。
振り向くと、そこには英二さんが立っていた。
息を切らし、まっすぐこちらを見ていた。
「英二……?」
明璃の表情がわずかに歪んだ。
「どうしてここが――」
「僕が“彼女を守る”って言っただろう。……お前には触れさせない」
英二さんは私の隣に立ち、静かに手を差し伸べた。
私は、迷うことなくその手を握った。
温かかった。
たしかに、“人間の温度”をしていた。
*
彼の部屋に入るのは、初めてだった。
それなのに、私は震えていた。
恐怖ではない。
不安でも、警戒でもない。
――これは、覚悟の震えだった。
英二さんが「話したいことがある」と言ったとき、私はもう答えを予感していた。
あの異様な水音、明璃の言葉、そして何より、彼の時折見せる“何かを隠している”ような瞳。
でも私は、もう一度彼の目を見て、信じたいと思った。
*
リビングに通され、私はそっとソファに座った。
英二さんはいつものようにペットボトルの水を持ってきたが、それに口をつけることはなかった。
「……涼子さん。ありがとう、来てくれて」
「こちらこそ……あの……何を話したいんですか?」
彼はしばらく黙っていた。
水の入ったボトルをじっと見つめ、やがてゆっくりと口を開いた。
「涼子さんは、たぶん……気づいているんだと思う」
「……え?」
「僕が“普通の人間じゃない”ってこと。……それを隠して、君と関わっていた。本当なら、こんなことをしてはいけなかった」
彼の声は震えていた。
私が知っている、あの穏やかな声ではなかった。
「だけど……君が、優しくしてくれたから。君だけは、僕の心を見てくれたから。どうしても、嘘のままではいられなかった」
英二さんが、こちらを見た。
その目に、涙がにじんでいた。
「……君にだけは、本当の僕を見てほしい。その上で、嫌われてもいい。拒絶されても、仕方がない。でも、ちゃんと――向き合いたい」
そして彼は、深く息を吸った。
次の瞬間――
彼の身体が、ふっと滲むように、形を変え始めた。
皮膚の色が透明に近くなり、輪郭が揺らぎ、まるで水そのものが人の形を模しているような、柔らかく光る体になっていく。
美しかった。
人間とは違う。
でも、怖くはなかった。
彼の瞳だけは、変わらずにそこにあった。
いつも私を見てくれていた、あの優しい瞳が。
「これが……僕の本当の姿。僕は、この星の人間じゃない。僕の仕事は、水を調べること、この星の資源を探すこと……だけど、君に出会ってから、任務よりも――君のそばにいることのほうが、ずっと大切に思えてしまった」
私は、言葉が出なかった。
けれど涙が、自然に頬を伝っていた。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
恐怖はなかった。むしろ、その姿がいっそう人間らしく思えた。
私は、彼の手に触れた。
冷たく、そして柔らかい。
まるで、水そのものに触れているようだった。
でも――確かに、そこに“ぬくもり”があった。
「……そんなこと、もう知ってました」
ようやく声が出た。泣きながら、笑っていた。
「あなたの中にある“優しさ”だけは、本物だって思えたから。それが、あなたの姿でも、名前でも、仕事でも関係なく――私は、あなたが好きです」
英二さんの瞳が、ゆっくりと揺れた。
その瞳から、ひとすじの水の雫がこぼれ落ちた。
それは、まるで“涙”のようだった。