その5 透明なフィルター
夜。
部屋の灯りはつけていない。
地球人が暮らす空間に似せた家具と設備は並んでいるが、実のところ、必要なのは水だけだ。
リビングの中央、床一面に広げた湿潤マットの上に横たわり、僕は目を閉じた。
身体が水を吸収し、内側から潤っていく感覚。
この星の水は、純度も成分も、僕の種族にとっては貴重な“資源”だった。
それを採取し、母星へ送るのが、僕の任務。
――ただの、任務だったはずだった。
だが、あの女性と出会ってから、僕の心は予定外の感情に乱されていた。
三上涼子。
僕は“偽装”のフィルターを通じて、通常は人間が好む姿に見える。
それは涼子にも機能しているが……彼女は他の人間が普通に見えていない。
そのせいであべこべとなっている。
彼女には僕だけが「人間」として見えている。
奇妙だ。だが、それ以上に彼女の存在が私の心を揺らす。
はじめは、観察対象として興味を持った。
だが次第に、そのまっすぐな瞳や、臆病でありながらも誰かを信じようとする心に、惹かれていった。
(彼女は、私を“優しい”と言ってくれた)
それが、どれほど嬉しかったか。
我々の種族にとって「優しさ」など、論理や効率にそぐわない不要な感情とされている。
だが、涼子に会うたび、私はその「不要な感情」にすがるようになっていった。
リビングの湿潤マットの上で目を閉じていたところ、ドアがノックもなく開いた。
――彼女だ。南明璃。
彼女はこのマンションのセキュリティコードを知っている。かつて、同じ任務を共有する者として、しばしば出入りしていた。
「英二。あの子、何?」
玄関に入ってきた明璃は、躊躇なくハイヒールを脱ぎ捨て、部屋の奥へと進んできた。
その瞳は氷のように冷たく、口元には微笑みがあるのに、血の通わぬ表情だった。
「三上涼子のことか?」
「そう。“地球人”の女」
彼女はわざと“地球人”という単語を吐き捨てるように言った。
「観察対象。そう言っていたわよね? あなたは、任務を忘れかけている」
「忘れてはいない」
「でも、その目は嘘をついてる。……あなた、あの子に“感情”を持ってる」
明璃は、部屋の奥の浄水タンクに歩み寄り、その中で冷却中の水を眺めた。
その表情はどこか楽しげだった。
「地球人は“水”を持ちすぎている。純水じゃない、血も、汗も、涙も。混じり合った水が体内を流れてる」
彼女は指先で空をなぞるようにしながら続けた。
「私はそっちのほうが好きよ。冷たくて、ちょっと鉄っぽくて、でも濃い」
「……それは禁じられている」
「ルールなんて、誰のためにあるの? 彼らは私たちを“ナメクジ”呼ばわりする。知ってる? ある子供が私を見て、叫んだの。“気持ち悪い”って」
明璃の言葉に、怒りと悲しみが入り混じる。
だが、僕は表情を動かさなかった。
「だから、彼らを尊重する必要はないと?」
「そう。食べるか、使うか、支配するか。選ぶのは私たちよ」
僕は立ち上がり、明璃と距離を取った。
「利用しない。彼女は……僕に“優しい”って言ったんだ」
「それがどうしたの?」
「嬉しかった。僕たちは〝本性〟はこの星の誰からも、気色悪がられた。逆に〝擬態〟の姿は誰からも褒められた。でも、1つだけ共通していることがある」
「それは?」
「どちらにも心が通っていない」
明璃は冷ややかに笑った。
「心? 何を言っているの? 家畜と心を通わせて何の意味が?」
「違う。少なくとも彼女だけは――そんなものじゃない。見た目じゃなく、心を見ようとしてくれた。それは――僕にとって、生まれて初めての“愛”に近い感情だった」
明璃は一瞬、驚いたように目を見開いた。
「感情で命を捨てるなんて、滑稽だわ」
「君には、わからないかもしれない。だけど、僕は “彼女を守りたい”って、思ってしまったんだ」
明璃はもう何も言わず、そのまま立ち去った。
足音が遠ざかり、静寂が戻った部屋。
だが僕の胸の中は、かつてないほど騒がしかった。