表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/7

その5 透明なフィルター

 夜。

 部屋の灯りはつけていない。

 地球人が暮らす空間に似せた家具と設備は並んでいるが、実のところ、必要なのは水だけだ。

 リビングの中央、床一面に広げた湿潤マットの上に横たわり、僕は目を閉じた。


 身体が水を吸収し、内側から潤っていく感覚。

 この星の水は、純度も成分も、僕の種族にとっては貴重な“資源”だった。

 それを採取し、母星へ送るのが、僕の任務。


 ――ただの、任務だったはずだった。


 だが、あの女性と出会ってから、僕の心は予定外の感情に乱されていた。


 三上涼子。


 僕は“偽装”のフィルターを通じて、通常は人間が好む姿に見える。

 それは涼子にも機能しているが……彼女は他の人間が普通に見えていない。

そのせいであべこべとなっている。


 彼女には僕だけが「人間」として見えている。


 奇妙だ。だが、それ以上に彼女の存在が私の心を揺らす。

 はじめは、観察対象として興味を持った。

 だが次第に、そのまっすぐな瞳や、臆病でありながらも誰かを信じようとする心に、惹かれていった。


(彼女は、私を“優しい”と言ってくれた)


 それが、どれほど嬉しかったか。

 我々の種族にとって「優しさ」など、論理や効率にそぐわない不要な感情とされている。

 だが、涼子に会うたび、私はその「不要な感情」にすがるようになっていった。


 リビングの湿潤マットの上で目を閉じていたところ、ドアがノックもなく開いた。


 ――彼女だ。南明璃。


 彼女はこのマンションのセキュリティコードを知っている。かつて、同じ任務を共有する者として、しばしば出入りしていた。


「英二。あの子、何?」


 玄関に入ってきた明璃は、躊躇なくハイヒールを脱ぎ捨て、部屋の奥へと進んできた。

 その瞳は氷のように冷たく、口元には微笑みがあるのに、血の通わぬ表情だった。


「三上涼子のことか?」

「そう。“地球人”の女」


 彼女はわざと“地球人”という単語を吐き捨てるように言った。


「観察対象。そう言っていたわよね? あなたは、任務を忘れかけている」

「忘れてはいない」

「でも、その目は嘘をついてる。……あなた、あの子に“感情”を持ってる」


 明璃は、部屋の奥の浄水タンクに歩み寄り、その中で冷却中の水を眺めた。

 その表情はどこか楽しげだった。


「地球人は“水”を持ちすぎている。純水じゃない、血も、汗も、涙も。混じり合った水が体内を流れてる」


 彼女は指先で空をなぞるようにしながら続けた。


「私はそっちのほうが好きよ。冷たくて、ちょっと鉄っぽくて、でも濃い」

「……それは禁じられている」

「ルールなんて、誰のためにあるの? 彼らは私たちを“ナメクジ”呼ばわりする。知ってる? ある子供が私を見て、叫んだの。“気持ち悪い”って」


 明璃の言葉に、怒りと悲しみが入り混じる。

 だが、僕は表情を動かさなかった。


「だから、彼らを尊重する必要はないと?」

「そう。食べるか、使うか、支配するか。選ぶのは私たちよ」


 僕は立ち上がり、明璃と距離を取った。


「利用しない。彼女は……僕に“優しい”って言ったんだ」

「それがどうしたの?」

「嬉しかった。僕たちは〝本性〟はこの星の誰からも、気色悪がられた。逆に〝擬態〟の姿は誰からも褒められた。でも、1つだけ共通していることがある」

「それは?」

「どちらにも心が通っていない」


 明璃は冷ややかに笑った。


「心? 何を言っているの? 家畜と心を通わせて何の意味が?」

「違う。少なくとも彼女だけは――そんなものじゃない。見た目じゃなく、心を見ようとしてくれた。それは――僕にとって、生まれて初めての“愛”に近い感情だった」


 明璃は一瞬、驚いたように目を見開いた。


「感情で命を捨てるなんて、滑稽だわ」

「君には、わからないかもしれない。だけど、僕は “彼女を守りたい”って、思ってしまったんだ」


 明璃はもう何も言わず、そのまま立ち去った。

 足音が遠ざかり、静寂が戻った部屋。

 だが僕の胸の中は、かつてないほど騒がしかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ