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その4 音

 数週間が経つうちに、彼とは自然と連絡を取り合うようになった。

 電話はあまり好きではないようで、もっぱらLINEだった。


 「今日も水、おいしかったよ」

 「今夜は月がきれいですね」

 「お疲れ様、涼子さん。ちゃんと眠れてますか?」


 彼から届く短いメッセージの一つひとつに、私は心を動かされていった。

 特に、名前を呼ばれるたび、なぜか胸がふわりと高鳴った。

 ある晩、私は思い切って英二さんを夕食に誘ってみた。


「よかったら、うちで……ごはん、一緒にどうですか? 何か作ります。得意ってほどじゃないけど、煮物とか、カレーとか……」


 誘った瞬間、彼の表情がほんの一瞬だけ固まった。

 まばたきをしないまま、ほんのわずかに口元を引きつらせたその顔は、今まで見たことがないものだった。


 けれど次の瞬間には、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻っていた。


「ごめんね。誘ってくれてすごく嬉しいんだけど……」


 彼は言い淀んだ。

 言葉を探しているというよりも、「どう嘘をつくか」を迷っているように見えた。


「実は僕、ちょっと……変な食生活してて」


「変な……?」


「うん。ほとんど水分だけで生きてるっていうか……一応、栄養は摂ってるんだけど、家でサプリとか、特殊な流動食みたいなもので済ませてるんだ。体質的に、固形物が合わないんだよね。胃が受けつけないっていうか……」


 その言い訳は、あまりにも不自然だった。

 それで本当に人間が健康に生きていけるのだろうか。

 何より、“ごはんを一緒に食べる”という、ごく普通の人間関係の行為を、彼は明確に拒絶していた。


 私の胸に、ぬるりとした冷たい何かが這い寄ったような感覚が広がった。


「そうなんですね……」


 なんとか笑ってみせたが、手のひらが汗ばんでいるのを感じた。


「でも、本当に誘ってくれて嬉しかったよ」


 彼はそう言って微笑んだ。

 けれどその笑顔は、どこか「人間的な模倣」に見えてしまった。

 まるで表情の作り方を、外から学んでいるような、ぎこちなさがあった。


     *


 その夜、私はひとりでカレーを食べながら、妙な胸騒ぎを抱えていた。

 食卓の向かい側に英二さんが座っていたら、どんな会話をしていただろう。

 そう思うと、切なさと同時に、理由のない不安が膨らんでいった。

 彼はなぜ、そんなに「一緒に食事をする」ことを避けるのか。

 彼の家でどんな“ごはん”を食べているのか、私は知らない。


     *


 英二さんとの関係は、少しずつだが確実に深まっていた。

 直接的な言葉は交わしていないけれど、LINEのやりとり、何気ない会話、ふとした視線――

 そういう小さな積み重ねが、私の中で「恋」に変わり始めていた。

 けれど、どこかでブレーキをかけている自分がいた。


(このまま、好きになって大丈夫なの……?)


『結局、恋愛なんてゲームなんだよ』


 かつて付き合った人が言っていた言葉だ。


『みんな、自分が気持ちいい容姿と言葉が欲しいだけなんだ。お前だって、俺がちょっと口説いてやったらすぐに尻尾を振ってきたじゃないか』


 信じたものが崩れたときの痛みは、いまだに私の中に残っている。

 だから、今も怖いのだ。

 信じること。愛すること。


 ――また、裏切られることが。


 英二さんは、優しい。温かい。誰よりも人間らしい。

 ……だからこそ、確かめたかった。


(もし、また裏の顔があったら。もし、私だけが騙されていたら……)


 私は、彼の家を訪ねてみることにした。


     *


 英二さんは、以前ぽろりと住所を漏らしたことがある。

 近くまで行ってもいいかな、と言った私に、『別にいいよ』と笑っていた。

 それを、彼が本気で許可していたわけじゃないのは分かっていた。


 でも私は、見てしまいたかった。

 この不安を終わらせたかった。


 平日の夕方、彼が公園に現れなかった日。

 私は仕事帰りに、その足で英二さんの住むマンションへ向かった。


 高層マンションの中でも上層階。

 廊下は静まり返っていて、空気がぴたりと止まっていた。

 インターホンを押す勇気はなかった。

 ただ、彼の部屋のドアの前に立ち、耳を澄ませる。


 ……音は、しない。


 不意に、玄関の下の隙間から、なにかが「ぬめっ」と滑るような音がした気がした。

 幻聴かもしれない。

 でも確かに、何かが這ったような、湿った気配がそこにあった。


 私は、そっとドアに手を触れた。開ける気などない。ただ、その存在を確かめたかった。

 ドアの内側から、ぴちゃり――と、水音がした。

 まるで、誰かが風呂場ではなく、部屋のど真ん中で大量の水を撒いているような音だった。


(なに? この音……)


 怖くなって、すぐにその場を離れた。

 足音を忍ばせて、廊下を戻り、エレベーターを待つ間、心臓の鼓動がどくどくと速まっていた。


     *


 私は密かに会いに行ったことを英二さんに伝えると、夜、英二さんからLINEが届いた。

「僕も会いたかったけど、今日は仕事で出張に行っていたんだ。ごめんね」

「また君に会えるのを、いつも楽しみにしてるよ」

 その言葉を読んで、私は胸が締めつけられる思いがした。

 彼の言葉は、嘘には思えない。

 優しくて、あたたかい――でも、私はその裏側を覗いてしまった。


(信じたい……でも……)


 ベッドに横たわっても、あの「ぴちゃり」という水音が、耳の奥で消えない。

 本当に仕事で出張に? じゃあ、あの「ぴちゃり」という水音は?

 確実に誰かが――いや、〝何者か〟がいた。


(私は英二さんを信じていいのだろうか……?)

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