その2 桑本英二
最初は目の錯覚だと思った。
真夏の日差しが肌を焼く、とある休日のこと。
駅近くにあるスーパーで買い物をした帰りの公園。
ベンチに座って、ペットボトルの水を静かに飲んでいたその男は、明らかに『人間の顔』をしていた。
端正な目元。整った鼻筋。落ち着いた大人の雰囲気をまとったその顔は、なぜかはっきりと『普通』に見えた。
あまりに不思議で、私はそのまま立ち尽くしていた。
「……こんにちは」
気がつけば、私は声をかけていた。
驚くことに、彼は少しだけ微笑んで、うなずいた。
「こんにちは」
「暑いですね」
「本当に。でもここ、いい風が吹くんですよ」
声も穏やかで、耳障りがよかった。
私は、まるで正常な世界に戻ったような感覚に包まれていた。
「よく来るんですか?」
「ええ、水を飲みに」
「水……?」
その手元には、ラベルを剥がされた透明なボトル。中身はただの水だった。
「えっと、公園の水を、ですか?」
「はい」
「ペットボトルの水ではなく?」
「知ってます? ここの水、井戸水なんですよ。そのせいか身体に馴染む、というんですか。ミネラルのバランスというか、ちょうどいい雑味というか」
「そういうものですか」
なんて不思議なことを言う人なのだろうか。
私は彼が正常に見えることとは関係なく、少しずつ彼に対して興味が出てきていた。
「コーヒーとか、お茶とか……飲まないんですか?」
私の問いに、彼は少しだけ間を置いて答えた。
「体質なんですよ。水しか、合わないんです」
その瞬間、ぞわりと、首筋を冷たいものが這った気がした。
だが、それ以上に彼の存在が、私の壊れた世界に『人間らしさ』を取り戻してくれるように思えたのだ。
それは執着にも似た感情だったのかもしれない。
「いつも、ここに?」
「はい。私が経営している会社がすぐそこでして」
彼が指を差したのは、駅前の高層タワーだ。
「凄い、お金持ちなんですね」
「いえいえ、会社とは名ばかりで、社員は数人ですから」
「でもあんな場所に」
「見せかけだけですよ。不動産業なんで、まあ、運用している不動産の1つを会社にしているわけでして」
私はそこまで話して、随分ずうずうしいことを聞いていることに気がついた。
「すみません、初対面の人に、いろいろ聞いてしまって」
「いえ、水を飲みに来たら、楽しいお話ができた。なんだか得した気分です」
彼は中年に差し掛かっているだろう。
しかしその笑顔はとても子供っぽく、妙に人懐っこいものだった。
水道の蛇口をひねり、彼は空っぽの500mlペットボトルに水を入れた。
「アイス、溶けてしまいますよ」
彼の忠告で気がついた。
先ほどの寄ったスーパーで、この暑さに対抗すべく、昔から大好きな小豆バーを買っていたのだ。
「僕もここで失礼します。あまり長くサボっていると、社員に怒られるんで」
おそらくは年上で、しかも大人の雰囲気をまとっているというのに、やはり彼の笑顔はとても可愛らしい。
「あの、お名前は」
無意識で、聞いていた。
「桑本英二といいます。失礼ですが、あなたは?」
「三上涼子です。三つの上に、涼しい子供と書いて、涼子です」
「涼しげなお名前で、いいですね」
英二さんは真っ青な空で照り付ける太陽を見上げてつぶやいた。
「またこの公園で会えたら嬉しいですね」
私は何度も頷いた。
だが私には初対面の人に連絡先を聞くということは、ハードルが高かった。
軽く会釈し、英二さんは駅のほうへと歩いていく。
私はアイスが溶けているのも忘れ、呆然と英二さんが見えなくなるまで背中を見送っていた。
――だって、油絵より歪んだ世界の中で、彼だけが『人間』なのだから。