健
パサついたアプリコットのカーリーヘアに、そっと指を通す。白く濁った瞳がわずかに揺れたような気がしたけれど、それだけだった。四肢は投げ出されたまま動かない。声を掛けても、うんともすんとも返ってこない。
彼女と出逢ったのは、ほんの五年前だというのに。
たった五年。あっけない程短い期間。
出逢うまでに、一体どれ程の時間を費やしただろう。不毛な何十年を、飽きる程繰り返してきた。
初めて目にした時、彼女は、街頭の募金活動の場でちょこんと座り込み、こちらを見ていた。
たとえ老いていたとしても、その姿が人間だったら、どれ程良かったか。今となっては、この残酷な運命に強い恨みを抱かずにはいられない。
だけど、当時の俺は、出逢えたことに舞い上がっていた。
「彼女を俺に譲って下さい!」
足元のプードル犬を指差し叫ぶ俺に、人間のオバサンはあからさまにたじろいでいた。周りの人間も、奇異の目で俺を見ていた。
「この子は、うちのセラピードッグでして……」
オバサンは、引き攣った笑顔で応えた。
その時になって初めて俺は、傍らに「セラピードッグ」「募金支援箱」の文字が掲げられていることに気が付いた。
胸の中に、得も言われぬ感情が渦巻く。
ああ、また搾取されているのか。利用されているのか。
何も知らず、俺を懐柔し、俺の施しを受けてしまったかつての彼女の姿が瞼の裏にちらつく。
俺は、もう、間違えない。今度こそ、彼女を、あの地獄から切り離してやる。
「取り乱してしまい、申し訳ありません。昔失踪してしまった、実家の飼い犬にあまりに良く似ていたものですから……」
俺は、好青年の皮を被り、影のある笑顔を浮かべながら頬をぽりぽりと掻いた。
実際、素晴らしい青年として映ったはずだ。誰もが一度は耳にしたことがある有名難関大学の、医学生。将来を約束されていて、いずれ多額の寄付金を納めることになる。そんな、金の卵に見えたことだろう。
実の所、その時点では、学歴しかない貧乏学生に他ならなかったのだが、口八丁手八丁で、最終的に彼女を譲り受けることができた。
「マリー」
彼女が初めて家に来た日、久方ぶりにその名を呼ぶと、マリーは、「わたし、そんな名前だったっけ?」という顔をした。
あのオバサンは、何だっけ、プリンだかプラムだか、そんな名前で呼んでいた。まるで、犬の名だ。マリーは犬だが、犬じゃない。
「マリー、自分の名前忘れてしまったか。俺の名前は? 俺は、ヴィシュタインだ。ヴィーだ」
根気よく話しかけると、マリーは近寄って来て、フンフンと鼻を鳴らした。
俺の手の匂いを嗅ぎ、「本当に、ヴィーなの?」と尋ねる。
「ああ、俺だ、マリー。今は健と呼ばれているけどな」
頭を撫でてやると、きょとんとした顔をした。
そういえば、頭を撫でたのは、初めてだったか。
本当は、ずっとこうしたかった。頭を撫でて、抱きしめて。最初から、望むままに、攫ってしまえばよかったのだ。
――そうしておけば、今、こんなことにはなっていないはずだ。人間のマリーと、気兼ねなく共に過ごす時間を得ていたはずなのに。
都内でペット可のマンションを賃貸することは、容易いことではない。どうにか良い物件を見つけても、経済的な圧迫からは逃れることはできない。
かくいう俺も、日中は学業をこなし、夜に必死に金を稼ぐ日々を過ごした。その時期が終われば、研修医として忙殺され。いずれ、開業医になりさえすれば、と夢を見ているうちに、マリーはすっかり年老いていた。
たった五年。その五年の間、本当に俺は、マリーと共に過ごせたと言えるのだろうか。
マリーの傍にいたくても、叶わない日々。たまに時間が取れて家にいられたとしても、俺が一方的に話すだけ。あのお喋りだったマリーが、ただ静かに相槌を打つだけ。
何が欲しい? 何がしたい? と尋ねても、答えは返ってこない。
お前が人間だったのなら。あるいは、俺が妖精王だったのなら、動物の声も聞けたろうに。
全ての歯車が、おかしいくらいうまくずれてしまっていた。
「なあ、マリー」
俺は、死にゆくマリーに声を掛ける。
「俺もすぐ、追いかけるから。今度こそ、生まれ変わったら共に生きよう。俺は、マリーを探し当てるよ。だからマリー、お前も、俺を探してくれ。自分の名前と、俺の名前を、忘れないでくれ」
マリーは答えない。
なあマリー、今度会った時には、鈴の鳴るような声で「ええ、そうね」と答えてくれ。
(注)前世の記憶故に、セラピードッグに対する偏見めいたものが書かれております。
馬鹿な男の一個人の感情です。何卒ご容赦ください。
(わんこを譲りうけるまでもかなりの紆余曲折があったはずです)