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雨の中

作者: 藤宮 星

 一つの雨粒が窓にノックする。レストランにいる人は気づきもしない。そのうちに、もう一つ、さらにもう一つと雨粒が窓をたたいていくうちにあっという間に外は大雨である。

 

 「えー雨ぇ?」

 「傘持ってきた?」

 「天気予報は晴れだったのになあ」

 

 私は頬杖を突きながら窓の外を眺める。あいつは本当に来るのだろうか?昔からそうだ。約束をよく破っていつも待ちぼうけをさせられた。そうこうと過去を振り返るうちに、お互い歳をとったななどと時の流れを感じた。雨音に耳を貸すと一人の世界に閉じこもってしまう。ワインを口に含み、ゆっくりと奥歯で噛みしめる。カベルネのタンニンが痺れを切らしそうな体に染みわたる。慣れないワインに身震いさせた直後、店のドアのベルが鳴る。外套を羽織り、真っ赤なドレスに身を包んだ女性があたりを見渡し、次第にハッとした、けれど凛とした笑顔でこちらに気付いて向かってくる。そいつは来るやいなや、

 

 「ちょっと。店の前でって話だったじゃない。」


と文句をつけてきたものだから私は

 

 「20分も待たされて外で待つ奴がいるか。」


と返す。もう10年来になる腐れ縁の女、古宮だ。古宮は「もー」などぶつくさいいながら荷物を空いてる席に置く。動くたびに仄かに香るイランイランの匂いが返って私の鼻につく。

 

 「料理は?頼んだ?」

 「前菜からメインまでもう頼んだ。ちゃんとカプレーゼも頼んだぞ。ほら、昔から好きだっただろ。」


 古宮はよくわかってるじゃないと上機嫌でワインを味わう。

 外の雨の様子、仕事の近況、互いの共通の友人の話などに耽っていると料理がテーブルに置かれた。まずは前菜からだ。わー美味しそうね、笑ってよなどといいながら古宮が写真を撮る。私をわざわざ写さなくてもいいのに。写真に満足したのか古宮はナイフとフォークを手に取り前菜を食べる。私も前菜を食べはじめる。古宮の動きはどれも洗練された動きであり、それはもはや一本の糸が時にはしなり、時には張るような繊細さがあった。今度は思い出話をした。あの時に戻ったみたいだ。美酒と美食、美談のような過去の産物を味わい、思わず笑みもこぼれた。

 しかし、次の古宮の一言で夢から現実に戻される。


 「ねえ、前に埋めたあれ、覚えてる?」


 私は思わず食事の手を止め固唾をのむ。


 「忘れたことなど片時も。むしろお前こそ覚えていたんだな。」


 口に潤いがないとわかり、ワインを飲む。苦い。


 「当り前じゃない。私たちにとって忘れられないものでしょう?」


 古宮は、んー美味しいと言いあっという間に前菜を平らげた。私も食べ終わると皿はさげられ、すぐにパスタが出てきた。これまた一際美しく盛られたものであった。しかし、それどころではない。喉が渇き、手に汗がにじむ。私は古宮の顔を一瞥した。古宮は妖艶な笑みを浮かべ、こちらを見つめている。


 「ねえ、だれにもいってないよね?」


 古宮が顔を近づける。視界に映るものすべてが古宮に引き付けられる。背景も、雨音も、料理も店内の音楽も、すべて。イランイランの匂いが深く鼻の奥に突き刺さる。


 「ああ、もちろんだとも。私がいうはずなどないだろう。第一誰にいうというんだい。」

 「ほんとに?」


 さらに古宮が近づく。私は咄嗟に


 「ああ本当さ。」


 と答える。数秒の沈黙、しかし悠久の無音。古宮はそれを終わらすかのように

 

 「そう、ならよかったわ。」


 という。体からどっと緊張が抜ける。腰が抜けたかのような感覚になる。顔が熱い。

 

 「ほら、冷めるわよ。」


 古宮が微笑む。前菜とは打って変わって静かな晩餐が続いた。今度は雨音、他の客の話声、全てが耳に届いた。しかし、それは機械的な刺激の受容であり、どれも有象無象であった。このパスタであってもそうだ。トマトの味など微塵も感じない。口に運び、咀嚼し、飲み込む。無味だ。ああ、あの時もそうだったな。

 二人とも食べ終わり、いよいよメインである。メインは仔羊のソテーだ。私は古宮の様子を伺おうとした。その時、古宮が口を開いた。


 「ねえ、ずっと聞いてみたかったの。あなたにとっての罪の償いって何だと思う?」


 仔羊を口に運びながらもじっとこちらを見つめる。私はまるで溶接されたかのように閉じた口を開いた。


 「罪の償いなんてものはない。償うなんてものは自己満足にすぎない。業を背負う者が自らできることなんてない。罪人はその枷を繋げたまま罪悪感という牢獄と化した人生で生きていくしかないんだ。」


 もはや仔羊など喉を通らない。ワインはもはやそのタンニンは消え、奥に眠る豊潤さが目を覚ます。


 「そう。業を課し、自らに苛まれ生きていくってこと?」

 「ああ、そうだ。」

 「貴方はそうして生きてきたの?」


 時が止まる。自分のなかに仕舞っていたもの、当時鍵をかけていたものがゆっくりと引っ張り出され、開錠されていく。頼む、やめてくれ。


 「いきなり呼び出すなと思ったら。そんな話をしにきたのか?」


 やめてくれ。


 「ねえ、どっちなの?」


 心の中で鍵が開く音がする。答えられなかった。幸せを感じ、生きてきてしまった。自らの業、死体とともに埋めて罪が地面から這い上がってくる。 

 私が呆然としていると古宮が話し始めた。


 「私はね、そんなの嫌だ。自由に生きたいの。だけど、あなたと同じだった。自分の業は避けられない。これが人間なのね、きっと。日々に苛まれ、何度も自分を殺そうと思ったわ。でも、きっとそうじゃない、他の償いの方法があるはずと模索した。そしてこの間閃いた。」


 古宮は完食した皿に五時の方向でナイフとフォークを揃え、口元を拭いた。私は店員に断り、皿を下げてもらった。そして、最後に来たのはデザートだった。古宮は洗練された動きで口にゆっくりとアイスを運ぶ。深紅の唇がアイスの白と対照的で、目が釘付けになる。そして古宮はゆっくりと口を開くとこういった。


 「私の業を代わりにあなたに償ってもらおうって。」


 このテーブルに緊張が走る。あたり一面見渡すとレストランの客がこちらを見ている。


 「お前、私を嵌めたな。」

 「ええ。ごめんね。」


 雨の音は静かになり、アイスはゆっくりとその身を溶かしていた。

 

 

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