前編
赤く燃え盛る街並みを私は食い入るように見つめた。
「マリーティア、もう窓を閉めよう。風が冷えてきたよ」
声をかけてくるのは私の夫にしてメルディアート領主ゲオルク。
艶やかな黒髪と紫の目の綺麗な青年だ。
「もう少し見ていたいの。この町が燃え尽きればようやく私は自由になれるわ」
私が答えるとゲオルクはもう一度私を後ろから抱きしめた。
逞しい彼の体温が背中越しに伝わる。
何も言わなかったが、彼が私を心配しているのが痛いほど伝わる。
燃えゆく街アルギアはメルディアート領の外れに存在する場所で私の故郷だ。
行き倒れた旅人の子供だったらしい私は、ペアルス夫妻に引き取られて育った。素性を知れない私を養子にした彼らを皆はこぞって褒めたたえたが、彼らが私を子供として接することは一度たりともなかった。
「得体のしれないお前はきっと犯罪者の子だよ! お前みたいな子を引き取ってやるんだ。感謝しな!」
ペアルズの奥方はそう言って私に様々な用を言いつけた。朝は水くみから家畜の世話、家の掃除から食事の用意、繕い物から買い物までずっと働いていた。
それだけではなく、何か不満があれば私を呼びつけてムチを振るった。自分の失敗を私に転嫁するのは日常茶飯事だった。
「この子は悪さばかりするので躾をしているんです。それに、得体のしれない子だから何をしてもいいんですわ」
ある日、ペアルズの奥方はご機嫌伺いに来た近所の人にそう言って、私をムチで打ち始めた。
「腹が立つことがあっても、こうすれば気晴らしになるんですよ。おかげで夫婦仲が円満で喧嘩一つありませんわ」
ペアルズの奥方そう自慢すると近所の人はうらやましがり、私を貸してほしいというようになった。ペアルズの奥方は大金を受け取って私を貸し出した。
借りた人……マルティアは私を引っ張って井戸にやってきた。
井戸にはたくさんの人が目を吊り上げて怒っていた。
「この子が井戸に汚水をいれたのよ。ケインじゃないわ」
マルティアはそう言って周りに取り囲まれているケインを助け出した。ケインは泣きながら母に縋った。
「ケインはやってないんだな?」
すごむ男にマルティアは頷いた。
そうすると男たちは私を取り囲んで棒で打ち始めた。痛くて辛くて私はその場にうずくまったが、誰も助けてくれなかった。
ぴくりとも体が動かせなくなった後、うすれゆく意識の中でマルティアの声が聞こえた。
「いいかい。もう二度とバレるんじゃないよ。遊ぶにしてもうまくやらなきゃだめだろう?」
「うん。母さん。迷惑をかけてごめん」
二人の会話から、犯人はケインで私はスケープゴートにされたのだと悟った。
それから、似たような案件が舞い込むようになった。ペアルズ夫妻は私が金になると知り、喜んで差し出した。
外を歩けば石を打ち付けられ、すれ違いざまにこかされることが日常になった。
体が成長し、女性としての身体が出来上がり始めると嫌な視線を浴びせられることが多くなった。ある日、数人がかりで追いかけられた私は決死の覚悟で川に身を投げ込んだ。
無我夢中で泳ぎ切り、私は気付けば隣町に来ていた。
隣町と言っても大河を隔てたこちらは領主が異なり、豊かさも段違いで、道は全て石畳が敷かれ、レンガ造りの大きな建物がずらりと並んでいた。
水に浮かんでいる私を助けてくれたのは水上を警備する憲兵たちで、私の傷をみてひどく心配してくれた。
病院に送られ手当てを受ける私は、そこで気のいい医師と出会った。白髪交じりの優しそうな医師は、私の傷が数年間の虐待の物だと見抜き、私のために泣いてくれた。
傷が癒えた私は医師の養女となり、優しい父母の下で教育を受けられるようになった。私が過去に苦しめられないように王都へと住まいを移し、その後はずっと幸せな毎日が続き、気づけば『社交界の花』という身に過ぎた称号まで貰い、友人たちに囲まれて楽しく過ごした。
年頃になった私の下へいくつもの縁談が舞い込んできた。誰にしようか悩んでいるところに、友人から一人の男性を紹介された。
艶やかな黒髪と紫の目が印象的な、端正な青年だった。
「どうかしら? 彼、とっても素敵でしょう? わたくしの従兄なんだけれど、この前のパーティであなたを見かけて一目ぼれしちゃったんですって」
屈託なく笑ってマドリカは私の方を見る。
「とても素敵な方だと思いますわ。マドリカと血縁と信じられないくらい落ち着いていらっしゃるわね」
茶目っ気たっぷりに言うとマドリカはぷうと頬を膨らませた。
生まれながらのお嬢様の彼女は表情豊かで一緒に居るととても楽しい。彼女が勧めるなら悪い人ではないのだろうと、私は彼に微笑みかけた。
「は、はじめてお目にかかります。ゲオルクと申します。あなたの美しさが寝ても覚めても離れません。どうか、私と結婚してくれませんか」
ゲオルクは白い肌を真っ赤に染めながら、その場で跪くと私に指輪を掲げた。
私は思わず目を丸くした。
マドリカは憤慨してゲオルクを詰った。
「もう! いきなり求婚なんてほんとうに乙女心が分からないんだから! こういうのはちゃんと手順を踏んで仲良くなってから、素敵なデートの最後に渡すものよ!」
怒鳴るマドリカにゲオルクは顔を青くさせた。
「す、すまない! 出直してくる!」
そう言った彼に私は笑顔を向けた。
「気にしてませんわ。それに熱烈なお言葉にわたくしドキドキしましたわ。よろしければお友達になって頂ける?」
彼の純粋さが気に入った私は彼にそう伝えた。
生まれの異常さから、斜に構えて生きている私にとって純粋さは欲しくてたまらない宝物だった。彼と一緒ならば、こんな私も純粋でいられるのではないかと思った。
「本当に良いのですか? レディ・マリーティア」
目を見開く彼に私は笑顔を向けた。マリーティアは新しい父母に付けてもらった大切な名前だ。彼の口から私の名が出た時、とくんと胸が跳ねた。
何かを察したらしいマドリカはにっこりと笑顔を浮かべた。
「ふふっ。わたくしはお邪魔のようね。それじゃあ、あとはよろしくねー!」
彼女はそういって子ウサギが逃げるように部屋から去っていった。
「マ、マドリカ! 二人きりって……そんな……!」
慌てるゲオルクに私は声をかける。
「わたくしと二人きりはお嫌ですか?」
「そ、そんなことはありません。むしろ光栄すぎて……粗相をしないか不安なのです。憧れの女性を前に冷静でいられる自信がありません」
真っ赤な顔で言うゲオルクに私はにこにこと笑みを向ける。
「そんな心配をなさらないで。わたくしだって素敵な殿方と二人きりで緊張していますのよ。不安な者同士、気楽にお話ししましょう」
私が言うとゲオルクはほっとしたように笑みを向けた。
その後は趣味の読書の話や、好きな動物の話など様々な話をした。
何気ない話でも彼といると観劇よりも楽しく、心が弾んだ。
私は彼との結婚を強く望んだ。
「マドリカの従兄弟ということは、ファザレンヌ領の方ですわよね。わたくし、あちらの葡萄酒がとても好きですのよ。職人のこだわりが感じられる一品ですわよね」
私が言うとゲオルクが首を振った。
「いえ、マドリカとは私の母方の従姉妹で、彼女の母と私の母が姉妹なのです。ですからファザレンヌとは縁がないのです。期待させてすみません」
ゲオルクがしゅんと項垂れる。
「あら、全然かまいませんわ。わたくしこと気が急いてしまいましたわ」
私は慌てて失言を詫びた。
「それならよかったです。私の領地はメルディアート領です。辺鄙な田舎でお恥ずかしいです」
彼が何の気なしに言った言葉で私は気を失った。
メルディアートは私にとって忌まわしい記憶でしかなかった。あの街の名を聞けば、背筋が凍り付き、怒りと恐怖で体が引き裂かれそうになるのだ。
私が目が覚めると、自室の天井が見えた。
だが、私は錯乱状態からなかなか正気に戻れなかった。あいつらが憎くて怖くて辛くて、やるせない感情が体中から噴き出していく。
恐怖に駆られて叫び声を上げ、怒りに耐えられずにものを壊した。
私が落ちつくまで一日かかったと後で専属メイドのリアに聞いた。
「ゲオルク様はついさきほどまでお嬢様を待っておいででしたよ。とても心配そうにしてらして、お見舞いにお嬢様のお好きな葡萄酒をお持ちくださいました」
リアが葡萄酒を私に差し出したが、私は手で払ってボトルを壊した。
まるで血のように飛沫をあげて葡萄酒がじゅうたんを染め上げていく。
「あの男の……あの男のせいで私はいまだに呪縛から逃れられないのよ!!」
私は絶叫した。
あの街に幾度か来た役人はペアルズ夫妻に金を積まれ、殴られる私を無視して帰っていく。彼らを放置し、横暴を許したのはゲオルクとその家族だ。
「許さない許さない絶対に許さない!」
私は泣きながら叫んだ。
暴れる私をリアは後ろから抱きしめ、ずっと泣いていた。
「お嬢様。もうやめてください。手も足もケガだらけです。お願いです。これ以上、傷をつけないで下さい」
しゃくりあげるリアの声でようやく私は正気に戻った。
「ごめんなさい。リア。あなたは何も悪くないのに、あたってしまったわ」
私はリアに謝った。
彼女はこんなにも尽くしてくれるのに、私はあいつらのように関係のない彼女に怒りをぶつけてしまったのだ。
「いいえいいいえ。お嬢様は何も悪くありません。さあ、手当てをさせて下さい」
リアは私を別室に連れて行った。部屋の掃除を買って出たが、それは断られてしまった。
それから私は部屋の中でずっと過ごした。
食事の時間やターンダウンをするためにリアが扉を開けた時、外の音がときおり聞こえる。それがゲオルクの声だと認識したとき、私はリアを押しのけて部屋から飛び出していった。
廊下を走り、階段を駆け下りるとゲオルクが父と話しているところだった。
私は階段の途中でゲオルクに怒鳴った。
「今頃来ても遅いのよ! あなたが欲に塗れた役人をのさばらせるから、私は毎日地獄を送ってきたわ。見てよ。この刀傷はあなたの部下に切られたものよ。金がなくなったからと私のせいにして折檻したの。こっちは焼き鏝よ。いまだにくっきりと残っているの!」
私は腕をまくって刀傷と火傷の痕を見せた。
ゲオルクは真っ青になり、言葉をなくした。
勢いづいた私はさらに言葉をつづけた。
「客を取らすために顔だけは無事だけど、傷跡はまだまだたくさんあるわ! そして私は未だに苦しめられているのよ!お願いだから私を解放してよ。もう辛いの生きていたくないの!」
私は絶叫し、その場にうずくまった。
泣きわめく私に父は階段を駆け上がって抱きしめてくれた。
「ゲオルク殿。申し訳ないが、もう来ないでくれたまえ。娘と私たちはようやく安寧を手に入れたんだ。この子が死を望む姿を私はもう二度と見たくはない」
父は皺だらけの手で私の頭を優しく撫でた。
暗闇が怖くて怯える私をこの手がいつも救い出してくれたのだ。
「申し訳ありません。本当に……申し訳ありません」
ゲオルクはずっと謝っていた。
しかし、父はもはや何も言葉を向けなかった。
私は父に支えられながら部屋に戻った。その間もずっとゲオルクの声が続いていた。
その後、私は部屋の中で日がな過ごした。
リアにゲオルクのことを尋ねたが、答えてはくれなかった。
「あの男のことはもうお忘れください。さあ、今日はお嬢様のお好きなじゃがいもたっぷりのシチューですよ」
リアはかいがいしく私の世話を焼いてくれる。
だが、私はどうしてか心が空っぽになったように寂しさが募った。
いつのまにか、頭の中でゲオルクの顔が浮かぶようになった。不思議と過去を思い出さなかった。
ある日、階下で騒がしい音がした。扉を閉めていても聞こえてくる絶叫に私は好奇心から扉を開けて手すり越しに階下の様子を伺った。
「入れて頂きありがとうございます。ベリシャード卿」
ゲオルクが父に頭を下げる。
「本来なら断りたかったが、君の手土産が気になってね。……で、そいつらがメルディアート領を担当していた役人たちか?」
父は低い声で言う。
ゲオルクの後ろには黒い服をまとった男たちが涙を流していた。髪の色は変わっていたが、その顔は私の中で怒りを思い出させた。
「お父様。その男たちよ。お金をもらってペアルズ夫妻の蛮行を見逃していたわ。それどころか、私を嬲って楽しんでいたのよ! 絶対に許さない許さない許せないっ!」
私は踊り間に立つ騎士の像から剣を抜くとそれを手に持ち、階段を駆け下りた。
ひいひいと泣きわめく男どもに向かって私は剣を振り下ろした。刃握ったこともない私の剣はふらついて彼らの服を破くのが精いっぱいだった。
「ひぃ……助けて。助けてくれっ!わ、わしは悪くない。あの夫妻の口車にのせられただけなんだ」
男の一人がすがるような目で私を見つめた。
怒りが火薬のように爆発し、私は剣を棒のように打ち付けた。
「口車に乗せられた? そんな言い訳が通用すると思ったの? 金を使い過ぎたお前は私に盗まれたことにしたわよね! 折檻と称して私を剣で切ったこと忘れたとは言わさないわよ!」
私が言うと男は青ざめ、ぶくぶくと泡を吹いて倒れた。
隣の男は怯えたような目で私を見つめた。
「許してくれ……許してくれ。本当に反省しているから!」
「へえ、じゃあ、あなたは自分が私に何をしたのかきちんと覚えているんでしょうね?」
私が睨むと途端に口ごもった。
「言えないの? それじゃあ、私が代わりに言ってあげる。『人間に焼き鏝をつけてみたい』といって家畜用の焼き鏝を私につけたのよ。ほら、この火傷の痕よ。懐かしいでしょう?」
私が腕をまくって見せつけると彼は頭を床に擦り付けた。
「済まねえすまねえ!!本当に済まねえ。どうかしてたんだ。頼む! 許してくれ!」
体を震わせて怯える男を私は蹴りあげた。変な声を上げて転がる彼を見て私は心が少し晴れるのを感じた。
私は振り向いてゲオルクの顔を見た。
「ねえ、ゲオルク。あなたと結婚したいわ。婚約指輪の代わりにアイギアの街をちょうだい。あそこに私だけの屋敷を立てたいわ」
私がそう言うと彼は悲しそうな目をした。
「……構わないよ。君が望むなら僕はなんだって叶える」
ゲオルクの返答に私は嬉しくなって彼に抱き着いた。菫の花の匂いが心地よく、私は心が躍った。
「マリーティア。お前はそれでいいのかい?」
父のいつになくしわがれた声が耳に響く。
「ええ、お父様。私、彼と結婚したら幸せになれるわ」
私が答えると父はゲオルクと同じく悲しい目をした。
「お前には愛し愛される幸せな結婚生活を送って欲しかったのだが、お前が望むなら仕方がない」
父は俯いた。
その姿に私は心が痛んだが、ゲオルクとの結婚を取りやめようとは思わなかった。
私がせっついて結婚の日取りを決め、私は月が変わらないうちにゲオルクの妻になった。ゲオルクの両親は彼が幼い時に亡くなっており、弁護士が後見人として彼の補佐をしていた。
ゲオルクは私がはじめて怒鳴りつけた日に、弁護士の周辺を調査して彼の裏の顔を突き止めた。贈賄に手をそめ、孤児院から見目良い子供を集めては人身売買組織に売り渡していたのだ。
メルディアート領の財政が赤字だったのも、彼が着服していたせいだった。
「幼いとはいえ、あいつを御せなかったのは領主たる僕の責任だ。本当にごめん」
初めての夜、傷だらけの私を抱きしめながら彼は何度も泣きながら謝った。
ゲオルクは約束通り、私にアイギアの街をくれた。そこに豪華な屋敷を作り、専属の騎士までつけてくれた。
ゲオルクに連れられてアイギスの街に行く馬車の中で私は興奮を抑えきれなかった。私に会ったらペアルズ夫妻はすぐにわかるだろうか?町長はどんな顔をするだろうかと、彼らの反応を想像するだけでたまらなく楽しかった。
馬車が街に到着すると、大きな歓声をもって迎えられた。
ゲオルクにが先におり、私に手を差し出してくれた。その手を取って私も降り立つ。
相変わらず冴えないこの町はいまだに砂利道しかない。レンガ造りの建物は奥にある私の屋敷しかなく、他は全部木でできている。
「ようこそおいでくださいました! 私が町長のヴァルゲでございます。お美しい奥方様の滞在地に選んでいただいて恐悦至極の喜びでございます」
ヴァルゲはにこやかな顔で言う。
「ヴァルゲ。わかっていると思うが妻の言葉は私の言葉だ。絶対に逆らうなと街の者に厳命しておけ」
ゲオルクがいつになく冷たい声で言い放つ。氷のような視線に私は驚いてしまった。目を丸くする私にゲオルクは慌てて私に微笑みかける。
「マリーティア。騎士たちを付けるから、安心して過ごしてくれ。君の願いはなんでも叶えるから」
「嬉しいわ、ゲオルク様。ヴァルゲ町長、これからよろしくね?」
私が言うと町長はペコペコと頭を下げた。
この様子を見ると誰も私と気づいていないようだった。
いつ正体を現そうかと楽しみになってきた。
つまらない歓迎会の後、私はゲオルクと一緒にヴォルゲの案内で街を歩いていた。雑草が生い茂り、蜘蛛が張り、汚らしい街に私は心が躍った。
『私は石畳の街でレンガ造りの家に住んでいたわ。あれからずいぶん経つのにまったく進歩がないのね』
おかしくなって笑いそうになるのを私は必死でこらえ、大人しく歩く。
そうしていると前方に人だかりができていた。
怒号と鈍い音に私は全身が金縛りにあったかのように動けなくなる。
早くなる鼓動、噴き出す汗に一緒についてきてくれたゲオルクが私の肩を掴み、ぐっと抱き寄せてくれた。その温かさでようやく我に返る。
おかげで声が裏返ることもなく、ヴォルゲと話すことができた。
「一体何事ですの?」
「ええその……家畜を逃がしてしまった輩がおりましてね。折檻の最中です」
愛想笑いをするヴォルゲに私はすぐにピンときた。
かつての私と同じく、汚れ役をする人間がいるのだろう。
私はドレスの裾を持ち上げ、人だかり向かって走り出した。
ヴォルゲは必死に私を止めるが、ゲオルクが一喝した。
「妻の要望をすべて叶えろと言っただろう! 命令に背く気か!」
彼の一言でヴォルゲはすっかり大人しくなった。
私は人だかりをかきわけると、中には棒で打ち据えられた二人の人間がいた。
ぼろぼろの衣を着た二人は悲鳴を上げながらもお互いを罵りあっていた。
「俺じゃねえ、こいつがやったんだ!」
「ちがうよ。こいつだよ!」
やせこけて泥だらけだったが、私はすぐに彼らの名前が分かった。
「エリーマ・ペアルズとフシュ・ペアルズ……」
決して忘れないこの二人、私を地獄へ引き込んだ悪魔の名前だ。
私の言葉に二人はぎょろりと目の玉を動かして私を見上げた。
「た、助けてくれ! 私は何もしていないのに酷い目にあっているんだ!」
「そっちは悪党よ!私を助けて!」
私に縋って助けを乞う姿があまりにも滑稽で私は笑い出した。
「ああ、おかしい。この商売を思いついたのはアンタたちでしょ。それを嫌がってたら商売にならないわよ」
腹を抱えて笑い出す私にペアルズ夫妻はもとより、ヴォルゲや街の人々は呆然として見つめた。
何も気づかない彼らに私の口は止まらなかった。
「あんたたちは金で悪事を引き受けてくれるんでしょ。そこのケインがふざけて井戸に汚水をぶちまけたときも、金で罪を被ったモノね。そっちのメイルダが火を消し忘れて家が燃えた時も、マルガーの旦那が奥さんの花瓶を壊した時も、皆引き受けたものねえ?」
私の言葉に皆が唾を飲み込んだ。信じられないというような目で私を見つめる。
「あ、あんた……一体?」
ヴォルゲが言うと私はにこり笑った。
「さあ? 小さい頃の名前は何もないの。養父母にも名前を付けてもらっていなかったからね。こんなとき、名乗る名前があったらすぐわかってくれたでしょうに、悔しいわあ」
私はくすくすと笑いながら皆の顔をぐるりと見渡した。
いぶかしむ顔、不安がる顔、秘密を暴かれて怒った顔……私は長袖をまくって焼き鏝を見せた。
「これならわかるかしら? お役人が処刑のまねごとをしたいからって、広場で私に付けた痕よ。あのときは皆が集まってお祭りみたいだったわよねえ?」
醜いやけどの痕を見せつけられた皆はヒっと悲鳴を上げた。
「お、おまえ……あいつか! あの孤児の……」
ヴォルゲが目がこぼれそうになるほど大きく見開いて私に言った。
「ええそうよ。思い出してくれて嬉しいわ」
私が喜ぶとヴォルゲは忌々しそうに睨んだ。
「お前のせいで街は大変だったんだぞ! お役人は機嫌が悪くなるし、街の人間もギスギスしだして喧嘩が絶えない! 全部お前のせいだ!」
ヴォルゲは私に怒鳴る。
それをきっかけに口々に私に悪態をつき始めた。
「お前がいなくなったから、あたしらがこんな目に合っているんだ!」
「そうだそうだ! お前が身投げなんかしなければ、俺たちが落ちぶれることもなかったんだ!」
ペアルズ夫妻は先ほどまでの仲たがいが嘘のように息がぴったりと合わさって私を詰った。
ちらりと遠くのゲオルクを見ると真っ青な顔で歯を食いしばっている。私がお願いするまで介入しないでという約束を律儀に守ってくれていた。彼の優しさに心が落ち着く。
燃え滾る復讐心を抱えながら、冷静でいられるのは彼のおかげだ。
「へえ、だったらどうするっていうの? 私を縛り付けてつるす? それとも家畜みたいに鞭で叩かれるのかしら? 昔みたいに」
私が挑発するとヴォルゲは真っ赤な顔で怒鳴った。
「ふざけるな! そんなんじゃ生ぬるい! 棒で叩き、鞭で打ち付けた後、街中を引き回してやる! その後は好きなだけ体を弄んでやるわ! 前はガキだったが今は十分相手になりそうだしな!」
ヴォルゲの言葉に町の人は大声を上げた。
それが合図のように私をめがけていくつもの手が伸びる。
指先が触れる寸前、大きな声で言った。
「あら、私が領主の妻であることをお忘れ?」
その言葉に、彼らは凍り付いたように動かなくなった。
「マリーティア! マリーティア!」
代わりに動いたのはゲオルクだった。
人をかき分け、私の下へきたゲオルクはぎゅっと力の限り抱きしめた。
「ああ、マリーティア。マリーティア。よく呼んでくれた。あのままずっと呼ばれないかと気が気でなかったよ」
ゲオルクの腕に力が入る。
体の温かさと心の温かさに私の身体は満たされていく。
「心配をかけてごめんなさい。よく私を信じて待っていてくれたわ。大好きよ、ゲオルク」
私が言うとゲオルクは泣きそうな顔をする。
なぜか、彼は私が愛の言葉を言うと、どこかを痛めたみたいに悲しげな顔をするのだ。私が理由を尋ねても彼は何でもないというばかりで、こんなとき私も悲しくなる。
「ゲオルク。私は大丈夫よ」
安心させるように頬を撫でると、彼は頷いた。
「……そうだね。マリーティア」
ゲオルクは腕を緩めて私を解放した。だが、私の傍からけして離れず、番犬のように立ちふさがっていた。
「りょ、領主さま。その女に騙されてはいけません! その女は犯罪者でございます。街で盗みを働き、放火をし、モノを壊して人を襲いました。そのようなものは奥方に相応しくありません。どうか、離縁して捨て置かれますよう」
ヴォルゲは必死な顔でゲオルクに縋った。
街の人間もヴォルゲにならった。
「私からもお願いでございます! その女は悪魔でございます。その女の言うことは全くのデタラメ! この女のせいで街の者は迷惑をしているのです」
「ご領主さま。どうかご英断を。その女の悪行は数知れません。お疑いなら、領主さまの後見人、ダリドス卿にご確認ください」
その言葉にゲオルクは笑った。
「この街に連絡は来ていないのか? まあ、ダリドス自身も手一杯だから無理もないが、奴は背任罪で逮捕している。人身売買から贈賄でだいぶ儲けていたが、この街も取引先の一つだったのだな」
ゲオルクの言葉にヴォルゲが青くなる。
「そ、そんな……。何かの間違いでは? あの方ほど民を思うお方はおりませんぞ。あの方の損失はご領主さまの損失でございます!」
「残念だが動かぬ証拠が山のようにあってな。賄賂をふんだんに送る者にはさぞかしいい上役だっただろうよ」
ゲオルクが吐き捨てるように言うと、ヴォルゲは塩を浴びたナメクジのようにぶるぶると震え出し、勢いがなくなった。
ヴォルゲの陥落に街の人々はお互いの顔を見合わせたあと、今度は泣き落としを始めた。
ペアルズ夫妻の変わり身の早さはその中でも群を抜いていた。
「ご領主さま、どうかお許しください。すべてはダリオスが原因なのです。彼の口車に乗せられて愚行を犯してしまいました」
「ええそうですとも。私どもはマリーティア様を実の娘のように可愛がりました。お小さくて記憶が混同されているのかもしれませんが、私どもはマリーティア様を虐げたことは一度もございません。マリーティア様を妬んだ者どもが暴行していたのは事実ですが……庇ってやれなかったことを後悔しております」
ペアルズの奥方は涙を流した。
次から次に嘘が出てくる彼女の口に私は逆に感心した。
「すごいわ! よくもまあ、そこまでデタラメを並べることができるわね。さっき、あんたは私のせいでって言っていたわよ。それにいつも庇っているのなら。さっき私が街の皆に悪態をつかれたとき、すぐに庇うはずよねえ?」
私が言うと奥方は目を泳がせた。
「そ、それは棒で打たれて混乱していたからですわ。ええ、そうですとも。一緒に暮らせば私がどんなにあなたを愛していたかわかります。どうか私を屋敷にお連れ下さいませ」
奥方の言葉に私は二の句が継げなかった。
自分を恨んでいる人間を避けず、むしろ進んで向かってくる奥方の姿勢にどう反応していいかわからなかった。
だが、一緒に生活するのも悪くないと私は思った。
「面白そうね。いいわ。一週間一緒に生活をしてみましょうか。リア。彼女たちを屋敷にご案内して。汚れているからお風呂の用意も……あと着替えもさせておいて」
私が言うとリアは驚きつつ、返事をした。
ペアルズ夫妻は暴行の痛みに呻きながらも、これからの明るい生活に胸を躍らせて騎士に支えられながら歩いた。
街の人々は動揺を隠せず、その姿を見送る。
先ほどまで虐げていた人間が、自分たちの上に君臨するのだ。その恐怖は相当なものだろう。
だが、私が味わった恐怖にまだ足りない。