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シリーズ化した短編

隠しごと

「はぁ……」

 薄緑色の便箋を見つめながら、今日だけで何度目かになるため息を吐く。


 大好きなギルバール様が送ってくれた、大好きな色の便箋。それはいつだって私に幸せを運んできてくれるもののはずだった。


 騎士団に所属しており、遠征の多い彼はいつも頻繁にお手紙を送ってきてくれる。今も以前とあまり頻度は変わらないように思う。旅先で見つけた葉っぱだって入れてくれている。


 けれど今は、綴られた文を読めば読むほど不安になってしまう。いつもはもらった葉っぱですぐに栞を作る私だが、今はそんな気分ではない。


 なにせ三ヶ月以上、ギルバール様と一度もお会いしていないのだから。


 元々口数の多い方ではないし、会ったからと言って話すことといえば手紙と同じような内容。会わずとも十分であるといえばそうなのだが、やはり恋する乙女としては直接会いたいものだ。だからはしたないかもしれないと思いつつ、何度と当家の屋敷にお誘いした。けれど、ダメだった。遠征とたまたま重なっている日は仕方ないにしても、それ以外の日も惨敗。避けられているかもしれないと思うには十分なほど。


 八個も年が離れている私はギルバール様から見ればお子様で、今までは無理に構っていてくれただけかもしれない。


 十二歳の誕生日にギルバール様からもらったエメラルドのネックレスを握りしめて涙をこらえる。私の瞳と同じ色の贈り物は愛されている印だって思っていた。

 年は八つも離れているけれど、ギルバール様は私の卒業を楽しみにしてくれているって。


 でも開いた距離はなかなか戻ることはなく、鬱々とした気持ちで読書すらままならなくなった頃。参加したお茶会で嫌なことを耳にしてしまった。


「ねぇ知ってる? リーリア様の噂」

「ついに本命の女性が現れたとか?」


 今日もお茶会の話題はヴェルガー王子の婚約者であるリーリア様について。ネタに切れるといつも彼女の話題になる。私よりも二個年上の彼女が第一王子の婚約者になったのはもう五年も前のこと。


 決まった当時は嫌がらせもあったって話だけれど、全く効かなかったんだそう。

 だから一部の令嬢達に嫌われていたらしいが、今では一周回って『身代わり令嬢』として落ち着いていた。いつからかヴェルガー王子には本命の女性がいると囁かれるようになった。そしてリーリア様はその女性が王子の隣に収まるまでの間の女避け代わりなのだと。


 言っていて悲しくならないか? と思うような噂だが、それはご令嬢達の溜飲を下げる役割を果たしてくれたようだ。今では嫌がらせはなく、一部からは哀れみの視線すら向けられるほど。本人はあまり気にしている様子はないが。


 今ではリーリア様本人の話よりも、その本命の女性が誰なのか詮索する話になることが多い。だから今日もそうだろう。私自身、あまりその手の話題に興味はないが相槌を打つためにとりあえず耳を傾ける。けれど今日の話はいつもと少しだけ様子が違った。


「最近、リーリア様が王族の皆様と仲良くなさっているらしいわ」

「本当にヴェルガー王子とご結婚なさるのかしら? 男爵令嬢なのに?」

「過去に第三王子が平民とご結婚なさったという話は耳にしたことがありますけど……」

「第三王子と第一王子では立場がまるで違うでしょう?」

「ですが王立学園に通う姉達の話によると、最近のヴェルガー王子はリーリア様の側を離れず、ほとんどの時間を寄り添ってお過ごしになるのだとか」

「そんなはずがないわ! きっと何かしらの事情があって本命の女性とはまだしばらく一緒になれないのよ」

「女避けよ」

「そうですわよね!」

「ええ。他の王族の方が仲がいいのもカモフラージュの一環ですわ」


 公爵令嬢として、自分よりも爵位の低い令嬢に王子妃の座を取られたくないのだろう。女避けだ、身代わりだと繰り返す。いつもの私なら適当に相槌を打って終わりなのに、今日は『カモフラージュ』の言葉が妙に胸に刺さった。


 本命がいるのはヴェルガー王子なのか。

 むしろ今までの行動が他の令嬢達の目を欺くための嘘だったのではないか?


 元より私はリーリア様がヴェルガー王子の婚約者になったことに対しての不信感はない。

 彼女がどう思っているかはさておき、お城で見かける王子はいつだってリーリア様を見つめていたから。あんな優しくて、誰かに取られやしないかと不安そうに揺らぐ彼の瞳が偽物だなんて思わなかった。あれは恋する人の目だ。


 身代わりなんて、リーリア様を面白くないと思うご令嬢達の中にしか存在しないのだ。


 でもギルバール様はどうだろう?

 リーリア様と王族の方との距離が縮まってきたのはここ半年でのことらしい。ちょうど私とギルバール様の距離が開いてきた時期と一致する。


 カモフラージュだったのは私の方ではないか?

 モードレーフ王家の方は結婚をしないことも多い。


 実際、第一王子には婚約者がいるが、第二王子にはいない。今代に限ったことではなく、歴代の王子も未婚で生涯を終えるケースも多いのだとか。他の王族も同じ。正確な数字は分からないが、お父様から聞いた話だと半分もいないのだという。


 だからこの婚約は大変名誉なことだと。


 でも今から考えると婚約をする時点で『子を成さない』なんて契約書を交わすのはおかしなことなのではないか?


 本命女性との準備が整うまでに過ちを起こさないためにわざわざ作ったのではないか?


 本命は誰?

 リーリア様だったりして……。

 でもカモフラージュに公爵令嬢ならともかく、第一王子を使う?

 年の近い王子の方が彼女を守れるから?


 嫌な考えは次々と溢れ出し、私の脳内は暗い感情で占拠されていく。


 リーリア様のことは嫌いではないのに……。

 嫌な考えばかりが浮かぶ自分が嫌になってくる。泣きそうになるのを必死で堪えて、お茶会をやり過ごす。そして気づけばお城に馬車を走らせていた。



「来てしまった……」

 四日前に頂いた手紙によると今は遠征中ではないらしいが、それ以外にもギルバール様の予定はたくさんある。だから会えないのだと書かれていた。なのに予定を伺いもせずに突然顔を見せるなんて……。


 子どもっぽいことは自覚している。

 けれどギルバール様とリーリア様のことを考えると胸が苦しくてたまらない。話を聞く前だって大好きな異国物語もろくに楽しめずため息を吐いてはパタンと閉じるだけだったのに、これ以上はもう限界だった。


 客室に通され、ギルバール様を待つ。

 膝の上で重ねた手は小さく震えていた。

 事実を告げられてしまうことが怖くてたまらない。けれど身代わりなら身代わりといって欲しいのだ。


 期間限定と分かっていれば、物語のヒロインが来るまでの代役だと割り切って演じて見せるから。


 これ以上恋に狂った惨めな女にしないで。

 ドアを叩かれる音がして、ギルバール様がやってきてくれたことを知る。質問をする前くらいはちゃんとしなきゃと軽く頬を叩く。すると指先にはいくつもの雫が触れた。


「ジュリア、なぜ泣いているんだ?」


 泣いている。そう気付いた時にはすでにギルバール様は部屋に入ってきていて、取り繕う暇などなかった。私も自分の感情をよく理解できていない。なのに、ボロボロと涙をこぼす私を見てひどく焦っているギルバール様への恋情が涙と一緒に溢れ出す。


「ギルバール様、お慕いしています」

「あ、ああ」

「だから捨てないでください」


 訳も聞かずに縋るなど、女の涙を武器にしているようで気がひける。だが一度溢れた涙はそう簡単には引っ込んでくれないのだ。


「捨てるって何のことだ?」

「本命がいるのでしょう? 私は不要になったから最近お会いしてくれないのでしょう?」

「そんなことはない! 俺はジュリアのことを愛している!」

「なら、なんで会ってくださらないのです」

「それはジュリアが……」

「私が何かお気に障るようなことを言ってしまったのですね……」


 ちゃんと謝るから、だからその機会をください。もう一度あなたと会って話す権利を。両手を組んで、祈るように許しを乞う。するとギルバール様は苦しそうに顔を歪めた。


「そんなことは! ただ、その……俺はドーベルマンにはなれないから」

「ドーベルマン?」

「以前城に来た時に、ドーベルマンみたいな大きくて頼りがいのある犬が好きだと言っていただろう?」


 確かに言った。

 あれは四ヶ月ほど前のこと。ギルバール様が会ってくれなくなる少し前のことだったと思う。

 ギルバール様と一緒に場内を散歩をしていた際、芝生エリアでリーリア様がわんちゃん達とボール投げをして遊んでいるところを目撃した。

 その前にも何度か窓から様々な種類の子達と遊んでいるのは目にしていたので、多分犬好きなのだろう。


 王城では大量の犬を飼っているようで、放し飼いにされている彼らとは昔から廊下ですれ違うことも多い。リーリア様が犬達と戯れる姿を思わずじいっと眺めていれば、とあるわんちゃんが空中でボールをキャッチした。それがドーベルマンだった。他の色の侵略をまるで許さない漆黒の毛は非常に艶々としており、シュッとした顔立ちも非常に格好良かった。

 元より小型犬より大型犬派だった私はすっかりと心を囚われた。そしてギルバール様に犬が好きかと問われた際には頼りがいのある大型犬が好きだと答えた、と。


 今考えても特に変なことを口走った覚えはない。


「それと何の関係が?」

 犬の好みと会えないこと、どこがリンクしているのだろう?

 分からずに首をひねれば、ギルバール様は苦しそうに胸を押さえた。


「俺は、ドーベルマンにはなれない」

 呻くようにそう口にする。

 苦しげに顔を歪める彼には悪いが、意味がわからない。ギルバール様はこんな変なことをおっしゃる方ではなかったはずだ。


 頭でも打ったのだろうか?


「それはまぁ、人は犬にはなれませんよね」

「それに俺は背が高くはない」

「十分大柄だと思いますが……」

「ドーベルマンの奴はもっとデカイ!」

「犬ですよね!?」

「犬だが……」


 なぜ犬と比較するの!?

 170センチ後半はあるギルバール様と、大型犬とはいえ犬のドーベルマンだったらギルバール様の方が大きいと思うけど。


 私が知らないだけで180越えのドーベルマンがいるのかな?


 そこまでいくと頼り甲斐があるというよりも怖いような……。肩を落とすギルバール様にせめて比較対象を人間に絞ってくださいと言い出すことは出来ない。けれど他の女性に想いを寄せているわけではないと分かって良かった。


 理由は少し? いや、だいぶ変わっているけれど、それでも婚約を解消されるよりずっとマシだ。


 一安心した私はようやく用意された紅茶に口をつける。長い時間放置したせいで少し冷めてしまっているが、飲みやすい温度で、乾いた喉を潤してくれる。


「でも、リーリア様が好きとかではなくて良かったです」

 ホッと息を吐きながら、呟けばギルバール様は不思議そうに首を傾げた。


「なぜリーリア嬢が出てくるんだ?」

「最近王族の方と仲がいいとお聞きしたもので」

「そこから恋情に引っ張るのは飛躍しすぎではないか?」

「そうですが……」


 言われてみればそうだけど、恋する乙女は怖がりなのだ。不安になる要素があればあるほど、もしかしてと不確定要素に震えてしまう。

 でも元はと言えばドーベルマンになれないと想像の斜め上をいく理由で会ってくれなくなったギルバール様が悪いのだ。


 お菓子にも手を伸ばしながら、今度同じようなことがあったら遠慮しないでズカズカと踏み込もうと心に決める。


 するとコンコンコンとドアが叩かれた。そしてドアの隙間からひょっこりと見覚えのあるこげ茶色の頭がのぞく。


「フレンチブルドッグちゃんいますか〜」

「リーリア、様」


 なぜ彼女がここに?

 第一王子の婚約者である彼女が城にいること自体に疑問はない。だが彼女が続けた言葉には疑問を抱かざるをえなかった。


「あ、お話中でしたか。すみません。また出直します」

 そう告げてすぐに去っていったリーリア様だったが、反応から察するに彼女が尋ねてきたのはギルバール様である。

 今しがたギルバール様は私の話は飛躍しすぎだと言ったばかり。おそらく彼は、リーリア様との仲を勘ぐられるような要因があるとは思っていないのだろう。


 でも私からしてみれば、距離を置かれている間に他の女の子と仲良くなっていたら面白くはないのだ。私の知らない情報を共有しているとなればなおのこと。


「フレンチブルドッグちゃんとは? お城にフレンチブルドッグなんていましたっけ?」

「あ、ああ。その、最近やってきた犬でな」


 あからさまなほどに視線を逸らされる。ギルバール様は感情を露わになさる方ではない。なのにこの反応……怪しい。先ほどのドーベルマンといい、今回のフレンチブルドッグといい、犬関係の隠し事があるに違いない。そう睨んだ私は探りを入れることにした。


「王家の方は本当にわんちゃんがお好きですよね。ギルバール様はどの子がお好きなんですか?」

「……フレンチブルドッグ」

「え、リーリア様と同じ?」

「いや、リーリア嬢が一番好きなのはラブラドールレトリーバーだと思うぞ?」

「ならなぜフレンチブルドッグを探しにやってきたのでしょう?」

「それはその……彼女は城中の犬と仲がいいから」

「そういえば以前、ドーベルマンとボールで遊んでましたものね」

「……ああ、そうだな」


 なんで声が低くなるの!?

 フレンチブルドッグは大丈夫で、ドーベルマンがアウトな理由がわからない。


 ドーベルマンに嫌な思い出でもあるのだろうか?


 けれど過去の記憶を漁ってみても、彼がドーベルマンを嫌っている様子はなかった。それどころか犬全般を好いているように見えたんだけど……。とりあえず今後ドーベルマンの話題は避けよう。必死で頭を働かせ、彼の好きなフレンチブルドッグに関する情報を集める。


「確かフレンチブルドッグって寒がりなんですよね。冬場はお洋服を着せなきゃいけないとか」

「毛が短いからな。さっき、リーリア嬢は犬用の服を手に持っていたから服を繕っていたとかじゃないか?」

「私だって繕うくらいだったら出来ます。だから今度そのフレンチブルドッグちゃんに会わせてください」

「それは……難しい」

「そう、ですか」


 踏み込み過ぎたかな。

 リーリア様が許された場所に私はまだ至っていないということだろう。もう9年間もギルバール様の婚約者をしているのに、まだまだだったみたい。二人の間に恋情はなくとも、隠し事はあるのだろう。


 相手がリーリア様じゃないだけで、やっぱりほかに相手がいるのかも。愛していると言ってくださっているけれど、それでも私達の間には子を成さないという契約が存在する。


 捨てられはしないかもしれない。

 けれど女として欲されることもないのだろう。


「私、そろそろ帰りますね」

「送ろう」

「いえ、大丈夫です。いきなりお邪魔してしまってすみませんでした」


 ペコリと頭を下げて部屋を後にする。

 結局、距離を縮めるどころか埋まることのない溝を発見してしまっただけな気がする。大きなため息を吐きたい気持ちを抑え、芝生エリアの横を通りがかった。今日はリーリア様が不在だが、いろんなわんちゃん達が元気に走り回っている。そこにはあの日、ボールを見事キャッチしたドーベルマンもいた。改めて見ても綺麗な毛並みだ。

 フレンチブルドッグちゃんも彼のように艶々とした毛並みなのだろうか?


 会わせてもらえない私には想像することしか出来ないけれど。所詮、婚約者だしね……。悲しい気分から目を逸らそうした時だった。


「あ、タオルは部屋か……」

「え?」


 ドーベルマンが人に変わった。

 ほんの一瞬の出来事で、まるで私の目がおかしくなったのではないかと疑ってしまう。けれど目をこすってもその場にいるのは確かに犬ではなく人であった。そもそもどんなにショックを受けていようとも、人と犬を見間違えるはずがない。


 もしかして、あのドーベルマンは悪い魔法使いに魔法でもかけられているの?


 以前読んだ異国物語には動物に姿を変えられてしまう王子様の話があった。視線の先の彼は王子様ではないが王族の方だ。


 確かギルバール様の従兄弟のガルド様だったような?


 魔法ってこの世界にもあったんだな〜と現実逃避をしていると、目を丸く見開いた彼が大股でこちらへと歩いてくる。


「ああその……なんか見たか?」

「誰にもいいませんので!」

「ああ、やっぱり見たか……。ギルバールになんて言おう」

「大丈夫です! ギルバール様は私のことに関心ないので!」

「そんなことはないと思うが」

「私、口は堅い方ですので、ギルバール様にも今見たことは言いません!」


 グッと拳を固めて、安心してほしいと真っ直ぐに彼の瞳を見つめる。するとドーベルマンの彼は困ったように眉を下げた。


「なら、悪いがそうしてもらえるか?」

「はい!」


 こうして私は初めてギルバール様に隠し事をした。




 それから私達の距離はますます開きだした。

 好きという気持ちが消えたわけではない。むしろ以前よりも強くなってくる自分に嫌気がさすほど。だがそんな気持ちを育てた所でまた無様に捨てないでくれと縋ってギルバール様を困らせてしまうだけなのだ。


 手紙を返信してしまうと昂ぶった気持ちをぶつけてしまいそうで、レターボックスに溜まっていく出せない手紙の数々。ため息を吐いた数だけ募っていき、次第にギルバール様から送られてくる手紙の数も減ってきた。


「婚約解消したいって言ったらお父様は怒るわよね……」

 名誉なことだと喜んでいた父に、身代わりの婚約者など嫌だと我儘を吐いたところで聞き入れられるはずがない。子を成す義務がないどころか成さないという誓約書まであるくらいだ。好きな男がいるなら適当に遊べばいいと言うかもしれない。貴族の娘なら愛を求める方がどうかしている。


 はぁ……とため息を吐いて、薄緑色の便せんをレターボックスにしまい込んだ。



「それで、なんでジュリア嬢はここにいるんだ? ギルバールは今、遠征中だが」

「それは知っております。今日はガルド様に用事があって来たので」

「俺に?」

「お散歩に行きませんか? 少し離れた場所にちょうどいい草原があるんです」

「それは、さすがにギルバールが許さないだろう」

「人型ならギルバール様も気にされるでしょうけど、あなたなら大丈夫ですよ」


 今日のために用意した大型犬用の首輪とリードを掲げれば、ガルド様は驚いたように目を見開いた。


「ジュリア嬢は犬嫌いとまではいかずとも積極的に距離を詰めてくることはないと思っていたが」

「なぜですか?」

「覚えていないならいい。それで、犬になればいいのか?」

「ガルド様さえよければ、ですけど」

「そんな顔するな」


 ガルド様は困ったように眉を下げ、私の髪をぐしゃぐしゃにしながら撫でてくれた。そしてすぐに犬に姿を変え、ほら付けろと言わんばかりに首を差し出してくれる。


「それでは失礼します」

 黒毛の首元に真っ赤な首輪を装着させてもらい、形ばかりのリードを掴む。するとガルド様は私を誘導するように歩き始めた。城内でも犬になれることを隠しているのか、キョロキョロと辺りを警戒されている様子もあったが、無事に馬車まで到着する。事前に御者にはお城のわんちゃんと一緒に遊びに行くと告げてある。ギルバール様に許可を得ていると嘘をついたので、後で確認されると厄介なことになりそうだ。


 よりによってガルド様が変化されるのは犬は犬でもドーベルマンなのだ。フレンチブルドッグなら良かったのにと思わなくもないが、人の犬種にとやかく言える立場にない。


 犬になってから一言も発さないガルド様だったが、その足で草原を踏みつけて数歩歩くとみるみる目が輝き始める。


 犬の時って犬に近い思考になるのかしら?


「あまり遠く離れないでくださいね」

 わざわざ言うまでもないとは思うが、一応形だけ注意して欲しいと告げてからリードを取り外す。すると小さく頭を下げてから、勢いよく走りだした。


「あ!」

「大丈夫よ。あの子は賢いから」


 御者は慌てた様子で追いかけようとしたが、軽く制止をする。そして御者には馬車で待機するように告げる。ですが……と心配そうに言葉を続けた御者だったが、彼の視界から消えないことと声の届く範囲で遊ぶと約束すれば渋々頷いてくれた。


 本当は軽く走ってもらった後で御者に聞こえない場所まで移動してからギルバール様とのことを相談したかったんだけど……これでは無理そうだ。

 私は馬車に乗せたフリスビーを取り出し、ガルド様を追いかける。


「フリスビーしましょう!」

 こんなに大きな声を出したのは久しぶりだ。

 けれど一瞬にして、胸にかかっていたモヤがスッキリとした。屋敷に帰ればきっとまたモヤモヤと考え込んでしまうのだろう。

 視線を下ろせば、私の正面でおすわりするガルド様と目があった。キリッとしたお顔はそのままに、尻尾はパタパタと左右に揺れている。可愛い。もう完全にわんちゃんそのものだ。


 この場所にいる時くらいは、私もわんちゃんと遊びに来たただのご令嬢でいっか!


 ギルバール様の思惑とかは全て頭から取り払って「いきますよ〜」とフリスビーを遠くへと飛ばした。




「リーリア様って凄いですよね。ボールとフリスビーではまた投げ方が違うかもしれませんけど、私じゃ全然遠くまで飛ばなくて……コツでもあるんでしょうか?」


 日が暮れるまで遊び、城に戻るとガルド様がお茶へと誘ってくれた。客間で冷たい紅茶を出してもらい、興奮気味に先ほどの話をする。


「結局遊んだだけだったが、良かったのか?」

「え?」

「何か話したいことがあったんだろう?」


 ガルド様は私が何か相談しようとしていたことに気づいていたようだ。目を細め、今からでもいいと目で訴えてくれる。


「それは、まぁ……。でもいいんです。久しぶりに楽しかったので」


 ただ犬から変化するところを見てしまっただけの私をここまで気遣ってくれるなんて……。

 フリスビーを楽しんでいるように見えたのも演技だったりするのかな? どちらにせよ、私の悩みは解決はせずとも少しだけ心が軽くなった。


「ガルド様さえよければまた一緒に遊んでください」

 優しい人だ。だからこそまた甘えてしまいそうになる。にこりと笑って、告げた時だった。


「誰と誰が遊ぶって?」

「え?」


 馴染みの深い声にまさかと振り向けば、今日この場にいるはずのないギルバール様が立っていた。額にはびっしりと汗が溜まっており、肩も小さく上下している。今しがた帰ってきたといった様子だ。


 なぜ彼がここに……遠征中じゃなかったのか?

 目を丸くしてギルバール様の顔を凝視すれば、みるみるその顔は歪んでいく。


「ジュリア。今日は俺、遠征に行くって言ってあったよな。なぜ君が城にいるんだ?」

「それは……」

「やっぱりドーベルマンがいいのか……フレンチブルドッグじゃ守れないから」


 怒りと悲しみが混ざった涙は今にも大きく見開かれた彼の瞳からこぼれ落ちそうで、その原因を作ってしまったことに胸が痛んだ。


 けれどやはり私には分からないのだ。

 ドーベルマンはガルド様のことだとしても、なぜフレンチブルドッグの名前があがるのか。私には会わせてもらえないその子が一体何の関わりがあるというのか。


 ここで内緒でガルド様と会っていたことを謝ってしまうことは容易い。


 けれどこれからもこんな関係を続けていかなければならないのかと思うと、喉元で謝罪の言葉が詰まってしまう。


 冷静だったはずのギルバール様がこんなにも感情を露わにさせる原因を作ってしまったのが私だとすれば、さっさとこんな婚約は解消してしまった方がいいのではないか。


 お父様には申し訳ないけれど、でもそれがギルバール様のためになるのなら私は……。胸元をギュッと押さえ、口を開いた時だった。


「何も知らないジュリア嬢に当たるな!」

「……っ」

 傍観を貫いていたガルド様が吠えた。

 一喝というよりも、犬の威嚇に近い。眉間に皺を寄せ、従兄弟であるギルバール様を睨みつける。それにはギルバール様も驚いたようで、肩をピクリと揺らしてからしょぼんと肩を落とした。ガルド様は立ち上がり、ギルバール様の元へと歩み寄る。


「隠すのはやめにしないか? ジュリア嬢は俺がドーベルマンになれると知っても怖がらなかった」

「それはお前がドーベルマンだからだ!」

「犬種は関係ない。彼女が大切なら、もっとよく見ろ。この子はそんなもので判断するような子じゃない」


 ギルバール様の両肩に手を乗せて揺さぶるガルド様の姿に、私の脳裏にとある可能性が浮かんだ。


 まさかと一度自分で否定してしまうほど突飛な考えで、けれど目の前に実例が存在する以上はあり得ないと一蹴することは出来ない可能性。


「ギルバール様も犬になるんですか?」

「それは……」


 言い淀むギルバール様が、ますます可能性を引き上げていく。おそらく犬種はドーベルマンのような大型犬ではない。


 中型犬か小型犬かな?

 彼の顔をじいっと見つめて、何犬だろうか? と予測を立てていると、すぐ近くでふふっと小さく笑う声がした。


「フレンチブルドッグだ」

「ガルド!」

「フレンチ、ブルドッグ?」


 もしかしてフレンチブルドッグに会わせてくれなかったのって、ギルバール様がフレンチブルドッグ本人だから?


 会わせないんじゃなくて、会わせられなかったの?


 瞬きをしながら何度も彼の姿を確認するが、フレンチブルドッグになるようには見えない。


 ガルド様と並べば多少背は低く見えるけれど、それでも成人男性としては高い方だ。それに体つきもガッチリとしており、とてもじゃないが小型犬に変わるなんて思えない。


 けれどこのタイミングで嘘を吐くようには見えないし……。


 変化する犬種って何基準なんだろう?

 うーんと考え込めば、ギルバール様は私がフレンチブルドッグを気に入らないと勘違いしたらしい。俯きながら、苦しげに声を絞り出す。


「……俺はドーベルマンのように頼り甲斐のある犬ではない。人型の時だって、仔犬達に噛まれたジュリアを助けることすら出来なかった」

「犬に、噛まれた?」

「ジュリア嬢がまだ幼い頃に、な。その責任を取るという名目でギルバールと君は婚約した」


 確かに沢山のわんちゃん達に囲まれた記憶はあるけれど、噛まれたことは全く覚えていない。それよりも数日後にお父様が婚約が決まったと大喜びしていたことの方が印象に残っている。そして、ギルバール様と会った日のことも。


 漆黒の瞳に吸い込まれるように、私は恋に落ちた。初めて誰かを好きになったのだ。そして彼が私と婚約を結んでくれたことに感謝をした。


「そんなことで」

 王族の方達の歴代婚約者達からして政略結婚ではないと思っていたけれど、まさか犬に噛まれた責任を取るためなんて……。


「そんなことじゃないだろう! ジュリアは気絶して一刻も目を覚まさなかった……」

「はぁ……」


 真面目に心配してくれているギルバール様だが、私にとってはやはり『そんなこと』でしかない。気絶したって言っても多分、驚いたとかその程度なのだろう。どこかに傷があった記憶もないし、何よりお父様ですら理由はよく分かっていない様子だった。なんというか、気にしすぎだ。


 仔犬ちゃんありがとう! と喜んでいいのか、長年ギルバール様を縛ってしまったことに申し訳なさを感じるべきなのか。


 やっぱり今からでも婚約を解消した方がギルバール様のためなんじゃ……。さすがに後遺症も何もないのに、犬に噛まれた程度で王族の方を縛り付けておくつもりはない。帰ったらお父様に相談してみようかしら。


「とはいえ、あの一件のおかげでギルバールは無事ジュリア嬢を婚約者に迎えられることとなったと言っても過言ではない。話をつけるのには難航してたからな」

「難航してた? でもお父様は名誉なことだと」

「いや、揉めてたのは王家側だ。過去に君の家と縁を結んだことはなかったし、どこから犬になれるという情報がバレるかはわからない」

「それじゃあまるで以前から私のことを知っていたみたいじゃないですか」

「知ってた、俺もギルバールも。ギルバールは馬車から見た君に一目惚れをした。ずっと結婚したくて国王陛下を説得していたんだ。それでやっと傷物にしてしまった事実と、子を成さないと誓うことでお許しが出たんだ」


 一目、惚れ?

 え、婚約前からというと私はかなり幼かったような??

 そんな前から思ってくださっていたなんて、顔から火が出そうなほどに赤くなる。今すぐに顔を隠してしまいたいけれどそうもいかない。せっかくずっと気になっていたことを知るチャンスなのだ。頬を両手で押さえつつも、疑問を投げかける。


「なぜ子を成さないと?」

「俺達の子どもはほぼ確実に犬になれるからだ。産まれた子供が犬になるなんて、普通の人間が受け入れられるはずがないだろう……」


 ガルド様に問いかけたつもりが、答えてくれたのはギルバール様だった。答えてくれた、というよりも投げやりに事実を伝えてくれたというべきか。吐き捨てるように、俺達は普通じゃないからな……とこぼした。


「ジュリア嬢がギルバールとの婚約解消を望むというのなら、記憶を消させてもらう代わりに王家の人間として次の婚約まで世話させてもらうが」

「記憶を消す?」

「さすがにそのまま黙っていてくれと約束するだけって訳には行かないからな。それに、消すと言っても俺とギルバール、王家に関する一部の記憶だけだ。すぐ終わる」

「嫌です! 忘れたくない!」


 私からギルバール様への恋心を失くしてしまったら、私は私ではなくなる。幼い頃からずっと育て続けていた彼への想いをなかったことになって出来るはずもなかった。


「なら婚約続行ということで……良かったな、ギルバール」

「何がいいものか。生涯隠し通すつもりだったのに」


 ニコニコと笑うガルド様と、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるギルバール様。


「ところで、リーリア様はお二人が犬になれることをご存知なんですか?」

「ああ、知ってる。と言っても知ったのもここ最近のことだけどな〜」

「そうなんですね。ヴェルガー王子の婚約者であるリーリア様の方が私よりも早くギルバール様の秘密を……」

「ギルバールのというよりも王家の秘密だけどな」

「え?」

「王族のほぼ全員が犬だ。廊下とかで会っただろう? あの子達俺らの親戚だから」



 ガルド様の言葉に、私の頭はキャパシティオーバーを迎えた。ひゅうううううっと魂が抜けていき、そのままパタリと倒れ込んだ。それから目を覚ますとギルバール様は私の顔を心配そうに覗き込んで「大丈夫か? どこか辛いところはないか?」としきりに心配してくれた。この人が犬になろうが私には彼を手放すことなんて出来るはずもない。「大丈夫ですよ」と手を重ねながら、確かにそこにある少し高めの体温に頬を緩めた。


 それからしばらくしてリーリア様と話す機会を作ってもらったのだがーー彼女は私の想像を軽く超えるほどの犬好きだった。


「平日はみんなと遊んで、週末はみんなをお風呂に入れて。時間が空いた時はお妃様とロープ編みをしたり、この前は仔犬ちゃん達のぬいぐるみを作りまして!!」


 とにかく会話の内容の9割が犬。

 けれどときおり隣に座るヴェルガー王子が不機嫌になると「一番は王子ですからね」と幸せそうに頭を撫でた。


 変な勘ぐりをしていた私が馬鹿みたいに思えるほどのイチャつきっぷりだ。リーリア様との仲を疑われても不思議そうに首を傾げていたギルバール様の気持ちがよくわかる。


「あ、そうだ。よかったら今度ジュリア様も一緒にお風呂を」

「それは遠慮しておきますわ。私は犬好きというわけではございませんので」

「ふふっ、そうでしたわね」


 リーリア様と犬トークで話を弾ませる私だが、決して犬好きという訳ではない。


「私が好きなのはギルバール様ですから! 今はフレンチブルドッグ一筋です!」


 ギルバール様が犬の姿を披露してくれたあの日から、私の心はすっかりとフレンチブルドッグに奪われてしまった。小さいのにガッチリと筋肉のついたボディも好きだが、何よりもいつも冷静なギルバール様が犬の姿になるとずっとニコニコしているのだ!


 可愛くないはずがない!


「ジュリア、来てたのか」

「ギルバール様!」


 ガルド様との鍛錬が終わったばかりなのか、薄緑色の首輪がはめられた首元には薄っすらと汗が滲んでいる。


 実は少し前、犬の姿の時に付けてもらえればと思って首輪をプレゼントしたのだがギルバール様は人と犬どちらの姿でも犬用の首輪を装着したままだったのだ。


 王族関連の方々は似合う似合うと褒めてくれたのだが、事情を知らぬ者からすれば変質的な愛を彷彿とさせる何かがある。私は急いで装飾職人を呼び寄せて、人用のオシャレ首ベルトを作ってもらったのだ。細くした革で編んだ首輪で少し動きづらいかな? と心配したものの、無用な心配だったらしい。ギルバール様は首輪が二つに増えたと喜んで、犬用・人用と使い分けてくれている。


「あれ? 今日はガルド様とご一緒じゃないんですね?」

「今日はボブ爺の命日だから墓地に行った」

「ボブ爺、さんですか?」

「ボブ爺は元々城に仕えていた庭師で、ガルドが犬として寄り添うことを決めたご主人様……俺も小さい頃世話になった」


 ボブ爺さんの話をするギルバール様の目は柔らかくて、彼との思い出を懐かしそうに遠くを見つめていた。きっとギルバール様にとっても大切な方だったのだろう。


 正直、犬にも人にもなれる王族の方々のことをあまりよくわかっていない。

 生涯、ギルバール様と共に生きたとしても、人間にしかなれない私に彼らの気持ちが理解できるとは限らない。


 けれど彼らを知ろうと、歩み寄ることなら出来る。


「ギルバール様がお世話になった方なら私もご挨拶に伺いたいですわ」


 ギルバール様の手を包み込んで、甘えて見せれば彼は驚いたように瞬きをする。けれどすぐに嬉しそうに頬を緩めた。


「なら今度三人で行こう。そうと決まればボブ爺の好きだったタバコでも買っておかないと……」


 私達の間にはまだまだ隠し事があるかもしれない。けれどこの先何十年も一緒に生きるのだ。隠し事の一つや二つ、どうってことない。見つけた時は二人で話し合って行こうと思う。


「ジュリア、買い出しに付き合ってくれ」

「はい!」


 そう、例えば私がお風呂を借りてる時になくなった靴下の行方とか、ね?

 いつ切り出そうかと考えながら、私は差し出されたギルバール様の手に自らの手を重ねるのだった。

お気付きの方もいるかな?とは思いますが、フレンチブルドックとドーベルマンは割烹のお礼ssで登場した短毛種鍛錬ペアです(*´∇`*)

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