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雨と陽の、華紋師  作者: 長谷川 海月
9/28

第九話 遭遇、そして決意

 「らっしゃい!」

 店の主人が威勢よく出迎える。

 新太(あらた)は隠れるように、店の奥にしつらえられた長いすに腰かけた。新太が店に入るところは見られていなかったようで、しばらくしてだみ声は遠ざかっていった。

 「何にしやしょう?」

 主人がやって来て、新太は自分がいま茶店にいることを思い出した。慌てて、ほうじ茶と団子一皿を注文する。

 ややあって、先にお茶が運ばれて来た。新太は湯飲みを両手で包み、その温かさにほっこりする。一口、飲み、

 「ふぅ――」

 脂ぎった、巨体の中年男から追いかけられるという悪夢から解放されて、やっと一息つけた。いや、それにしても――

 「それにしても、災難で御座いましたね」

 「あ、はい……ほんとに」

 投げかけられた声に、つい相槌を打って――新太は、はっとなった。そして目を見張った。

 新太より奥の席、店の暗がりに紛れるように、痩せた三十前後の男がこちらを見て、ニコニコと笑っていた。上から下までぴっちりとした洋装で、笑っているせいもあるが、その目が線のように細い。そしてなにより、新太の目を張らせたのは、その男の髪が真っ白だったことだ。

 白髪――にしては、男の年齢にそぐわない。それに白といったが、それはどことなく銀に近い印象だった。線のような目、ぴんと通った鼻筋と面長の顔――まるで、キツネのようだと新太は思った。

 「昨今は、骨董の流行と申しまして、(ちまた)にはあのように胡乱な商売人が増えて居ります。扱う商品も眉唾物や下賤な品が多く、いやはや困ったことで御座います」

 男の声は囁くようであるが、不思議なことにしっかりと耳に入ってきた。だが、どこか作り物めいた笑顔と、新太に話しかけているのにまるで独り言のように話す仕草に――新太はぞっと鳥肌が立った。

 キツネ顔の男は上着の内側から紙入れを取り出すと、細長い骨張った指でそこから紙幣を取り出した。それを一枚、席に置いてから、傍らに立てかけてあった杖を手に取った。

 「貴方の御腰(おこし)の品、それは大変良いものです。是非、大切にしてあげて下さいませ」

 「えっ――」

 男はすっと――音を立てずに、店から出て行った。

 腰の品、というのは九狼(くろう)のことだろう。しかし、大切にしてあげて、という言葉が気にかかった。もしかして、あの人は――見えている?

 新太は男が残していった紙幣に目をやった。それが葉っぱに変わるのではないかと、訝しんでいたが、当然そんなことはなく――

 「へい、お待たせ。団子一皿ね」

 とろりとした蜜のかかった団子が運ばれてきて、新太の頭は好奇心から食欲に支配される。

 ぱくり、と頬ばって、新太の顔が蕩ける。疲れている身体に、甘いものが沁みた。

 その匂いが気になったのか、のそりと九狼が霊殻(れいかく)を伸ばす。

 「いや、ひどい目に遭ったなぁ。ったく、あれだから古道具屋の人間ってのは虫が好かん」

 新太は蜜の付いた唇を舐め、例の古道具屋の言葉を思い出していた。

 文政(ぶんせい)の名工の作。刀一振りと、同じくらいの価値。

 ひょっとして、九狼ってすごいやつ? 団子と一緒に、ごくりと息を飲む。

 「お前、まさか俺を売り飛ばそうとか思ってんじゃねーだろうな」

 九狼に、じとっとした目を向けられて、素早く首を振った。

 「思ってない、思ってない。ただ、九狼ってすごいなぁって」

 「ふぅん……」目を細め、「まぁ、いいや」

 そう言って、墨壺(すみつぼ)の中に戻っていこうとする。

 このままだとまた険悪な空気になりそうで、新太は慌てて、

 「そ、そういえばさっきの人が、骨董品がいま流行ってるって。初めて聞いたよ。靱負(ゆきえ)さんは、古いものはどんどん捨てられてるって言ってたけど、逆にそうやって古いものの良さに気付く人もいるってことだよね」

 我ながら、咄嗟に言ったにしては的を射ていると思った。

 古いものの良さ――つまりそれは九狼の良さなんだよ、と言外に込めたつもりだったのだが、

 「そんな単純な話じゃねぇだろ。新しくて、物珍しいものをありがたかる奴がいる一方で、それに飽きた連中が、こぞって昔はよかったなんて懐かしむ。流行りものなんだよ。それが過ぎたら、ぽいと捨てられる。ちょいと前に流行ったウサギと一緒だ。人間の身勝手で、振り回されるだけだっての」

 そう言って、ぷいと顔をそらしてしまう。そのまま、ぽつりと、

 「あの店の棚な……付喪神(つくもがみ)だって居たんだ。しかし、扱いが酷過ぎて、あのままだったらいずれ勿忘神(わすれがみ)になっちまうだろうよ」

 「えっ、そんな……放っておけない。今から、戻って――」

 言って、腰を上げようとする新太に、九狼が噛み付いた。

 「戻ってどうすんだよ。道具は大切にしてください、って言いに行くのか? それとも全部、お前が買いますって言うのかよ。できねーだろ、そんなこと。てめーの刀だって買い戻せないくせに」

 「そ、それは……そうだけど」

 「てめぇの、そういう場当たり的で、押しつけがましい正義感が()ぇっ嫌れぇなんだよ。虫唾が走らぁ」

 新太がぐっと唇を噛んだ。さすがに言い過ぎたと思ったのか、九狼も押し黙る。

 息苦しい沈黙が流れた。ややあって、九狼が、

 「……ひとまず、ああいう店があったってことは、七曜(しちよう)に報告しとく」

 「……うん」

 頷いて、お茶を飲んだ。もうすっかり、冷めきっていた。

 そのあと、まるで味を感じなくなった団子を食べきり、財布から一銭を出して席に置いた。

 長居は申し訳ないし、そろそろ行こうか。そう思って、重い腰をあげたとき――

 「ええっ、それ向こうの金だろ。弱ったな……」

 店の主人の、頓狂な声が聞こえた。

 その向かいには客と思しき、小柄な男性の姿。こちらに背を向け、なぜか室内なのに編み笠をかぶっていた。いや、その格好も問題で――まるで旅芸人のような、派手な赤い着物を着ている。帯には小さな(のぼり)が刺さっていて、そこに「日本一」とあった。

 主人はその謎の人物と相対して、眉をハの字にしながら頭を掻いている。

 どうやら勘定を巡って問題が起きたらしい。

 「どうしたんですか? よかったら力に――」

 反射的に声をかけて、新太は、またやってしまったと思った。場当たり的な正義感――九狼の言葉が浮かんで足が止まりかけたが、しかし、目の前で困っている人がいるのだ。見過ごせなかった。

 「ああ、兄ちゃん――」店の主人が新太の顔を見て、ほっと安堵の息を漏らす。「英語できんのか。ちょいと()けてくんな」

 英語?

 新太が首を傾げるのと、編み笠の男が振り返るのが同時だった。

 その瞳が引き込まれそうな綺麗な青で、それにまず驚いた。編み笠からはみ出ている巻き毛は、金髪。はっきりとした二重と、白い肌。一瞬、女の子かと思ったが、身体つきは男――新太と大差ない少年で、しかし、その顔つきはあきらかに日本人離れしている。それもそのはず、彼はいわゆる外国人というわけで――

 事態を理解し顔を引きつらせる新太だったが、外国人の少年は、ぺこりと頭を下げてきて、

 「あんじゅー、おたのもーしますぜよ」

 ああ、これが本場の外国語か。なんて言っているのか、さっぱりわからない。

 こうなるなら、少しでも英語を教えてもらうべきだった。後悔、先に立たず。

 「おあしが、ぽんどしかないきに、こまっちゅーよ」

 しかし、なぜだろう――節々に日本語が混じって聞こえる。

 お足が、ポンドしかないから、困っている。そんなふうに聞き取れるのだけど――

 「って、え……もしかして、それ、日本語?」

 「はいな!」少年が嬉しそうに頷いた。「やっと、通じよったぁ。ボクの日本語、よう英語と勘違いされるじゃけぇ、なかなか難義なこってす」

 「はは――」

 少年の愛嬌のある話し方に、思わず笑いが零れた。

 どうやら日本の、古今東西様々な方言が混じっているようだ。その珍妙な日本語と彼の容姿で、聞き手はすっかり英語だと思い込んでしまうらしい。

 タネが分かったら、こちらのもので――少年が店で飲み食いしたものの、お金が外国のそれしかなかったことを知った。主人にお代を聞くと三銭とのことで、それくらいならと新太が財布から出してあげた。

 店から出ると、ぺこぺこと少年は頭を下げてきて、

 「おおきにでやんす!」

 やっぱり変な日本語で礼を言って、新太に外国の紙幣を差し出してきた。

 「いや、いいよ。それたぶん、貰い過ぎだろうし」

 「せやかて、悪ぅござんす。……ああ、せや、でしたら代わりに――」言って、着物の懐から黒い、小銭のようなものを取り出した。

 「ホイットビー・ジェツトのメダイヨンだす。ボクの、……名刺みたいなもんやさかい、もろてんか」

 それを受け取って観察すると、黒い表面に、どんぐりのような形をした枠と、丸い鎖か数珠のような紋様が彫り込まれていた。質感からして木彫りだろうか。名刺代わりと言っていたし、高価な物ではないのかも。そう思って、新太は頷く。

 「ありがとう。大切にするよ」

 「はいな。あ、しまった……名乗りもせんと、不躾(ぶしつけ)でしたね」ニコリと笑って、ごほんと咳払い。赤い着物の襟を正すと、「ええ、知らざぁいってぇ、あ、聞かぁせやしょーおぉ!」

 突然始まった弁天小僧(べんてんこぞう)に、行き交う人が奇異の目を向けてくる。慌てて、新太は少年の腕を引っ張る。

 「あ、あの、……普通でいいから!」

 「え、さいですか。これが日本の正式な挨拶や、聞いちゅうけど」

 誰だ、そんな間違った情報を流したのは。

 「ボクは、ウィリアム・ウェンロック・オヴ・ハザウェイいいよります。未熟者じゃきぃ、よろしゅう」

 少年がぺこりと頭を下げる。それに合わせて背中の幟もぴょこんと揺れた。新太はただ、ぽかんと口をあけて、

 「え、うぃりあ……?」

 今度こそ聞き取れなかった。そんなことに慣れっこなのか、少年は屈託のない笑顔で、

 「ああ、ウィルでええですよ」そう言ってくれた。

 「そっか、ウィル……か」新太は笑う。「俺は、新太。よろしく」

 「アラタ。ええ名前でがんすね」

 「あ、ありがとう。それにしても、ウィルって……なんでそんな話し方なの?」

 先ほどから疑問に思っていたことのひとつだ。その珍妙な格好の謎も突き止めたいが、まずはそれだ――と思う。ウィルは照れたように笑って、

 「ボクの両親、お雇い外国人……って言うんやろか、そこの帝国大学で、先生やっとったんよ。両親はイングランド出身やけど、ボクは日本で生まれて、十歳くらいまで本郷(ほんごう)で育ったんね。トウキョーの大学いいますと、いろんな地方から学生さんが来ますきに、彼らに囲まれて暮らすうち、こんな話し方になったでごわす」

 なるほど、だからいろいろな方言が混じっているのか。それにしても、その顔で「ごわす」はちょっと――新太が肩を震わせていると、ウィルは困ったような顔をしてみせた。

 「なんぞ、変だったでごじゃるか?」

 もう滅茶苦茶だ。吹き出しそうになるのを必死でこらえ、ぷるぷると首を振る。

 ひとつ、大きく深呼吸して――やっと、落ち着いた。

 ウィルはほっと安堵のため息を吐いた。

 「よかこつでした。実はボク、日本へ来るの数年ぶりやきに、ちゃんと通じるか不安やったんよ」

 「数年ぶり?」

 「はいな。十歳のとき、両親と一緒にロンドンへ()ぇりましたです。今回は仕事があって日本に来たんやけど――」そこまで言って、あっ、と声を上げた。「すんまへん、いま何時くらいでしたろう?」

 「えっと……十五時くらい、かな」新太は自分の腹に手を当てて、答える。腹時計だ。けっこう正確なのが自慢だった。

 ウィルはそれを聞いて、顔色を一変させた。

 「あかん。これから約束があったんや。日本でお世話になる人に挨拶に行かんと。アラタはん、今日はぶち、おおきにでやんした!」

 「あ、うん……気を付けて」

 今一度、大きく頭を下げて、ウィルは駆け去っていった。

 なにか、大きな嵐が通り過ぎていったような――そんな風に思って、新太はつい笑っていた。

 ウィルのおかげで少し元気が出て、

 「さてと、……まだ時間あるし、九狼がさっき言ってた、根津(ねづ)のクルワってとこに行ってみようよ」

 抵抗なく、そう声をかけることが出来た。

 「え、……お前、いや、それは」

 一方、九狼の反応はぎこちない。霊殻を遠慮気味に伸ばし、

 「てか、(くるわ)ってどんなとこか知って言ってるのかよ?」

 「知らないけど……でも、九狼の話ぶりからして、楽しそうなとこだよね?」

 ふっ、と九狼が笑った。その霊殻が小刻みに震え出す。

 「まぁ、違いねぇが――」

 「じゃあ、決まり。この道をまっすぐだっけ?」

 言うが早いか、新太は根津を目指して歩き出す。

 このまま――喧嘩したまま、今日が終わるなんて嫌で、なにか九狼と打ち解ける方法はないかと考えての行動だった。

 不忍池(しのばずのいけ)を通り過ぎ、しばらく行くと根津という地名は見つかった。

 しかし、九狼が言っていたクルワなるものは見当たらず、新太は近くを歩いていた学生らしき男性に声をかけて訊いてみた。

 学生は、一瞬、呆れたような、困ったような、そんな複雑な表情をしてみせ、もごもごと、ここにあったクルワはずいぶん前に洲崎(すさき)へ移転したのだ、と教えてくれた。

 そうなのか、と残念そうに言う新太の肩を、その学生はがしっと両手で掴み、

 「君っ、若い身空で、そんなところへ通ってはダメだ。親御さんが悲しむよ。いいね、真っ当に生きなさい!」

 強く、そう言い聞かせて、去っていった。

 その後ろ姿をぽかんと見送って、新太は思う――クルワとは一体どんなところなのだろう、と。謎は深まるばかりだった。

 身を震わせて笑っている九狼に訊いても、

 「ひぃ、笑い死ぬ。勘弁してくれ」と、言うばかり。新太は口を尖らせて、

 「いいや。じゃあ……帰ってから、ヒナギさんにでも訊くから」

 ぶふっ、と九狼が噴き出した。なんかバカにされているようで癪に障るが、こんなに笑う九狼は初めてで、新太の顔も自然とほころんだ。


 根津のクルワは空振りに終わり、結局、新太は東京市の北をぐるりと巡って帰路につくことにした。

 屋敷のある四谷区(よつやく)まで、かなり距離はあるが、初めての風景を見ながら歩くのは、さほど苦にならない。本郷区(ほんごうく)小石川区(こいしかわく)の境まで来ると、辺りはお寺が多く、生け垣や板塀が続く閑静な町筋に変わった。

 近くに家があるのだろうか、お寺脇の空き地で遊んでいた子供たちが、カラスの鳴き声を聞いて一斉に家路につく。遊び道具に使っていた木の棒が、地面に刺さったまま取り残されていた。

 「またねー」と言い合って駆けていく、その後ろ姿を笑顔で見送って、自分も少し急いだほうがいいかな、と新太は歩調を速めた。

 すると、ガッ、ガッと――道に引っかかるような音を立てて、下駄が鳴る。

 「なんだ、この音?」と、笑い地獄から解放されて久しい九狼が怪訝な顔をした。

 新太はよくぞ訊いてくれましたとばかりの笑顔で、

 「実は、下駄の歯がさ、あと一寸なんだよ!」

 声が弾んだ。あれだけあった下駄の歯も、今や残り一寸。短くなりすぎて、下駄の腹が地面に擦れるくらいなのだ。

 明日で十月も終わるから、どうしても少しは残ってしまうが、しかし、先月から考えたらものすごい進歩だ。たかだか千回の腹筋や腕立てなど、甘んじて受けようではないか――

 と。

 熱意と感動を込めたつもりだったが、九狼の反応は「ふうん」とそっけなく、

 「あすこに下駄の歯入れ屋がいるぞ。暇そうにしてっから、新しい歯に替えてもらえよ」

 見れば、下駄を並べた敷布の上に腰を下ろし、道具箱に肩ひじを乗せたねじり鉢巻きの男性が、煙管(きせる)をふかしていた。よく日に焼けた肌と硬くて筋張った手の平は、彼が優秀な職人であることを証明している。

 「なるほど。あの人に預ければ、ものの見事に元通り――って、なんでだよ!」

 まさしく、乗り突っ込み。

 手の甲で九狼の霊殻を叩こうとして、しかし。

 九狼の顔が思いがけず、真剣なのに驚いて手が止まった。

 九狼は辺りをゆっくり眺めまわし、鼻をひくつかせている。ぴりっとした緊張感が空気を満たす。

 「どうしたの、九狼?」

 「しっ――」

 短く制せられ、新太は黙る。冷たい風が、肌を刺していく。

 「勿忘神がいる。この近くだな」言って、九狼の銀の眼が光を帯びた。

 「近く? なら、早く――」

 「待てってーのっ!」

 九狼が吠える。

 「冷静になれよ。第一、お前、闘具(とうぐ)がないだろうが。行ったところでなんにもできん!」

 新太の足がぴたりと止まる。今日は非番で、そのため闘具の木刀は自室に置いてきたのだ。

 それに気付いて、ぐっと拳を握る。

 「――安心しろ。いま、七曜に伝えた。この辺りは東邸(ひがしてい)の管轄だから、直にやってくるだろうよ」

 九狼はそう言うが――東邸の本拠地は上野だったはずだ。そこからここまで、急いだとしてもだいぶかかるのではないのか。その間に、もし人が襲われでもしたら――

 胸がざわつく。空気のせいか、喉が渇く。

 そして。

 か細い――ほんとうに、微かな悲鳴。

 聞こえた。

 新太は顔を上げ、走り出した。

 「お、おいっ――」

 九狼は叫んだが、その本体である墨壺は新太の腰にくくりつけられている。新太に引っ張られるしかなかった。霊殻を必死で新太の顔に寄せ、なにやらわめくが新太の耳には届かない。悲鳴が聞こえた、そのありかを探すのに必死だった。

 板塀を曲がり、狭い路地裏へ入る。

 土蔵造(どぞうづく)りの家が並ぶ一角、その端まで、わき目を振らずに駆けた。

 九狼は最早なにも言わず、そればかりか、勿忘神がいる場所を最初から知っているかのような新太の迷いのない走りに目を見張っていたのだった。

 事実、その家だった。

 戸口に立ち、新太は息を整える。

 板戸に手を伸ばし、一瞬だけためらったあと――勢いよく開け放った。

 室内は薄暗かった。西日はここまで届かず、建具(たてぐ)に濃い影を落とす。

 一歩、中へ。新太の足が、なにか――固いものを蹴った。ちらりと見ると、割れた茶碗だった。そのほかに鉄瓶や行灯(あんどん)五徳(ごとく)などが土間に転がっていた。

 「ううっ――ぐっ」

 うめき声。新太が弾かれたように、そちらを見る。

 壁だ。

 そこに、若い女性が宙に浮いて貼りついていた。いや、壁に押し付けられているのだ。首を、太い腕のようなものに締め付けられている。

 その腕をたどって、新太の視線が動く。そこには、ただ丸い塊があった。そこから、にょきっと腕だけが一本生えている。

 異形の姿は、まさしく勿忘神で――新太は女性に駆け寄ろうとした。

 そのとき、

 「た、……すけ、て」

 苦しそうな息を、絞り出しすかのような声だった。女性は涙で濡れた目を新太に向け、そして、居間の奥の毛布に視線を移した。え、と新太は固まる。そこには――

 新太が事態を飲み込むより早く、その毛布にくるまれていた赤ちゃんが泣き始めた。

 勿忘神が泣き声に反応を示す。

 まずい。

 早く、助けないと――

 「待てっ。お前が行ったら、あいつはあすこで暴れるぞ! 赤子も無事じゃ済まん」

 九狼が叫ぶ。冷たい水をぶっかけられたように、新太の顔から血の気が引く。

 ぎりっと歯を食いしばり。

 目は勿忘神から離さないまま、足元の下駄を脱いだ。片手でひとつずつ、鼻緒(はなお)を掴んで持ち上げる。

 「お前、なにを――」ぎょっとしたような九狼の声。新太は息を大きく吸い込み、

 「勿忘神ぃっ! こっちだっ、こっちに来い!」

 手に持った下駄を滅多矢鱈(めったやたら)に打ち鳴らし、新太は叫んだ。その姿は、遠く異国の伝統文化そのもの――なのだが、当の新太はそんなこと知る由もなく。

 赤ちゃんの声をかき消さんばかりに、騒音を、狂音を立てまくった。

 その騒ぎに、勿忘神がぴくり、と新太の方を向いた。

 「お、いいぞ。反応してる、このまま――んん? なんか、やっこさん……お前じゃなくて、俺を見てないか?」

 その通りだった。

 のそり、と勿忘神の丸い身体が玄関の方に動き、差し込んだ西日に照らされる。茶色の、饅頭(まんじゅう)のようなすべすべしたその身体には、ただ、ぱっくり横に割れた口があるだけだった。乱杭歯(らんぐいば)と、長い舌が覗いている。目や鼻はないのだが、その意識がなんとなく九狼に向けられているのが分かる。

 九狼が、ぞぞっと、霊殻の毛を逆立てた。

 「おい、気味わりぃよ。なんでお前じゃなくて、俺なんだよっ」

 「たぶん、仲間だと思ってるんだ。それか美味しそうなエサと思ってる、とか。よしっ、こっちに来いっ!」新太が下駄を持ったまま、拍手――耳障りな乱打をかまし、「おーい、こっちだ。ほらっ、狼の肉は、美味いぞ!」

 「てめー、あとで覚えてろよ」

 九狼の口角が引きつる。

 勿忘神はいっそうこちらに近づいて、女性を壁に押し付けていた腕を引っ込めた。どさり、と女性が床に落ちる。苦しそうに咳き込んでいるが、大丈夫そうだ。

 しかし、安堵もつかの間。腕を収縮した勿忘神は、縦にゆっくりと回転しはじめた。床板がこすれ、こげ臭い。その回転が見る間に速くなっていき、

 「あれ、これって……なんかまずくない?」新太が半歩、後ずさった。

 「に、逃げろっ!」

 九狼の、上ずった叫びが聞こえて。

 新太は手に持った下駄を放り出し、走っていた。家を飛び出し、元来た道へ。

 後ろで、何かが弾けた――ちらっと振り返ると、板戸が吹き飛んでいた。巨大な岩のように、回転した勿忘神が猛追してくるのが見えて。

 やばいやばいやばい――前に向き直って、必死に駆ける。

 「お、おい、どうすんだこれ⁉」

 「わかんない! どうしよう⁉」

 言ったが、とにかく走るしかない。

 土蔵造りの前を抜け、寺の板塀を曲がり、通りに転がり出た。

 下駄の歯入れ屋の男が、新太を見る。子連れの婦人も怪訝な顔を向ける。通りには――まばらだが、人がいたのだ。

 まずい、と新太がたたらを踏んで立ち止まる。しかし、後ろから迫る気配に、待ったは効かない。

 新太はすっ――と息を吸い込み、

 「逃げてくださぁ――いっ!」

 叫んだ。叫びながら、走った。「道の端に、寄ってくださぁいっ!」

 みながぎょっとした顔で振り向き、さっと――波が引くように道が空く。

 そこを裸足で駆けていく少年と、なぜかその後方――一間ほど、なにもない空間を置いて、もうもうと立つ砂ぼこり。その異様な現象を、人々は言葉を失って見送った。

 しかし、慌ててよけようとしたせいで転ぶ老人もいる、泣き出す子供いる、見えない勿忘神に、身体が触れて倒れ込む人もいる。ところどころ、小さい叫びや呻きが立つ。

 ごめんなさい、と新太は顔を顰めて、言って――しかし、ただ走るしかなかった。

 幸い、勿忘神の狙いは新太と九狼で、周りの人は眼中に入っていないようだった。

 「どうすんだよ。このまま走っても、なんの解決にもなんねーぞ?」

 「……わかってる! さっき、お寺の横に広い空き地があった。そこに誘導する」

 その空き地が見えてきた。

 走ってきた新太が制動をかけ、直角に曲がる。そのまま空き地の真ん中まで、突っ走って。

 くるり、と振り返る。

 目の前に、ほんとうにすぐ目の前に、勿忘神の身体があった。

 「左だっ」九狼の声に従って、左に跳ぶ。すれすれを勿忘神が飛んでいくのがわかった。

 二撃目がくる。すぐに体勢を整えて、身構えたが。

 静かだった。

 見れば、新太から二間ほど距離を置いて、勿忘神が腕を伸ばしていた。それは、さきほど女性の首を絞めていた筋骨隆々とした腕ではなくて――細い、まるで子供のようなあどけない手だった。

 なにかを求めるような。おねだりをするような。

 「……どうしたの?」思わず、新太は声をかけていた。

 しかし、ぶるりとその腕が震えて。

 見る間に、太く、巨大な腕に変貌する。

 ちっ――と舌を打ったのは、九狼か、自分だったのか。

 勿忘神が跳躍して、殴りかかってくる。単純な暴力。殴るという、原始的な攻撃。

 それが新太の腹を――いや、腰を狙ってくる。

 後ろに跳んで、かわす。

 しかし、勿忘神の攻撃は止むことがなかった。続けざまに、巨大な拳が飛んでくる。最初は腰を狙っていたが、次第に新太の足元や、胸などに腕が伸びてくるようになった。

 それが何発も、何十発も。

 歯を食いしばって、身を捻って躱したところで――さすがに息が尽きた。

 体勢を崩しかけ、勿忘神の次なる攻撃が、再度、自分の腰に狙いをつけたのを直感。このままだと、九狼が壊わされる――と。

 背をくの字に曲げ、左腕で自らの腰辺りをかばった。

 びりっと、電流に似たなにかが左腕から背骨を通って全身を貫いた。

 それと同時に身体が吹っ飛ばされていて。

 新太は、二、三間ほど、ごろごろと転がった。受け身はとれなかった。地面が柔らかく、それで助かった。

 左腕が痛む。折れてはいないようだが、力を込めると痺れが走った。

 右手だけでなんとか身を起こす。砂ぼこりに咳き込み、視界の悪さに目を(すが)める。

 そこには、またもや勿忘神が子供のような手を新太に伸ばしていた。

 挑発しているのだろうか。

 そう思って――だが、その細腕の表面に、注意してみないと分からないほどの無数の細かいヒビが入っているのがわかった。痛そうな、ヒビ。そうか、この子は助けを――

 あれ、どうして、この子――なんて思ったのだろう。

 「大丈夫か?」九狼の声に我に返った。

 「あ……うん、なんとか。九狼、あれ見て」

 「……なんだあれ、バカにしてんじゃねぇのか」

 吐き捨てるように言う九狼に、新太は首を振る。

 「違う、と思う。……たぶん、助けて欲しいんだ」

 「はぁ、勿忘神に自我なんてないんだっての。そう教わらなかったのか?」九狼は、ちっと舌打ちをする。「仮にそうだとして、今のお前に、あいつを鎮める方法はない。助けるったって……」

 そうだ、闘具がないのだ。

 闘具がなければ、勿忘神から霊殻を切り取ることも、華紋(かもん)を作ることもできない。

 根本のところで、自分はなにもできない。いつも、そうだ。いつも。

 ギリッと、新太が奥歯を噛み締める。

 「方法は、なくもない」九狼が、ぽつりと言った。「闘具がなくても、できるかもしれない」

 新太は、はっと顔を上げ、

 「教えて」

 「いや、しかし、できるかどうか――」

 新太は何も言わず、九狼を見つめた。視界の隅で、勿忘神がぶるぶると震えている。

 九狼は意を決したように、どこか焼けっぱちになったように、

 「ああ、もうわかったよ。いいか、闘具ってのは疑似的とはいえ付喪神だ。つまり――言いたかないが、付喪神である俺なら、あいつを攻撃できる。あいつの霊殻を削り取ってやれば、あとはそれで華紋を作ればいいんだ」

 「九狼が?」

 「ああ。だが、俺は闘具と違って、それ用に作られた付喪神じゃない。俺の攻撃が届く範囲なんて限られてる。だから、お前には……あいつの懐に目ぇいっぱい飛び込んでもらう必要がある。それこそ、やるかやられるかって瀬戸際まで」

 「いいよ。やろう」

 新太は即答した。九狼がぎょっとして、

 「お前、わかってんかよ⁉ 間近であいつの攻撃食らったら、怪我じゃ済まないんだぞ」

 「わかってる。でも、それしか方法がないんでしょう? だったら、やるよ」

 言って、新太は笑った。九狼もつられて表情が緩み、

 「――この、バカ野郎が」いつの間にか笑っていた。

 新太が一歩、踏み出す。

 勿忘神は、まだ手を伸ばしていて。大丈夫だよ――二歩、近づいた。

 突然、ぶるっとその身体が波打ち、細腕に筋肉がまとわりつく。

 新太は、眉をひそめて――駆けた。前へ。

 小石が足の裏を刺すが、気にしない。

 一間、詰めたところで――拳が、腹をめがけて突き出された。

 「心形刀流(しんぎょうとうりゅう)――虎流(とらなが)し!」

 木刀の代わりに、右腕で勿忘神の攻撃を受け流した。

 じいん、と、利き腕が痺れ、さらにそれが左腕に伝わって痛みに変わった。顔を歪ませたが、目だけはしっかりと勿忘神の身体を見ていた。

 目指すは腕の付け根。そこに生まれつつある隙に向かって、新太は左右の足に力を入れた。

 あと、少し――で。

 「新太っ!」

 九狼が初めて、名前を呼んでくれた。しかし、感動すべき状況ではないのは、すぐに分かった。

 勿忘神からもう一本、腕が生えて――それが、拳が、顔前にあったのだ。またこれか、と、叫び出したかったが、実際は。

 ひっ――と、呼吸が(もつ)れて、喉が鳴っただけだった。反射的に右腕でかばうが、九分九厘――間に合わない。

 そこへ、九狼の霊殻が飛び込んできた。

 なんで――と、意外と頭は冷静で。拳に弾かれて、九狼の霊殻の脇腹が無残に抉られるのを見ていた。その霊殻が千切れて、宙に舞う。

 それを呆けたように見て、遅れて、

 「九狼っ!」

 声が、出た。震えた――だって、あれでは。

 「動け、飛び込め――新太っ!」

 苦悶に歪む九狼の口吻(こうふん)が――叫んだ。

 「あとは俺がなんとかしてやる――行けっ!」

 その声が、背を押した。ほとんど転げそうになりながら、前へ。

 進む。

 勿忘神に肩からぶつかりながら、

 「行けぇっ!」

 今度は新太が、叫んだ。

 しかし。

 そのとき、勿忘神の身体が吹き飛んだ。新太の目の前で、バラバラに砕け散った。

 一瞬、九狼がやったのかと思ったが――違った。

 九狼はやっとのこと霊殻を元に戻したばかりで 新太同様に目を丸くしていた。

 勿忘神は消えた。

 いつも通りであれば、眩いばかりの光に包まれ、その本体が現れるはずなのだが、今回はなにもなかった。木くずや木片が散らばっているだけだった。

 それが、勿忘神の本体なのだと、理解して。

 新太は目の前に、男が立っているのを視認した。

 短髪で、色の白い、二十代前半の男だった。

 黒のズボンと、白いワイシャツ、その上にズボンと同じ黒のベストを身につけている。それが上背のある男によく合っていた。

 ただ、一点――異質だったのはその手に、銃が握られていることだ。

 気を纏った銃身の先が、今は新太に向けられている。

 今は――である。つまり、先ほどまでは、勿忘神に向けられていたはずだ。

 なにが起きたのか、悟った。男が闘具と思しき銃で撃ったのだ。そして、霊殻を撃たれた勿忘神は――死んだ。

 「なんで、……なんで、こんなことを」震える声で、新太は言った。

 しかし、若い男はちらとも新太に視線をくれず、銃を腰の革帯に仕舞うと、さっさと踵を返してしまう。男の横には、いつの間にかもうひとり――少女がいた。男の影で、その顔や服装までは判然としなかったが、手にその身長ほどの長さがある弓を持っていた。

 二人は東邸の華紋師(かもんし)なのだろう――男がその少女に向き合い、

 「もう、片付いた。こっちはいいから、雨置(あまき)は戻って瘴気(しょうき)を払って来てくれ。子供を優先的にな」

 「はぁい」少し鼻にかかった甘い声で、少女は言って――ちら、と新太に視線をやってから、駆け去っていった。

 無視された怒りと、男の――いかにも簡単な仕事が片付いた、そんな態度に新太は思わず声を荒げて、

 「答えろっ! いま、何をした。なんで、勿忘神を殺したんだっ!」

 「なにか、問題でも?」

 男が、初めて新太を見た。切れ長の目を眇め、冷淡そのものの光を宿して。

 「人間に害を及ぼす獣を駆除しただけだ。お前に、親の仇のような目で睨まれる覚えはないが」

 「獣? 駆除、だと――」

 あんまりな言い方に、カッ、と血がのぼる。

 しかし男は反対に、どこまでも冷たく、その目を光らせる。

 「お前は、西邸(にしてい)の華紋師だな。闘具も持たないで、こんなところでなにをやっている?」

 「勿忘神を鎮めようとしていたんだ。それを、お前が――」

 「ふざけるなッ」

 静かな声だった。しかし、地を這うような響きは、新太の心奥まで震わせた。

 継ぎ句を言わんとしていた喉が凍りついた。

 「お前がやったのは、現場をただ荒らしただけだ。無思慮な行動のせいで、いったい何人の人間に危険が及んだのか、わかっているのか?」

 「それ、は――」

 ぐっ、と新太が唇を噛んで――俯いた。

 「勿忘神に感情移入するなど、西邸の連中は甘いと思っていたが、お前はそれ以下だな。金輪際、人命を蔑ろにする行動をするな」

 そう言って、男は少女が行った方向に、歩き去っていった。

 取り残されて、あたりは静寂に包まれた。うっすら、暗闇が忍び寄る。

 新太は俯いたまま、足元に転がっている木片を見る。

 片膝をついて、それに手を伸ばす。

 そして――ひとつずつ、丁寧に拾い集めていった。

 「お、おい……新太、なにやってんだよ」

 九狼が声をかけるが、作業は止めない。

 「直すんだ」地面にじっと目を凝らしたまま、そう言った。

 大きい欠片を手にした瞬間、ぽろりとそれが崩れた。木くずが、はらはらと舞う。

 「直すって、……でも、もう、こいつの魂は――うぐっ」

 九狼がうめき声を上げた。

 新太が弾かれたように顔を上げる。

 九狼の霊殻は元通りになっていたが、しかし、所々で綻びが出来ているのがこのとき分かった。そして、ピシッ――と、乾いた音が走った。

 墨壺の表面を、斜めにヒビが入っていた。それをなぞった新太の指先が強張る。

 「傷が――」新太の声が震える。「なんで……」

 「ああ、霊殻がやられかけたからな。負った傷が、跳ね返ったんだろ」

 「……ごめん、俺を助けようとして……ごめん、九狼」

 「いや、いいよ。こんな傷、慣れっこだ」

 「でも――」新太が喘いだ。ぎゅっと、手を白くなるまで握り締める。「俺の、せいなんだ。あの人のいう通りだよ。俺が、考えなしに動いたせいで、たくさんの人が危険な目にあった。あそこにいた誰かが死んでも、おかしくなかったんだ――ッ」

 通りで巻き起こった、人の叫びや呻きが脳裏によみがえって。

 新太は自己嫌悪と後悔で押しつぶされそうになった。

 「なんかもう、最低じゃん、俺。人を助けるどころか、傷つけて。勿忘神だって、助けるって言ったくせに、……なのに、……なのに――」

 新太の肩が震え出す。その声に水っぽいものが混じる。

 「あの勿忘神が死んだのは、お前のせいじゃないだろ」

 九狼が言ったが、新太は首を振るばかりで。

 「……あの母子(おやこ)はどうなんだよ。お前が助けたんだろ」

 そう言っても、新太は返事すらしなかった。

 いつになく優しく声をかけてきた九狼も、流石にじれてきて、

 「だぁ、もう――」歯を剥き出しににして、唸った。「いつまでもウジウジしてんじゃねぇ。結果はどうであれ、お前があの母親と、赤子を助けたのは確かだろ。今はそれで充分だろっ。それともなにか? 人も助けたい、んでもって勿忘神も助けなきゃ気が済まないってか。何様だよ。てめーが、ひとりでできることなんざ、限りがあンだ。わきまえろッ」

 新太が顔を上げた。涙で、くしゃくしゃになった顔だった。それをさらに歪ませて、

 「でも――俺は」

 「お前、泣いてんじゃねぇよっ!」

 「泣いてない!」

 腕で乱暴に顔をこすり、洟をすすり上げ――新太は真っ赤な目を九狼に向けた。

 愚直なまでに真っ直ぐな視線に、ふっ、と九狼の表情が和らいだ。

 「お前、バカだろ? ……いや、バカだな。バカで、欲張りだ、身の程知らずだ」

 「そんなにバカバカ言わなくても……」

 新太が口を尖らせる。それをちら、と横目で見て、

 「いや、バカだね。……じゃなきゃ、勿忘神を助けたい、とか普通思わないだろ。さっきのヤツも言ってたじゃねぇか。人に害を及ぼす存在だって。……それを、お前はなんで助けたいなんて思うんだ?」

 その声にはどこか新太を試すような響きがあった。それを敏感に感じ取って、新太は慎重に考える。なぜ、勿忘神を助けたいのか。気持ちを言葉に変換するため、ゆっくりと、口を開き、

 「……だって、最初から人を恨んでいたわけじゃないから。付喪神だったころは、大切にされて、だから魂が宿ったんでしょう? 魂があるなら、人間と一緒だよ。そんな過去があるのに、苦しんでるのに、放っておけない」

 そう言って、大きく頷いた。

 「俺、……勿忘神のことを、分りたいんだと、思う。今日のことで、分った。知りたいんだ。どうして、勿忘神にならなくちゃいけなかったのか。付喪神だったころは、どんなことを考えていたのか、とか。どんなふうに、大切にされてきたのか、とか。そんなこと、全部知りたい」

 なんだか自分がひどく格好つけたこと言っている気がして、新太は気恥ずかしくなった。

 また、バカだとか身の程知らずとか言われるんじゃないか、そう思って、九狼を見やる。意外にも、九狼は真剣な目をしていた。

 今なら言えるのではないか、と。

 その真摯な表情に、引き込まれるようにして、

 「俺ひとりで、勿忘神を助けるなんて、無理だって、それも今日実感した。だから――」

 「うん?」

 「だから、九狼も協力してほしい。一緒に戦ってほしい。今日みたいな、無茶な戦い方は二度としないから」

 言って、ぐっと唇を引き結ぶ。九狼は、ぽかんと口を開け、そして、うーん、とわざとらしく身体を捻ったり、伸ばしたり、前足で耳を掻いたり、無意味に振り返ったり――そして、ややあって。

 「……わかったよ」

 新太の表情が晴れる。

 「わかったけど、……でも、ひとつ条件がある!」

 「条件?」

 「そうだよ。お前が戦ってるときに叫ぶ、心形刀流なんとかっての、やめろ。くそダセぇから。恥ずかしいから」

 新太の頬が――顔全体が火を噴くように真っ赤になって、

 「なっ、……別にいいじゃん。あれ叫ぶと、心が締まるっていうか、……でも、え、ダサい、のかな?」

 新太が客観的になって、慄く。九狼は大仰に頷いてみせた。

 「これは、老婆心で言ってるんだ。あれは、ダサいからやめろ。そもそも、無許可だろ。まだ免許皆伝(めんきょかいでん)してもらってねぇだろ」

 その通りだった。心形刀流は、伊庭儀八郎(いばぎはちろう)の流派で、まだ教わってひと月と経っていない。新太は心形刀という、つい口に出したくなる響きを気に入り、加えて勝手に技名をつけて叫んでいる。それが痛々しいと、九狼が言うのだ。その通りかも、と殊勝に項垂れる。

 「わかった。じゃあ、……新太一刀流とかにしようかな。技名も、しっかり考えて」

 「お前ッ――悲しくなるほど、俺が言ってること伝わってないな。名前の問題じゃねぇ。つか、その名付けの才能の無さ!」

 「えー、じゃあ、九狼が考えてよ。思いっきり、カッコイイの」

 「だから、技名を叫ぶんじゃねぇよっ」

 辺りには、虫の声が聞こえるようになっていた。

 月が見える、静かな夜で――


 この日、新太と九狼が四谷の屋敷に帰り着いたのは、深更近くだった。

 新太が負った傷は、擦り傷、打ち身、そして――勿忘神の攻撃を正面から受けた左腕は、橈骨(とうこつ)の亀裂骨折だと診断される。全治、一か月。

 加えて、当然のこととして。

 新太には、一週間の謹慎が申し渡された。

 闘具を持たない状態で勝手な行動を取り、それによって怪我人や瘴気による被害者が増える原因を作ったのが理由だった。本来であれば、処分は一か月の謹慎が相当されたし、東邸の方からはもっと重い処分を訴える声もあったが。

 新太の初動が、母子を救った。その事実を鑑みて、一週間の謹慎となったのだった。

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