第七話 ライスカレー!
見慣れた刀袋が、今日だけは違って見えた。
屋敷に戻ってすぐ、いつも朝夕の食事で使っている居間で一週間ぶりに木刀と再会した。
ヒナギから手渡されたそれを押し抱くように受け取った新太は、ほうっ、とひとつ息を吐いた。手にかかる重さは以前のままで、それが新太にまず安心感を与える。
ヒナギの方を見ると、優しげな笑みを口元に湛え静かに頷いてくれた。
それで決心がついたように、新太が中を改めようとして、
「いやぁ、外、すげぇ雨だな。まいった、まいった」
玉虫が濡れた髪や肩を、端がほつれた手ぬぐいで拭きながら居間に入ってくる。畳に、薄黒い足跡が点々と続く。己に注視しているヒナギと新太に軽く手を上げて挨拶、そして、
「おっ、なんだ。闘具、完成したのか。これでお前も、一応は見習い卒業ってとこだな」
新太の横に胡坐をかいて座る。そして、見ないのか、と刀袋を指す。
玉虫の登場で水を差された感じになったが、気を取り直して、新太は柄を握って、すっと袋から引き抜いた。それを垂直に構えてみる。
「おおっ――……おお?」
思わず、困惑の声を漏らしてしまった。そこにあるのは前と寸分たがわない木刀で、柄の手垢の黒ずみや、切っ先の丸み、細かな傷に至るまで、なんら変わっていない。
唯一、その刃先にぼんやりとした光をまとっているのが違いと言えば違いか。しかし、それさえも、ふっと息を吹きかけてしまえば忽ち消えてしまいそうな弱々しさだ。
「なんだ、新太。ひょっとして、木刀が立派な真剣にでもなって戻ってくるとか思ってたのか?」
おとぎ話じゃあるまいし、と玉虫は哄笑する。うっ、と言葉に詰まったのはそれがずはり図星だったからだ。さすがに真剣になるとは思っていなかったが、闘具というからには、例えば黒一色の木刀とか、振れば「斬!」という効果音が鳴る木刀とか、そんな物をこの一週間勝手に想像してはニヤついて、期待値を高めてしまっていた。
そんな自分を、思いっきり張り倒してやりたい気持ちになった。
「呪紋を入れて作るわけだから、見た目はまったく変わらんさ。疑似的に付喪神にしてるっていっても、あくまでも疑似――八色や四鸞みたく、自我が宿るわけじゃない」
「そう、……なんですか」
新太が肩を落とす。刃先の光も薄くなる。
そこにヒナギが声をかけてくれる。
「でも、いい闘具です。立ち上る気が、温かい――新太くんの優しさが現れている」
「ヒナギさん……!」
「と、四鸞が言っていますよ」
え、と眉をひそめる。見れば、ヒナギの肩にぼんやりと丸みを帯びた光の塊が、ちょこんと乗っている。白と黄色を混ぜた色のそれは、小鳥のような輪郭で――事実、嘴と柔らかそうな翼を持っていた。遅れて、あれが四鸞の霊殻なのだ、と気付く。
長い尾は、ヒナギの腰あたりに伸びていた。
「そうそう。あーちゃんの呪紋って、ほっこりする。ヒナちゃんのもそうなんだけど、温かいんだよねぇ。きっとその木刀も、そのうち、あたしたちの仲間に入るよ。楽しみー」
可愛らしい女の子の声が――その小鳥から発せられている。どうしようもない違和感に、口を引きつらせつつ、
「あ、あーちゃん……?」それだけ訊くのが精いっぱいだった。
「あらた、だから、あーちゃん。……だめかなぁ?」
パタパタと翼をはためかせ、新太の顔の前まで飛んでくる。そして、小首をかしげる、というより身体全体を斜めにして、そう訊いてくるのだ。
「い、いいと思うよ。……うれしい、かなぁ」
小さい子供を相手にしているような話し方でいいのかと、ふと思ったが、
「やったー、これであたしたち、友達だよね。よろしく、あーちゃん」
当の四鸞が気にしていないので良しとする。あだ名をつけたら友達という謎理論を展開して、くるりと器用に一回転してみせる。
「ひゅー、モテモテだな、新太」
へたくそな口笛を吹いて、玉虫がニヤついた笑顔で言ってくる。四鸞がそれを見て、
「玉ちゃんって下品だよね。漂ってる気も、ざわざわしてて、なんかいやー」
うぐっ、と、子供らしい直截的な物言いが玉虫の胸をえぐった。ぶふっと新太が噴き出すと、爬虫類のような湿った目で睨みつけられた。
四鸞がヒナギの方へ戻っていく。しかし、その途中で何かを思い出したように空中で急停止をする。
「あ、そーだ、九狼のことでひとつ、お願い」
「え、お願い……?」
「あの子、尖ってるけど、悪い子じゃないんだ。恥ずかしがり屋なだけだから、その――」
もじもじと、人間なら指を突き合わせるような感じで、四鸞が言う。「仲良く、したげて」
「うん、分ってるよ。九狼は大事な……友達だ」
新太が晴れやかな笑顔で、応えた。
今日は喧嘩もしたけれど、それはたとえば友達とするような他愛ない言い争いじゃないか、と思う。
人間以外の存在を友達ということに新太は抵抗がなかった。
――そっと自分の腰にある墨壺に触れてみると、びくっ、とその躯体が一寸くらい飛び上がった。
四鸞が、「よかったー」と翼で胸をなでおろし、今度こそヒナギの元へ帰っていく。
その肩に止まると、千変の羽織は、紅葉の時期を迎えた銀杏の葉のような、鮮やかな黄色を発色する。ヒナギが細い指で四鸞の喉を掻くと気持ちよさそうに目を線にした。
「新太くん、わたしも、いい闘具だと思っていますよ」
不意にヒナギが言った。愛おし気な眼差しが、四鸞から、新太が右手にもつ木刀へと注がれる。
「勿忘神と対峙していないときでも、薄っすらと気を放っているのは、よほど呪紋が強い証拠です。新太くんの物を大切にする心と、染山先生の技が上手く発揮された結果ですね」
「染山先生? ……闘具の、職人さんですか?」
以前、靱負もその名前を口に出していた。気難しい、儀八郎のような老翁を想像しながら新太が訊いてみた。その人がこの闘具を仕上げてくれたのなら、お礼をしないと、と思う。
ヒナギが新太ではなく、その横の玉虫を見て、口をわずかに開きかけた。そのとき、
「あー、そういえば、今日お得意さんから野菜やら肉やらたくさんもらったんだった。台所に運ぶの、新太、お前も手伝え」
唐突に、玉虫が立ち上がる。その高い背を見上げて、新太は呆気にとられるばかり。
「今日の夕飯は、俺が作ろっかなぁ。久しぶりに包丁、握りたい気分なんだよな。ヒナギも食ってくだろ?」
何か言いたげに、ではあったが――ヒナギが頷いた。
「よっし、決まり! ほら、行くぞ!」
玉虫は乱暴に新太の襟首をつかむと、ずるずると畳を引きずっていく。摩擦熱で尻が熱くなり、
「ちょっ、熱……苦し、玉虫さん、自分でっ……自分で歩けますからっ! 放し――」
喘ぎながら、悲痛を訴えて玉虫を仰ぎ見たとき、新太は二の句を飲み込んだ。
真っ直ぐ前を見る、玉虫の顔が何かを堪えるように苦悶に歪んでいたのだ。
え、と思った瞬間。
玉虫がひょいと乗り越えた敷居の段差に、強かに腰をぶつけられて――新太は悶絶した。
痛む腰をさすりながら玉虫の後について玄関口まで行くと、三和土に籠や木箱が乱雑に積み上げられていた。その多さに、まず目を見張る。南瓜や芋類、葱や茄子など、お馴染みの野菜類に加え、赤い尖った物、薄茶色の石ころのような物など、新太は初めて目にする食材が多かった。木箱の方には缶詰やらなにやらが並んでいる。
まずどうやって屋敷まで運んだのか、という疑問はさておき、
「すごいですね。これ全部――」
食べ物だ、と認識した瞬間、新太の腹が壮絶な音を立てて鳴った。
玉虫がニヤリと不敵な笑み。
「仕事で行った角筈の家が豪農でさ、お礼にってもらったんだ。肉もあるぞ!」
「仕事って、華紋師の?」
「ああ、違う違う。オレ、表稼業で表具職人やってんだよ。結構、腕がいいって評判なんだぜ」
そう言って、その仕事内容が掛け軸や襖などの修理、新調だと教えてくれるのだが、新太はその間ずっと上の空だった。手ごたえのなさを悟った玉虫が、ちっ、と舌打ち。
「おらっ、さっさと運ぶぞ」
号令一下、二人して台所と玄関を往復する。新太は腰の痛みもすっかり忘れて、いつもの訓練もかくやという具合に仕事をこなした。
そして。
数分後には台所の隅に、それらは綺麗に積まれていた。自分の背と同じくらいの、食材の塔をうっとりと眺めて、
「玉虫さぁーん、今日はなに作るんですかぁー?」
「気持ち悪い声を出すなっ! そこで黙って見てろ」
米を研ぎ、竈に火を入れ、まな板と包丁を洗い――てきぱきと下拵えをこなす玉虫に、新太は初めて尊敬の眼差しを向ける。
事実、その手並みは無駄がなく、米を炊く火を調整したと思ったら、籠から赤色の野菜を数本取り出し、器用に包丁で皮を剥いていく。その横には舶来品と思われる缶詰が置かれていた。
新太の胸は期待に膨らむ。
生唾をごくりと飲み込み、何か手伝わないと、と今更ながら思って、
「あの、俺は――」
「あのぅ、私はどうしたらいいんでしょう?」
突然、冷や水を背中にぶっかけられた――のは気のせいだが、そのか細い声は事実、新太の背をぞわりと粟立たせた。
いきなり現れた気配に息を飲んで振り返ると、そこに割烹着姿の中年女性が俯いて佇立していた。
「き、木曽野さん……」
いくら食べ物に夢中になっていたとはいえ、まったく気が付かなかった。
線の細さ、影の薄さは、以前から承知しているが、今日はその影が一段と薄い。雨のせいでうそ寒い台所に立たれると、心ならずも幽霊という二文字が浮かぶ。
「ああ、木曽野さん、今日はすんません、俺が夕飯つくります。たまには休んでいてください」
玉虫が白い歯を見せて笑ったが、木曽野の顔は曇ったままで、
「困ります。……私の仕事、……困ります」
震える声に、水っぽいものが混じる。あれ、ここってこんな寒かったかな、と新太は両の腕を抱く。室内なのに吐く息が白くなる。
「じゃあ、えっとぉ……」玉虫の目が泳いで、籠に積まれた茶色の野菜に止まる。「そこの馬鈴薯の皮、剥いてくれますか?」
木曽野の顔が持ち上がる。コクン、と首が座らない人形のように頷いて――彼女は音もなく籠に近づく。気のせいか、その横顔が透けているように見えて。
新太が目をこすったら、その間に、木曽野は野菜籠から二間は離れた屑籠の前に移動していた。またもや音はない。
新太はぞわりと鳥肌が立ち、玉虫に駆け寄ると、その腰にしがみついた。
「た、たたたたた、玉虫さん」
「馬鹿野郎! 包丁持ってるときに抱きつくな。あぶねぇ、つーか、気色悪りぃ」
「ま、前から気にはなってたんですけど……き、木曽野さんってほんとに人間なんですか? もしかして幽――いだっ!」
擂り粉木で頭頂部をぶっ叩かれた。頭を押さえて、その場に蹲る。
「失礼なことを言うんじゃねぇ! 人間に決まってるだろうが」
「で、でも――」
涙が浮いた目を、木曽野の後ろ姿に向ける。ちょうど彼女がこちらを振り向き、その薄い唇が、つつ、と引っ張られるように上がり――笑った、と認識した瞬間、新太はゾクリと身を震わせた。
尻で後ずさり、玉虫の足に縋り付いた。
「うおっ、邪魔だっつーの! お前、ここはいいから、居間に行って膳の用意でもしてろっ!」
蹴り払われる。
我ながら情けないのだが。
一刻も早くここを去りたい気持ちで頭がいっぱいだった新太は、お言葉に甘え、逃げるように台所を後にした。
居間に戻った新太の顔を見て、四鸞が甲高い声を上げた。
「どーしたの、あーちゃん⁉ 顔真っ青だよ」
「いや、ちょっと……」
喉から絞り出すようにそう言って、どさりと畳に座った。
台所に比べてここは温かく、明るい。石油ランプに火が入っていたこともあるが、全体がこう、ほっとするような明るさなのだ。
ちなみに膳の用意はすでにヒナギがやってくれていて。
加えて、「大丈夫ですか?」と、温かいお茶なんか出してくれたりして。
湯飲みを両手で包み、立ち上る湯気を見ていると人心地が付いてくる。やっぱりあれは自分の見間違いか思い込みか、と笑い飛ばしたくなるが、だからといって、更に暗くなった廊下を進んで台所に戻る勇気はなくて。
「お前、意外と怖がりだな」九狼に笑われたが、言い返す気力もなくて。
それでいて、しっかりお腹が空いていて。
そして、待ちに待った時間。
玉虫が居間に戻ってくるのが気配――ではなく、漂ってくる美味しそうな匂いで分かった。青白かった新太の頬が、ぱっと桜色になる。今まで嗅いだことのない良い匂いが爽やかに鼻腔をくすぐる。
「待たせたな。この玉虫染二、会心の出来だぞ」
その背中に女の人が負ぶさっていないか本気で心配したが、もちろんそんなことはない。
大皿三枚と小鉢を器用に両腕で運び、それぞれの膳に配っていく。最後に箸ではなく木匙を置いて、
「ほんとは銀匙のほうが雰囲気でるが、そんな洒落たもん、この屋敷にはなかった。木匙で勘弁してくれ」
そう言って、「あ、牛乳忘れた」と、台所に引き返していった。
新太は自分の膳に置かれた大皿に顔を近づける。胃袋を鷲掴みにされるほど美味しそうな匂いだが、見た目はなんというか――煮物をさんざん煮込み、どろっとなったそれをごはんに掛けました、そういう印象なのだ。
ごろっと転がる野菜も見たことがないもので、それも新太をためらわせる。しかし、匂いはすごく美味しそうで――まるで喉の渇きと空腹が同時に襲ってきたがために、どうしていいかわからなくなるロバのように思考停止に陥った。そこへ、
「新太、ライスカレー初めてか。うまいぞ。騙されたと思って、一口食ってみろ」
いつの間にか戻って、新太の横に座っていた玉虫の笑顔が助け船になった。
そっと木匙で掬って――ちょっとためらったが、目を閉じて、ぱくり。
瞬間。
あまりのおいしさに目を見張った。
塩気が絶妙に効いた旨味、そしてご飯と野菜の甘味、遅れてやってくる舌が痺れるような辛さ――それが混然一体となって、波のように押し寄せる。
新太は陶然となりつつ、二口、三口――その匙は止まらない。
玉虫はその様子を笑いながら見つめ、そして、ちらりとヒナギの様子を伺う。
ヒナギも匙をとって、ライスカレーを静かに食べていた。
「玉虫さん、あの……」
玉虫が蕩けた顔でぼんやりとヒナギを眺めている。そのせいか、新太が呼んでもなかなか気付かない。
「すみません、玉虫さん……おかわり」
「なんだよ、うるさいな。人が心地よく――って、おかわりぃ⁉」
玉虫が驚いて、新太が両手で持つ皿を見た。綺麗に空になっている。
「は、早ぇな……。鍋が台所にあるから、自分でよそってこいよ」
「え――」
台所、と言われて新太が固まった。
誰もいない、薄暗い台所に俯いて立つ木曽野の姿が頭に浮かぶ。
思わず、ついてきてください、と玉虫に縋ったが、彼の意識はまたもやヒナギに行ってしまっていて、新太の情けない声は届かなかった。
試しに袖を引っ張ってみるが、無反応。これなら手付かずのまま残っている玉虫のライスカレーと自分の空の皿を替えても気付かないのでは、と、ふと悪魔が囁いたが――さすがにそこまでは出来ない。
新太は深呼吸して。
勇気を振り絞って、立ち上がった。斗南っ子がこんなことでおびえてどうする。
廊下に続く襖を開け放すと、ひんやりした風が足元を撫でた。
ごくりと息を飲む。
長く続く廊下は想像以上に闇で――新太はまたもやロバになりかけたが、そこは食い意地が僅差で勝った。
床板を軋ませて、台所を目指す。その腰は引き気味で、膝を震わせながら。
道半ばまで来たところで、新太の気力は限界で――たまらず声をかける。
「ねぇ、九狼。……九狼、九狼さん! 九狼さまっ」
嫌がられることを承知で、墨壺を揺する。
しばらくそうしていると、さすがの九狼も堪忍袋の緒が切れたのが、
「だぁーっ、こんの弱虫がっ。おかわりくらい、ひとりで行けんのかい!」
にゅっと、霊殻が飛び出してくる。
その指摘は至極ごもっともなのだが、怖いものは怖いのだ。
「情けねぇな、……それで華紋師が――うん? なんか良い匂いがする」
くんくんと、犬科特有の動作で鼻を鳴らす。
「台所まで、少しでいいから話し相手になって。あとで、九狼にも分けてあげるからさ」
「ちっ、……俺たち付喪神は人間の食べ物は口に出来ないんだよ」
九狼がそっぽを向いて、吐き捨てる。
そうなのか、と新太は意外に思ったが、考えてみれば実体のない霊殻が食事を必要としないのは納得できる。悪いことしたかな、と申し訳なくなって、
「ごめん。……あ、じゃあさ、あとでライスカレー見せてあげるから」
「ああん⁉ 見せるだけとか、嫌がらせか、それは」
「じゃあ……、お供えする」
「死人扱いすんな!」
そして、結局は喧嘩になってしまうわけで。
ただ、九狼のおかげで恐怖が紛れたのは事実だった。
台所に着き、へっぴり腰で様子を伺うと――行灯のぼんやりとした明かりが、頼りなげに辺りを照らしていた。しん、と静まり返っている。
それでも隅から隅までしっかり確認、さらに後ろも何度か見て、そこに木曽野がいないことを確かめて一瞬、渾身の走りと手際を発揮してライスカレーをよそった。
二度とここへ戻ってこなくて済むよう、皿からあふれんばかりに盛っておいた。
そして、来た道をどたどた駆け戻って――勢いよく襖を開ける。
玉虫が驚いて、こちらを見る。
「うおっ、なんだお前か。ってか、それ……どんだけ盛ってんだよ。腹、壊しても知らねーぞ」
「大丈夫です。食えます。任せてください」
はぁはぁ、と肩で息をしながらも、余裕の笑み。ここまで来たらもう、怖いものなしだ。
新太は座布団に座ると、腰の組紐をほどいて墨壺を膳の隅に置いた。これなら匂いは届くだろうと。そして両手を合わせ――一気呵成に、ライスカレーの山を切り崩しにかかった。
「ふぅ――ごちそうさまでした!」
数分後には見事に完食、倍以上に大きく張った腹をさする新太に対し、
「……お前、化け物かよ」
食後の牛乳を飲んでいた玉虫が、呆れたような声を出す。否、そこには畏怖と敬意も混じっていただろうか。
しかし、今の新太にそんな玉虫の複雑な心境は伝わらない。幸せいっぱいを満面に張り付けた顔をして、
「いや、美味かったっす、ライスカレー。辛いのに、美味くて、匙が止まらなくて……あんなの作れるなんで、玉虫さん、料理上手なんですね」
「尊敬」の二文字が浮かんだ目で見つめられれば、玉虫だって悪い気はしない。
ニヤリと、口の端を持ちあげる。
「まぁな。料理は趣味みたいなもんだからな。最近は西洋料理に凝ってるんだ。精養軒に、煉瓦亭、風月堂、いろんなとこ食べ歩いたり、本見て勉強したり。和食じゃ木曽野さんに敵わないが、西洋料理ならオレにも分があると思うぜ」
言って、厚い胸板をそらしてみせる。その鼻の下に、白い、牛乳のひげが出来ているのがなんとも様にならないが。
「料理が趣味って、いいですね。玉虫さんのお嫁さんになる人って、幸せになれそう」
「おっ、殺し文句だな、それ。……お前に言われると、なんか嫌だけど」
「ええっ、……じゃあ――」新太が懐紙で口元を拭っていたヒナギを見やる。「ヒナギさんは、どう思いますか? 料理が出来る男――ぐふっ」
「なっ、バカ、なに訊いてんだよ!」
玉虫の腕ががっしり、新太の首を捉える。予想以上の強さに、その腕を叩いて降参を伝えるが、弱まるどころかますます締め付けられる。玉虫は動転しているのか、赤紫になっていく新太の顔色に気が付かない。あわや昇天――と思われた、そのとき、
「素敵だと思いますよ。今日のライスカレーも、すごく美味しかったです」
ヒナギが言って、玉虫の腕が緩んだ。その隙に新太は抜け出して、金魚のように口をぱくぱくさせて、呼吸――肺に酸素を供給する。生きているって素晴らしい。新太が生を実感している隣で、逆に時が止まりそうな男がひとり。
「す、すす素敵って、……オ、オレ」
「はい。今度、作り方を教えてください」
「はうっ――」
殺し文句、だったのだろう。
胸を押さえて、玉虫は天を仰ぐ。オレ、このまま即身仏になってもいい――そんな心の声が新太には聞こえた気がした。
そして、そのまま五分経過。
もしかして、本当に御仏になったのだろうか、と心配して、新太が玉虫の袖を引っ張る。はっと我に返った玉虫は、オレはいったい何をしていたのか、という顔を新太に向け、次にヒナギを見て、やっと先ほどまでの会話を思い出したらしい。こくこく、と頷いて、
「オ、オレでよかったら、教えるよ。まだ材料たくさんあるし、カレーでもシチューでも、どんと恋だ、いや……来いだ!」
どん、と胸を叩いてみせる。その伸び切った鼻の下に、乾いた白い牛乳のあとが付いているのが、やっぱり様にならないが。
「ありがとうございます。養育院の子に、西洋料理を作ってあげたら喜ぶと思いまして。なかなか、口にできる機会もないですし」
「ああ、いい考えだな、それ。きっと新太みたいに夢中になるぞ」
玉虫が、豪快に笑う。「養育院?」と、聞き慣れない言葉に新太が首を傾げていると、
「孤児や、捨て子の面倒をみる施設のことだよ」と玉虫が教えてくれた。そして、牛乳を飲みながら、「この屋敷の近くにも、小さい養育院があるんだ。ヒナギはそこで手伝いをしている」そう付け足した。
「へぇ……、ヒナギさんが子供の世話……似合いますね」
新太は子供に囲まれるヒナギの姿を想像する。
いつも周りに気を配るヒナギのことだから、きっと子供たちから慕われているだろう。怒るとすごく怖い、とか影で言われつつ。子供の賑やかな声とヒナギの笑顔が頭に浮かんで、新太の頬は、ふっと緩む。
「なんだか、ヒナギさんって、いいお母さんになりそうですもんね」
「ぶっ――」と、玉虫が白い霧を噴射する。きらきらと、雪のようにそれが新太に降り注いだ。
「な、なに言ってんだお前いきなり」ごほごほとむせて、玉虫の顔は真っ赤になっている。
「おか、おか……お母さん⁉ ヒナギが、結婚……」
いったい何を想像しているのか、新太は髪に飛び散った白い露を拭き拭き、玉虫を今度は「軽蔑」の二文字が浮かんだ目で見る。真っ赤になったのは、咳き込んだせいではないようだ。
「……玉虫さんは、そう思ってくれてないんですね」ぽつり、とヒナギが言う。険のある表情だった。玉虫が、うぐっ、と変な声を漏らす。
「う、いやっ……そーゆーわけじゃなくて、だな……オレは物事には順序ってもんがあるって――」
玉虫が挙動不審になりかけた、そのとき、
「なんだか今日は賑やかですね」靱負が顔を覗かせた。珍しく着流しではなく、羽織と、その上にインバネスを着こんでいる。靱負は目を細めて、「おや、ライスカレーですか。いい匂いです。ひょっとして、玉虫くんが?」
「え、はい――」玉虫が助かった、という顔で「靱負さんの分もありますよ。今日のはですね、元祖、風月堂の味を、オレなりに再現した自信作っす」
「それは楽しみだ。……このあと、会合があるので、帰ってから頂きますよ」
「会合……。東邸との協調の件、っすか?」
「はい。上野へ行きますので、帰りは遅くなります。火の始末を頼みますね」
言い置いて、靱負は出て行ってしまう。
新太はその背中を目で追って、「なんか、忙しそうですね」
「忙しそう、じゃなくて、忙しいんだよ」玉虫が、皿を重ねながら言った。「ここんとこ、勿忘神が頻発してっからな。これまで月に二、三件だったのが、今じゃ週に二、三件だ」
「え、そんなに⁉」
「そう。お前が知らないだけで、オレたちは苦労してんの。ただ、このままの状況が続いて悪化すると正直しんどい。東邸の連中と連携とって動かないと、首が回らなくなっちまう」
「東、邸?」
「ん? ……ああ、新太には教えてなかったか――」玉虫は片づけの手を休めて、新太の方を向く。「東京には、華紋師を抱える組織が、オレたち以外にもうひとつあるんだ。東京は広いからな、宮城を挟んで西をオレたちが、東をそいつらが管轄にしている。上野に本拠の屋敷があるから、便宜上、東邸。んで、四谷にあるここは、西邸って呼んでるわけ」
「へぇ、……玉虫さんやヒナギさん以外にも華紋師っているんですね」
感心したように新太が言うと、玉虫が笑った。
「そりゃいるよ。ちなみに東京だけじゃなくて、京都や横浜、名古屋なんかにも組織がある。都市部は、人の業が渦巻くからな。それだけ勿忘神が発生しやすい。華紋師が必要になるってわけだ」
玉虫はそう言って、頭の後ろをぼりぼりと掻いた。
「つっても、大人数のでかい組織ってわけじゃねぇ。華紋師の絶対数が足りてねぇからな。ここが靱負さんを入れて三人、東邸もたしか……三人」
「四人です」ヒナギが即座に訂正する。
「ああ、そういや半年前に、新人が入ったって言ってたな。なんか、若い女の子らしいけど」
大丈夫かね、と玉虫は肩を竦める。
「えっ、新人⁉」
それを聞いて、新太の顔がパッと輝く。
まさか自分以外に新人がいて、しかも、それが女の子らしくて――新太の胸は期待に膨らんだ。
会ってみたい、と思った。できたら、話がしたい、と。
それが思いっきり顔に出ていたのか、
「おい、鼻の下伸びてっぞ」
玉虫に言われて、ばっと新太は手で口元を覆った。自分だってさっきは伸ばしていたくせに、と目で言ってやる。そんな呪詛を含んだ視線など、しかし玉虫は笑い飛ばす。白い歯をみせて、ばしっと新太の背中を叩く。
「ま、そんなわけで。ここの四人目の華紋師として、期待してるぜ、立柴新太。まぁ、幽霊怖いとか言ってるようじゃ、ちと頼りないけどな」
「うっ……」
自分でも分かっているのだ。闘具が出来たとはいえ、まだまだ見習い。幽霊だって怖いし、勿忘神と対峙するのもちょっと怖い。それでも、いや、だからこそ。
衒いでも気負いでもいい、いっそ空元気でも、ないよりましだ。
ぐっ、と握りこぶしを作って見せ、勢いよく、
「任せてくだしゃい!」……噛んだ。