第六話 伊庭道場
そぼ降る雨の中、新太は傘を差して、四谷区仲町にある剣術道場に向かっていた。
今日から、週に三回、そこの伊庭道場で剣の稽古をすることになったのだ。
というのも、闘具が木刀に決まったことで、剣術の修行も必要なのではないか、との声がヒナギから上がった。しかし、あれだけ身体能力の高いヒナギでも剣術の素養はないらしく、新太に教えることができない。それならば、と靱負が知り合いの剣術道場に掛け合ってくれることになった。
新太にしても、太一郎が亡くなってこっち、剣術の修行から遠ざかっていたから、この話が出たときは嬉しかった。最近では、座学の時間に玉虫が、『おまえには教えることはもはやない』と老練な師匠のような台詞を吐き、自主練に切り替わることが多くなっていたので、その時間に剣術が出来るのならもってこいだった。
かくして――十月に入ってすぐ、新太の道場通いが決まった。
しかし、この雨である。
最近は気持ちのいい秋晴れが続いていたのだけど――と、新太は傘を持ち上げ、鈍色の空を見上げる。今日は一転して、朝からあいにくの空模様だった。
せっかくの初日に、少しケチが付いたようで、新太の表情も先ほどから曇りがちだった。
加えて、その心をどんよりとさせる原因がもうひとつあった。
月が替わり、ヒナギから新しい一本歯下駄を渡されたのだが、なかなか足に馴染まなかった。最初の下駄もこうだったかな、と思ってみるも、なんか違うのだ。履き心地が。やはりあれは見間違いでも気のせいでもなかったのだ、と思う。
二代目の下駄は、一代目のそれより――どう考えても、目をこすって見ても、ひっくり返してみても、ひと回り、大きかった。歯も長いし、太かった。
それが当初の予定通りなのか、結局、一代目の下駄を最後まで削りきれなかった新太への罰なのかは分からないが――はっきりしているのは、この十月で、今度こそ下駄の歯を擦切らないと、終わる、ということだ。自分の身体が。
最初の一本歯下駄をヒナギに提出したとき、彼女はそれにちらと視線を走らせ、
『では、残った歯の寸法に、千を掛けた数――素振りと、腹筋と腕立て、あとは脚の屈伸運動を、一時間以内に行ってください』
こともなげに言い放った。
残った歯三寸――つまり三千回。それぞれの筋力訓練をそれだけの数、指定された時間内に気合と根性でやり遂げて――新太の筋肉は死んだ。事実、それをした翌日、全身の痛みで布団から起き上がれない状態になった。
それより大きい下駄を今、履いているのだ。先月と同じことをやっていたら、三寸どころではなく、もっと残るは自明の理――歯を、歯を削らねば!
そのとき、雨がもたらす肌寒さが二の腕あたりに忍び寄り、新太が身震いをする。
それで、歯っと――いや、はっと、我に返って、
「あれ……? 道、間違えたかな?」
ふと立ち止まり、ここはどこだったか、と手元の地図を確認する。
しとしと同じ間隔で降る雨は、考え事をするには持ってこいで――つい道を外れてしまったらしい。
仲町には来ているのだが、肝心の道場の場所が分からなくなってしまった。
道を訊こうにも、雨の日の昼下がり――人の姿はない。
うーん、と新太は考え、ちょっと試しに、
「ねぇ、九狼……道に迷ったみたいなんだけど、どうしようか?」
話しかけてみる。ちらりと、自分の腰に組紐で提げている、筒型の墨壺に視線をやったりして。
しかし、案の定、というか当然というか、返答はなかった。新太は気取られないように、小さくため息を吐く。九狼が相棒になって、一週間。二人の間は、実はずっとこんな感じだった。
新太が話しかけても、無視。
墨壺を揺すっても、無視。くすぐっても、無視。なにをしても、無視だ。
とにかくこちらの声かけには、まるっきり応えてくれないのだ。
前途多難。憂鬱の種がもうひとつ増えた心持ちになり、それを振り払おうと、大きく深呼吸――しようとしたとき、
「兄ちゃん、ちょいとごめんよっ!」
威勢のいい声に新太が振り返ると、人力車がすぐ後ろまで来ていた。慌てて道を空ける。
新太の前を、幌付きの車が、すごい速さで行き過ぎる。
車輪が水たまりを撥ねて――
その泥が袴にかかりそうになって、後ろに跳んで、よけた。
しかし、着地した先がぬかるみだったせいで、足が滑った。前のめりに転びそうになるのを、右足を出してなんとか防ぐことに成功。ただ、身体が傾いた勢いまでは消せず、「うわっと、と、と」――たたらを踏んで一歩、二歩。片手には蛇の目傘、まるで歌舞伎役者の見得のごとく。
だがここで、まだ馴染んでいない下駄が災いした。
三歩目を踏む、まさにその刹那、すぽんと下駄が足から抜けた。歯がうまい具合に人力車が作った轍に嵌まり、すっぽ抜けたのだ。
新太は成す術もなく、顔面から転んでいった。盛大に水しぶきが舞って――しばし、静寂。
「痛たたたたぁ……うわっ、ぺっ!」
泥まみれの顔を上げて、口の中に入った泥水を吐き出す。
ひどい目にあった、と顔をぬぐっていると、
「なにさらすんじゃー!」
にゅっと、新太の腰と道に挟まれていた墨壺から、九狼が姿を現す。
ぎらぎらした、銀色の目をかっと見開いて、
「このクソガキがっ、危うく割れるところだったじゃねぇか。ちゃんと目ぇ付いてんのか、このトンチキめ。もし万が一のことがあってみろ、化けて出てやるところだったぞ」
もう化けて出てるじゃんか、とは思ったが言わなかった。
「ごめん」と、素直に謝る。
「ごめんで済むなら、十手持ちはいらねぇんだよ。だから、ガキと組むのは嫌だったんだ。間抜けみたいに転びやがって、こっちは巻き添えくって、危うく木っ端だ。わかってんのか⁉」
「……ごめん」
「だいたい、お前は付喪神様に対する礼儀がなってねぇ! 遠慮なくこねくり回すわ、くすぐるわ、声はでけぇわ、汗臭せぇ、乳臭せぇ。おまけに、寝言もうるせぇし」
「え、寝言……?」
「おうよ。こちとら四六時中、お前なんかと一緒にいなきゃなんねーから、嫌でも耳に入ってくる。毎夜、毎夜、『ヒナギさぁん、ヒナギさん、許してー』って、気色悪りぃ。寝ながら女の名前を呼ぶんじゃねぇよ、この変態ど助平野郎が!」
新太の顔が、紅潮する。唇をぷるぷる震わせて、
「ち、違っ……そんなんじゃ、しっ……仕方ないじゃないか、こっちにもいろいろあるんだから」訓練とか、稽古とか、下駄とか。いろいろ、ある。
「ほう……いろいろ、ねぇ」
つい、と――九狼が顔を寄せてくる。意味ありげにニヤけてみせるその面が、非常に憎たらしく思えて、
「どうせ言ってもわからないよ。犬の、九狼には」
わざとらしく、吐き捨てる。今度は九狼の顔色が変わった。
「ああん、いまなんつった⁉ 犬じゃなくて狼だっつーの」
こうなってしまうと、もはや、売り言葉に買い言葉で。やれ、雑種犬だの、山芋だの、禿狸だの、案山子だの――互いが言いたいことを存分に投げつけ合って、収拾不可能。
に、思えたそのとき、
「やかましいわ! 往来の真ん中で、お前ら、なにをやっておる⁉」
稲妻が走った。びりっと空気を震わせるほどの大音声。
新太が、九狼が、身体を硬直させて、罵詈雑言の応酬を止める。眼だけで、声のした方を確認すると、熊のようにすね毛がわさっと生えた両の足がそこにあった。
「おおっ」新太が興奮の声を漏らして、ゴクリと生唾を飲む。その男らしい足が堪らないとか思っているわけではなく、足の主が一本歯下駄を履いていたからである。
同士がいた、と嬉しくなって――その尊顔を拝もうと、見上げる。
そこには、鬼のような形相をして、炯々と眼を光らせる初老の男がいた。射すくめられて、新太は今度こそ身体の芯から凍りついた。
いろは、の文字が染め抜かれた浴衣を着て、帯は黒、そこに裾を尻端折って挟み込んでいた。懐手にしているのか左腕は見えなかったが、破れた蛇の目を握る右腕は優に新太の二倍はあって、筋肉の彫も隆々として見事だった。もちろん、熊のような腕毛も。
そう、熊だ――と思う。
背はそこまで高くないのに、全体から漂う威圧感がそれだけで対峙する者を慄かせる。
腕やふくらはぎ周りの筋肉、逞しい怒り肩などから、この人物が相当、身体を鍛えていることがわかる。そして――父、太一郎と同じ、武芸者の眼を持っていた。腥臭のする戦争を知っている、眼。もしかして、と新太は感じるところがあった。恐る恐る、
「……伊庭、道場の方、ですか……?」
男は「むん?」と目を細め、熊面を新太に近づける。酒臭い息がかかり、反射的に顔を背けそうになるが、我慢。
「そういえば靱負から、見習いをひとり託すとあったが、……もしや、お前か?」
新太がこくこく、と頷いた。男が新太の全身を睨め回し、むふーっとさらに酒の臭いに満ちた息を吐く。
「相分かった。ついて来るがよい――と、言いたいところだが、まずはその汚い成りをなんとかせい」
言われて、今、自分が泥の塊のような姿になっていることに気が付いた。顔も単衣も袴も、茶色一色。腰に下げていた九狼の墨壺にも、汚泥が細かくこびりついていた。
「そこの角を曲がったところに湯屋がある。着替えはあとから届けさせるゆえ、二人とも泥を落としてから道場に来い。いいな?」
男が指さす方を見、それから。
新太が九狼と顔を見合わせて――あれ、と違和感。二人とも?
「そこの管狐みたいな、犬っころなら先刻より見えておるわ。そんなことより、早う、風呂に入ってこい!」
男が、新太たちの心を読んで、一喝。
犬呼ばわりされたにも関わらず、どこか委縮したように九狼は、男の熊面をただ眺めるしかできないでいる。
おそるべし、というべきか。流石、靱負が見込んだだけはある。男は息を飲む新太を一瞥すると、一本歯下駄を見事に捌き、ぬかるんだ道を物ともせず、歩き去っていった。
「先ほどはありがとうございました。立柴新太といいます。本日はよろしくお願いします」
冷たい床板に額をつけて、新太は自己紹介をする。雨は、先ほどより勢いを増したようで、篠突く雨音が屋根を大きく叩いていた。
顔を上げると、道場の上座にあぐらをかいた熊面の男が莞爾として笑った。
「ほう、こうして泥を落として道着にさせると、なかなか様になっておるな。結構、結構」
風呂から上がると、道場の使いだと名乗る痩せた男がいて、新太に風呂敷包みを渡してくれた。それには道着一式が入っており、新太が着替えるのを待って、なんと道案内までしてくれたのだ。新太は至れり尽くせりの対応に感激したものだった。
その、貸してくれた道着にうっすら緑色のカビが生えて、どこか酸っぱい臭いがしたのが気になったけど。
しかし、それを指摘できる立場にあらず。新太が道案内と道着の礼を言うと、男は満足そうに高笑いをした。見れば、男が着こんだ道着も緑色――を通り越して濃い抹茶だった。あれが全部カビだ、と思いたくなくて、ああいうハイカラな道着なのだと言い聞かせる。
そんな新太の揺れ動く心模様にまったく気付かず、男はひとしきり笑ったあと、
「そういえば、先ほどの犬っころの姿が見えないようだが」
男の視線が、新太の腰――泥がきれいに落ちた墨壺に注がれる。道着に着替えても、袴の腰ひもに律儀に結わえつけていたそれを新太が軽く揺すって、
「こら、九狼、失礼だぞ。挨拶、挨拶!」
うんともすんとも、言わない。どうやらまた、だんまりを決め込む肚らしい。
「ははっ、どうやら相当、嫌われておるみたいよの。華紋師と付喪神は、刀と鞘の関係であるべきなのに、お前たちは文字通り反りが合わんらしい。先が思いやられるの」
うっ、と痛いところを突かれる。
「まぁ、よいわ。犬っころに、剣が分かるわけもなし――」
そのとき、ごとごと、と抗議をするかのように墨壺が揺れた。だが男が睨むと、それがピタリ。ふふん、と満足そうに鼻から息を吐いて、
「わしは伊庭儀八郎という。今日からこの道場で、週三回、お前に剣を教えることになる。厳しくいくが、よいな?」
「え、……伊庭、八郎……?」
思わず目を見張る。その名前には聞き覚えがあったのだ。
たしか、戊辰戦争の最終局面――箱館で、新政府軍を相手に一騎当千の活躍をした隻腕の剣豪、だったはずだ。幼いころ、太一郎が寝物語に故郷の会津を守って戦った人や、箱館で最後まで新政府軍と戦った武人の話をしてくれたことがあった。その中に土方歳三や榎本武揚に混じって、伊庭八郎の名前もあったと思う。
函館戦争のとき戦死したか、行方不明になったと聞いていたが、生きていたのか⁉
新太の見開かれた目が、キラキラと光り輝くまで時間はかからなかった。こんなところで有名人に会えるとは、という興奮――しかし、男はそれをにべもなく否定した。
「違う。伊庭、儀八郎だ。函館戦争の英雄にして美男子、伊庭八郎は、わしの従兄弟にあたる」
「え、いや、でも……」
新太は困惑気味に、儀八郎と名乗る男を見つめる。その、左腕を見る。袖の短い道着に着替えていたから気付いたが、男の左腕は肘から三寸ほど残して先が無かった。
伊庭八郎も戦闘で左腕を失くし、隻腕の剣豪としてその名を轟かせたはずだ。
新太の視線に気付いた儀八郎は、ぽつりと、
「たまたま、だ。たまたま、同じところを怪我しただけだ」
「いや、で、でも……」
今度は上座の奥に目をやる。普通なら掛け軸が掛けてあるものだが、この道場には錦絵がでかでかと飾られていた。総髪の侍が血刀を提げ、後方を睨んでいる図だった。すぐ後ろに迫りくる敵がいるのだろうか。きっ、とそれを睨み据え、侍は白い晒しで傷を負った腕の止血を行っている。
実は同じような構図の錦絵が、道場の玄関や、着いてすぐに借りた厠の壁など、至る所に貼ってあった。傷を負った箇所や顔つきが違ったりしたが、同じ人物を描いたものとわかったのは、どの絵にもご丁寧に「伊庭八郎」と書かれていたからだ。
新太の言いたいことを悟ったのか、儀八郎はニヤリと笑って、
「月岡芳年に以前、描いてもらったものだ。どうだ、見事であろう。血の滴り、鬼気迫る戦場の空気、目を閉じれば今にも浮かぶようだ」
そう言って目を細め、昔は良かったと、思い出に浸る縁側のおじいちゃんのような顔をする。
あれ、これはやっぱり――
「本人、ですよね?」
好々爺から、即座に武芸者の顔つきに変わり、儀八郎は首を振った。
「違うと言ったろう。わしはな、伊庭八郎の父、秀業の姉の義理の娘の、義母の祖母の孫である。つまり従兄弟なのじゃ。まぁ、……天才剣士で稀代の美男子、伊庭八郎とわしを見間違うのも分からんではないが」
「え? えっ? 義理の……息子の、孫? すみません、もう一回――」
「二度は言わん」
きっぱりと吐き捨て、
「しかし、お前……若いくせに、伊庭八郎の名を知っておるとは殊勝な心掛けだの」
儀八郎の顔が綻んだ。太い右腕で手招きをする。もっと近う寄れ、という意味らしい。
新太が儀八郎のすぐ前まで膝を進めた。つん、カビの臭いが鼻を突いた。
「ち、……父がよく話してくれました。右腕一本で鬼神のような活躍をした人だったって。片手剣を極め、たぐいまれな気骨を持った、豪胆で、義の侍だ、と」
儀八郎の眼が爛々と光始め、その小鼻が膨らんでいく。うんうん、と大仰に頷いて――これはどう見ても、自分のことを褒められて悦に入っているよなぁ、と新太は疑問を拭いきれない。
それでつい口ごもると、まるで気持ちよく聞いていた謡曲をなぜ止める、と言わんばかり――不快感もあらわに儀八郎がぎろっと目を剥く。
「どうした。続けて良いのだぞ」
「あ、えっと……」新太が必死で記憶を探る。「大きい岩を斬った、とか。……松を切り倒した、とか。ええと、……箱館で熊と、戦った、……とかなんとか」
あれ、これは違う人の逸話だったっけかな、とその記憶はかなり怪しいものになっていく。
新太を見る目が冷ややかになる。
「もう、よいわ。……時に、お前の父親というのは、どのような御仁なのだ? かなりの見識をお持ちのようだが」
助かった、と新太は思い――父、太一郎のことを先ほどとは違い、よどみない口調ですらすらと語った。
顎に手をあて、それを聞いていた儀八郎の顔つきが次第に驚きと喜びがないまぜになったものになって。
「なんとっ、……あの立柴太一郎の子であったか。……いや、わしとて話に聞くくらいだが、その剣技の噂は江戸にいたころから耳にしておった。一度、手合わせをと思っておったが、……そうか、亡くなられたのか」
お悔やみを申す、ときちんと頭を下げてくれる。新太も慌ててお辞儀を返す。
父親がこんなふうに言われることは初めてで、胸のあたりが温かくなった。
「お前と会えたのを、靱負に感謝せねばならんな。……どうだ、ちと、父親の昔語りでもしてくれんか。太一郎殿が、斗南でどのような生活をしたのか興味があるのだ」
「え、……でも、稽古は――」
ここに来るまで、迷って、泥に塗れて、風呂に入って――じきに夕方になろうとしている。このままでは稽古をする時間がなくなるのではないだろうか。
当然の疑問を新太が言うと、儀八郎はくわっと目を見開き、菓子屋の前で物をねだる子供のように、
「稽古など、次でよい! いつでもできる。それよりも、早う、話をせい」
そうまで言われれば新太とて断る理由はない。儀八郎という、父と同じ武芸者に話を聞いてもらうことは、父の供養にもなると思った。
そうして話し始めると、ついつい興に乗ってしまったりして。
気付いたら小一時間ほど、道場の床の冷たさも忘れて夢中で話し込んでいた。
太一郎が村で起きた流行り病の際、わが身を顧みず病人の看病に当たり、それが原因で同じ病に倒れたと知ったときには、その熊のような目や鼻から涙と洟を、滂沱と流していた。
「そうか、……そうか、立派だのう。侍とは、かくあるべきじゃ」
言って、ちーん、と懐紙で洟をかんだ。
いい歳をした大人が、人目を憚らず泣く場面に遭遇するのは初めてで――新太は若干、引き気味に、
「……あ、ありがとうございます」
「ふう、……お前も苦労したのだな。……ちと、待っておれ」
立ち上がった儀八郎は、神棚へ行くとそこから紙切れを一枚手にして戻ってきた。
お札だろうか、と訝る新太の鼻先に、つい、とそれを差し出し――それは伊庭八郎の錦絵だった。
「良い話をしてもらった、礼だ。とっておけ」
新太はそれを両手で、うやうやしく受け取って――眺める。
この道場の至る所に貼ってある錦絵と構図が少し違い、新太が貰った絵の伊庭八郎は、きりりとしまった役者のような男前で、八相に刀を構えた立ち姿はなんとも勇ましい。
「かっこいい」と、素直な感想を漏らす。
帰ったら部屋に飾ろう、そんな決意を胸に秘め新太がひとつ頷くと、儀八郎も、うむ、と頷き返した。互いに見つめ合う。
この師弟の間に絆めいたものが生まれた、そのとき――
「ごめんください」
透き通った女性の声が響いた。聞き覚えのあるそれは、どうやらヒナギらしい。
新太が急いで道場の玄関まで行くと、三和土にいつもの羽織を着た彼女の姿があった。手には折りたたまれた和傘。その先から水が滴っている。新太の顔を見たから――ではないだろうが、海老茶だった羽織が、酸素を吸った血液のような真紅に変わる。
「どうしたんですか、ヒナギさん?」
「そろそろ稽古が終わるころと思い、お迎えにあがりました。じき暗くなりますし、足元も悪いので」
新太の胸がじん、と感動に打ち震える。自分のことを気にかけてくれるヒナギがほんとうの姉に思えて、少し気恥ずかしいような、嬉しいような気持になる。
「伊庭先生の稽古は荒っぽいと聞いたので心配したのですが、……見たところ、擦り傷だけで、大きな怪我はないようですね」
自分の訓練のことは思いっきり棚にあげて――とは、新太の勝手な感想だが――ヒナギがほっと一息つく。擦り傷は、顔面からすっころんだときに出来たものだったが、恥ずかしいので黙っておくことにする。
ヒナギがにっこりと笑って、
「新太くん、稽古初日はどうでしたか?」
「楽しかったですよ! 儀八郎先生も、見た目ほど怖くないし。……あ、そうだ、見てくださいよ、これ。こんなカッコイイ絵、もらっちゃいました!」
と、手に持った錦絵を広げて見せる。
ヒナギはそれにちら、と視線を走らせただけで、
「――それで、剣術の稽古は?」
「え、……っとぉ、稽古は……して、ない、……です。話をしてただけで……」
「そうですか」
ヒナギは笑顔を崩さない。そのまま、羽織の色だけが酸素を急激に失うように赤黒く――いや、いっそどす黒くなって。
新太は玄関の温度が、五度くらい下がるのを感じた。
「少し、ここで待っていてください」
冷ややかに言い置いて、ヒナギは玄関を上がる。道場の入り口で、「失礼します」と一礼。ややあって――
「おお、ヒナギか。久しいな。新太の迎えか? ……って、おおう、ちょっと……待て、話せば、わか……す、すまん、次はしっかり稽古するから――ぬおおおおおおっ!」
刹那。
ビタァアアア――――ン、と、ものすごい音が上がった。衝撃が床を這い、玄関の板戸や柱をビリビリと震わせる。
なにが起こったのか――新太が恐る恐る道場を覗こうとしたとき、
「お待たせしました。帰りましょうか」
ヒナギが戻ってくる。その肩越しに、大の字で仰向けに倒れている儀八郎の姿が見えた。
ぴくぴくと、すね毛にまみれた足が痙攣している。
大丈夫なのだろうか、といつも投げられている身としては同情を禁じ得ない新太だったが、
「そういえば、新太くんの闘具が留守中に届いています。戻ってから、お渡ししますね」
三和土に下り、すでに傘を手にしていたヒナギが言った。
「えっ――⁉」
その言葉に、瞬間で儀八郎のことは忘却の彼方。手に、木刀を握る懐かしい感覚がよみがえってくる。
待ち遠しかった、一週間。やっと、完成したのだ。
早く帰って見たい――鼻唄まじりでヒナギの後に続き玄関へ行く。一本歯下駄に足を入れたところで、ふと、後ろ髪をひかれたように。
道場を振り返ると、まだ儀八郎が倒れたままだった。少し迷って。
新太はそっと目を閉じ、胸の前で手の平を合わせて――師の冥福を祈った。