第五話 闘具と付喪神
屋敷に戻って、なんだか急に身体が重たくなった。
すわ、瘴気か――と、なぜか笑顔になる玉虫相手に、日ごろの疲れが出ただけだと言い張り、自室に引っ込んだ。
大の字で仰向けになり、ぼんやりと犬張子のことを考えていると――
「新太くん、入ってもいいですか?」
ヒナギがやって来た。
跳び起きて、襖を開ける。ヒナギは手に木箱を提げていて――どうやら、右手の治療に来てくれたらしい。
出血はもう止まっていたし、痛みもほとんどなかったのだが、
「そこから悪い菌が入るといけません」そう言って、ヒナギは箱から消毒液と包帯を取り出した。
慣れた手つきで患部を消毒し、素早く包帯を巻いていく。彼女の手際の良さに感心し、慈母のように優しく微笑む、その顔に――新太はやっぱり見惚れていた。
そして、ちょっと願ってしまう。
訓練のときも、これくらい優しくしてくれたら――
「どうかしましたか?」
新太の視線に気付き、ヒナギは小首を傾げる。
「えっ⁉ あ、いや、その……」新太は慌てて、「……そ、そういえば蔵に安置された勿忘神って、結局はどうなるんですか? 付喪神に戻る、とか?」
取り繕うような、問い――だったが、実のところ先ほどから犬張子のことを考えていた。どうなるのか心配だったのだ。
ヒナギは数秒、新太の顔を見つめてから、目を伏せ、最後の仕上げに包帯の端を結んだ。
「終わりました。明日また、包帯を替えましょう」
「ありがとうございます」
新太は礼を言って、右手を軽く握ってみた。痛みはない。
ヒナギは使った道具を木箱に片づける。それが終わってから、その姿勢を正した。
「……華紋で鎮められた勿忘神の多くは、深い眠りに入ります」
先ほどの新太の質問に対する答えだった。思わず新太も背筋を伸ばす。
「眠りから覚めて、新太くんが言うように付喪神になるものもありますが――それは、ごく僅かです。多くは眠ったまま、魂が消えて、ただの器物に戻ります」
えっ、と新太が絶句した。消えるって、死ぬってことじゃないのか、と。
それじゃあ、結局は華紋師がやっていることの意味はないのではないか。
そんな新太の内心を、ヒナギはしっかり汲み取っていてくれて、
「ごめんなさい、言い方が悪かったですね。消える、というより魂が浄化される、と言ったほうが近いかもしれません。勿忘神が本来の姿や、大切にされていた時の記憶を思い出して、満足して、消えるのです」
そう語って、笑った。
新太も笑い返して――そのつもりだったが、失敗した。
実のところ、犬張子が付喪神になって、話が出来ることを少し楽しみにしていたのだ。満足して消えるのなら、それもいいかと思ったが――少し、残念だった。淋しかった。
「新太くん。よければ、蔵に会いに行ってあげてください」
「え、会いに?」
「はい。新太くんが放つ気で、犬張子が付喪神に戻る可能性もあります。反応を返してくれる……とは少し違いますが、眠っていながら、不思議な現象を起こす勿忘神もいるんですよ。例えば、これ――」
言って、ヒナギはいつも着ている羽織の衿を軽くつまんでみせた。
「この羽織も、もとは勿忘神でした」
「えっ⁉」
突然の告白に、新太が目を見張る。ヒナギの羽織が、まるで呼吸をするように赤から白、そして藍に鮮やかに変色する。
「振袖の勿忘神だったのを靱負さまが鎮められて、それをわたしが羽織に仕立て直しました。ずっと眠っているのですが、人が羽織ると、色や柄が変わる現象が起きるのです。なので、千変の羽織と呼んでいます」
それは、新太もたびたび目撃していたのでわかる。現に今も、藍から萌黄色に変わっている。
だが、それは――手妻といった奇術でヒナギがやっていることだと思っていたのだ。靱負が、ヒナギを紹介するときにそう言っていた気がする。
新太がそれを告げると、ヒナギが首を振った。
「手妻では、そこまでのことはできません。早変わりといって、お面で表情を変える芸はありますが、着物の色を一瞬で変えるとなると、西洋の手品でも難しいのではないでしょうか」
「そう、なんですね」
残念そうに、新太が肩を落とす。ヒナギは目を細め、
「でも……新太くんが手妻だと信じてくれていたなら、もう少し内緒にしてれば良かった。ちょっと、惜しいことをしました」
言って、いたずらっぽく笑った。それは――初めて見る、無邪気な表情だった。
新太が一瞬だけ呆気にとられ――でも、すぐに可笑しくなって、吹き出した。
ヒナギの意外な一面を覗いた気がして、嬉しかった。
そのとき、色変わりの羽織が、紫紺に染まる。そして――ぱっと、花火が開いた。
音こそないが、夏の夜空のように、何輪も花火が咲いていく。
「すごい、……そんなこともできるんですね。あの、触ってもいいですか?」
無意識で言って――自分がなにを口走ったのか、遅れて理解。今度は新太の顔がぱっと、赤面する。
「い、いやっ……変な意味じゃなくて、その――」
「いいですよ」
ヒナギが頷いた。
じゃあ、遠慮なく――といった度胸は新太にはなく、指先でそっと、畳の床に広がる、羽織の裾に触れてみた。
ひんやりと冷たい、でも柔らかい絹の感触。何ら変哲はない、普通の羽織だ。
新太がそれを感じたとき、紫紺が一瞬で、桃色になった。夏の空から、春の、桜を思わせる色味だ。季節が逆行しているかのような、神秘感。
新太が驚いて手を放す。なぜか、ひどく背徳的な、後ろめたさを覚えてしまう。
そのとき、
「新太くん、失礼しますよ」
声がして、襖が静かに開いた。そこから靱負が顔を覗かせる。
「ああ、向坂くんも一緒でしたか。今日はお疲れ様でした」
「ど、どうしたんですか靱負さん急に」
先ほどのことが若干、尾を引いている新太は、早口になってそう訊いた。
靱負は後ろ手で襖を閉め、部屋に入ってくると、ヒナギの隣に正座をする。
「そろそろ、新太くんの闘具を作成しようと思いまして。疲れているところ申し訳ないのですが、その相談に伺いました」
「闘具って、……玉虫さんの筆、みたいな……?」
思い出す――というより、忘れろと言われても不可能なほど脳裏に焼きつけられていた。頭の中に巨大な筆が浮かぶ。知らないうちに眉をひそめていた。
玉虫から教えを受けたから――師が弟子に継がせるように、自分もあの筆を継ぐのでは、と根拠のない不安。それを掬したのか、
「一様に、筆と決まっているわけではないですよ。華紋師が使い慣れている道具や、手に馴染んだ品が闘具に選ばれます。新太くんはなにか、そのような物はお持ちではないですか?」
その質問に、新太は文机の隅に置かれた竹行李を見る。私物はそれだけだ。少しの着物と下着、手ぬぐい、筆記具。それと『帝都名所案内』。使い慣れた品と言われても――と、困りかけたが、竹行李の脇にあった刀袋の存在に気が付く。闘う道具というからには、ぴったりではないか。
「この、木刀でもいいですか?」
刀袋を引き寄せ、中身を抜き出す。立派――とはお世辞にも言えないが、長く使い続けている一振りだ。
「もちろんです。拝見しても、構いませんか?」
新太は靱負に木刀を手渡した。靱負はそれを、まるで真剣でも扱うかのように、丁寧な所作で横に向け、縦にかざし――
「だいぶ使い込まれていますね。闘具作成において、呪紋を器具に注ぐわけなのですが、物によっては呪紋が定着しないこともあるのです。しかし、ここまで大切に使われた品なら、問題ないでしょう。良い闘具になると思います」
言われて――新太は誇らしいような、でも、ちょっと胸の奥を引っ張られたような不思議な心持ちになった。少しだけ、目を伏せ、
「それ、父さんが木を削って作ってくれたんです。その木刀が三本目で、毎回、俺の手と身長に合わせてくれて……草鞋ひとつ作れないくらい不器用だから、いつも手が傷だらけになっちゃうんですけど……」
鼻の奥が、つんとなるのが分かった。これ以上、話したら不覚を見せる――そう思って、新太は唇を噛んで、口をつぐんだ。
靱負は黙ったまま、新太を見守る。
「形見、なのですね。お父様の思いが詰まった、良い、刀です」
靱負の声はどこまでも静かで、穏やかで――だからこそ、新太の胸に染みた。目をつむると、零れた涙がまつげを揺らした。
靱負はそっと視線を外し、木刀を刀袋に戻した。時間をかけて、ゆっくりと。
そして、新太が目尻を拭って顔を上げるのを待って、
「闘具にするために、一週間ほどお預かりしますが、よろしいですか?」
靱負が尋ねる。新太がそれに首肯すると、刀袋を横のヒナギに渡した。
「向坂くん、この木刀を染山先生のところに届けてください」
「わかりました」頷いて、ヒナギは新太を見る。「責任をもって、預からせていただきます」
そう言って、木箱と刀袋を持つと、部屋から出て行った。
「さて――闘具はこれで良しとして、実はもうひとつ、決めなければならないことがあります。それは、新太くんと組む、付喪神のことです」
その言葉に、新太の胸が躍った。
この日が来るのを、秘かに楽しみにしていたのだ。ヒナギの四鸞や、玉虫の八色――は、ちょっと苦手だが――あんな風に一緒にいられる、相棒のような存在が羨ましかった。
「付喪神には個々の性格があるので、華紋師との相性を考えなければいけません。実のところ、闘具を決めるより、こちらの方が大変なのです」
靱負が顎先に指をあてる。片眉を僅かに持ち上げて、思案顔となる。
「……実際に見てもらった方が早いですかね。少し、私に付き合ってください」
「はい!」
立ち上がる靱負に続いて、部屋を出る。てっきり蔵に行くのかと思ったが、靱負は屋敷の北側に歩を進めた。
いつも新太が寝起きしている部屋や、七曜の間はすべて屋敷の南側にあり、対する北側には新太はめったに足を踏み入れたことはなかった。
そこには靱負の居室と仕事部屋がある、と聞いている。実際の仕事風景は見たことはないが――靱負は紋付や幟に家紋を描き入れる紋章上絵師をやっているのだ。無論、華紋師をする傍らということになるが、この表稼業は結構な人気で、商家の旦那や芸者、華族まで方々から依頼が来る。新太は一度、出来上がった紋付を依頼人に届ける手伝いをしたことがあった。指定された住所が山の手にある立派な洋館で、しばらく呆けたように玄関先で佇んでいて、不審者と間違われた――苦い記憶だ。
あの洋館を見たときも驚いたけれど――南側から北側への移動は予想以上に時間がかかり、新太は改めてこの屋敷の大きさに舌を巻く。
靱負は、頑丈そうな錣戸の前で立ち止まった。
ガタンと重々しい音を立てて戸が開かれると、まず視界に飛び込んできたのは、いくつも並ぶ棚だった。陽が傾き始めていたのに、この部屋はどうしたわけかぼんやりと明るい。嗅いでみても、ランプ特有の油臭さはなかった。そればかりか、風通しは良いみたいで気持ちのいい秋風が入ってくる。
「ここにいる、墨壺や矢立は、華紋師専用に誂えられた付喪神たちです。どうぞ、中へ」
靱負が、新太を促す。一歩、部屋に踏み込むと、いくつもの目が自分に向けられる感覚があった。ごくりと生唾を飲み込む。
「貴方たち、警戒しなくてもいいですよ。新太くんは華紋師の見習いです」
靱負の声に、さっ――と、波が引くように、気配が薄くなった。
しかし、ただ一点。
それでもなお、刺すような視線が、ひとつ。
まるで睨みつけてくるようなその視線の出どころを探って、新太が左手の棚の隅に、円筒形の墨壺を見つけた。
なぜか気になって、一歩近づく――と、唸るような声。
少し怯んで。それでも好奇心から、もう一歩、近づく――と。
むわっと墨壺から煙が立ち込めて、見る間にそれが獣の形になる。その獣が新太の喉笛に食らいつこうと迫り――寸前で糸に絡めとられた。その細い糸は、靱負の袂から伸びていた。靱負の闘具だろうか。
「九狼、いい加減になさい! 今度、そのような真似をしたら、蔵に仕舞い込みますからね」
「わ、悪かった、靱負。もうしないってば」
いつも強気のガキ大将が、親に大目玉を食らったような、情けない声がした。
獣を縛っていた糸が解かれると、ポン、とその霊殻が弾けた。弾けて、そこに居たのは、墨壺からにゅるりと頭と前足だけ出した細長い――なにかだった。とがった鼻と耳、銀色の瞳。口の間からはするどい歯が見えている。新太の知っている動物で、それに当てはまるものはひとつしかなく、
「え、犬?」
思わず声に出していた。それを聞いた付喪神が、きっ、と睨みつけてくる。
「犬じゃねぇ、狼だっ。最近のガキは、学がねぇな」
そう言われても――毛がボサボサの雑種犬にしか見えない。が、それは黙っておくことにする。
「九狼という、墨壺の付喪神です。御覧の通りの性格なので、少々、手を焼いています」
靱負が肩をすくめた。九狼が、むっとしたのが気配で分かった。
新太は円筒形の墨壺を見た。表面に大小さまざまな傷がある。痛々しくて、ああこれがさっき気になった原因なのだと分かった。
棚に並ぶ他の壺はどれも綺麗なのに、九狼だけ、艶が消えたように、傷だらけだったのだ。霊殻の毛がボサボサなのも、あるいはそのせいか。
そう思ったら、放っておけない斗南っ子の血が騒いで、
「俺、こいつにします。相棒の付喪神」
「――えっ⁉」
「――はぁ⁉」
靱負からは驚き、九狼からは怒りの声が同時に上がった。
「新太くん、しかしですね……」
「大丈夫です、靱負さん。俺、犬――じゃなくて、オオカミ好きだし」
狼というのが、大きな犬くらいの知識しかないが、そう言った。
別に憐れみや同情ではなかった。さっき襲われそうになったとき、心底から新太を憎むような気配はなかった。ちょっと驚かせてやろう、というような、稚気。いたずら心。
斜に構えているだけで、本心を九狼は隠しているのではないか。
その本心を知りたい、単純に仲良くなりたいと、新太は思っただけだった。
靱負はまっすぐ新太の顔を見て、いつものように顎に手を当てる。
そうしてなにやら考えていた様子だったが、
「……なるほど。新太くんなら、いいかもしれませんね」
ぽつり、とつぶやく。
「はぁ⁉ 勝手に決めるな。俺はごめんだぜ。こんなガキと組まされるなんて、命がいくつあっても足りねぇ」
騒ぐ、犬――もとい、狼。それに対して、靱負はため息を吐いて、
「九狼、以前、勿忘神になりかけたのを覚えていないのですか? そのように差し伸べられた手を拒み続けていたら、いつか本当に――」
「ああ、もう、その話はいいって。ちっ、……わかったよ、やればいいんだろ、やれば」
納得した、とはとても言い難いが――なんとか一段落。
こうして、九狼が新太の相棒になった。
「よろしく、九狼」
包帯の巻かれた右手を、差し出す。
九狼はその手を、新太の顔を、順繰りに見て――そっぽを向いた。
それはもう見事な無視だった。前途多難。そんな言葉が浮かんだが、それは斗南っ子魂でなんとかなるさと、新太はあくまでも前向きでいくことにした。