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雨と陽の、華紋師  作者: 長谷川 海月
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第三話 訓練、訓練!、訓練!!

 華紋師(かもんし)見習いになってから、新太(あらた)の一日は決まったことの繰り返しで消費されるようになった。

 双槻靱負(なみつき ゆきえ)の屋敷に来て二週間が経ち、九月半ばになったこの日も、もはや習慣とでも言うように新太は早朝から布団を抜け出していた。

 起床後、すぐに布団をたたみ、押し入れの上段に仕舞う。寝巻から、真新しい白の単衣(ひとえ)に着替え、紺の袴を着ける。それらは靱負から支給されたものだった。袴の紐を結んだあとで、うーん、と軽く伸びをして、

 「さて、と」

 言って、まだ薄暗い部屋を見回した。

 この屋敷にやってきた日にあてがわれた客間が、そのまま新太の部屋になっていた。六畳間に、小さな文机(ふづくえ)がひとつ。その傍らに、故郷から持ってきた竹行李(たけごうり)と、木刀を包み込んだ刀袋が置かれている。

 何も変わらないその風景を毎日観察して、新太はいつものようにそこを出た。玄関へ向かう。

 式台に腰かけ、三和土(たたき)の隅に置いていた下駄を引っ張り出す。通常、二本歯の下駄と違い、それは修験者が履くような、一本歯下駄だった。もとは歯の高さが、九寸あったものが、二寸ほど擦り切れていた。それでもまだ先は長いな、とため息を零す。

 その下駄を見るたび、履くたびに新太は、それをヒナギから手渡されたときのことを鮮明に思い出すのだった。

 『この下駄の歯を、ひと月で擦り切らしてください。来月、新しい下駄をお渡ししますね』

 耳を疑った。ああ、これはきっと自分の聞き間違いだなと、思い、ヒナギの顔を見ると――当然できますよね、と言外に秘めた笑顔がそこにあった。

 これはヒナギが課した訓練なのだと理解したものの、それを承諾したら終わりだと自分の中のなにかが告げていて――でも、なにも言えなくて、その狂気の笑顔の前に、屈してしまったのだった。

 当初、一本歯下駄を履いて、朝な夕なに屋敷の周りを散歩してみたが、一向に擦り切れる気配がなかった。

 それで。

 毎朝、新聞配達員よろしく、街中を走ることに決めたのだった。それが習慣になった。

 靱負の屋敷は東京市四谷区(よつやく)の北、牛込区(うしごめく)と境を接する場所にある。そこを出て、陸軍士官学校の土地を左手に見ながら東に真っ直ぐ、お堀まで走る。その向こうが麹町区(こうじまちく)だか、対岸には渡らずに川沿いを南下するのだ。すると新宿に伸びる線路に当たる。それと並行する形で西に走り、兵営の角を北上して屋敷に帰る。そうすると、ほぼ、四谷区を一周する形になる。

 これが、しんどい。

 足腰に自信のあった新太だったが、足元が頼りない一本歯下駄ということもあって、当初はお堀まで来るのが精いっぱいだった。

 舗装されていない、土がむき出しになった道はまだいいが、たまに洒落たレンガや石敷があって、そこを下駄で駆けると、固い地面と下駄の歯がまともにぶつかる衝撃が直に伝わってきた。慣れない筋肉を使うせいか、両足の筋がじんと痛む。鼻緒が食い込んで、足の指の股が悲鳴をあげる。それでも新太はめげなかった。毎日、屋敷で顔を合わせるヒナギの、笑顔の圧力――もあるけれど。

 少しは秋らしくになった、早朝の街を新太は走る。

 途中、印半纏(しるしばんてん)を纏った新聞配達員や、天秤棒を担いだ、豆腐売りやイワシ売りとすれ違う。

 「お、今日も精が出るねぇ」そう言うのは顔なじみになって久しい、豆腐屋のおじさんだ。

 「新太ちゃん、気を付けてね」と、靱負の屋敷近くにある甘味処、()くら屋のおばあさんが声をかけてくれる。毎朝、一本歯下駄を履いてひた走る少年は、すっかり街の名物になっていた。

 涼しくなったとはいえ、線路まで来る頃にはさすがに汗だくになっている。しかし、もう少しだ、と思い、歯を食いしばって、額に浮かぶ汗をぬぐって、新太は走る。ひたすら走る。

 あと少しで――朝ごはん、だ。

 屋敷に帰り着いた頃には、へとへとになっていて――このまま布団を引っ張り出して、倒れ込みたい衝動にいつも駆られるが、朝ごはんが抜きになるのでこらえる。

 井戸で顔を洗って、足元の汚れを落とす。

 それから食事が用意されている居間に向かうのだが、すでに美味しそうな匂いが漂っており、新太の腹が派手に鳴った。広々とした居間に、二人分の膳。上座に靱負が座っており、いつも遅れて入ってくる新太を、心配そうな表情で迎えるのもすでに日課となっていた。

 「新太くん、無理はしていませんか……?」

 「大丈夫です。これくらい、斗南(となみ)っ子魂で平気です!」

 笑顔を作って、席に着く。

 今日の献立は、茸とサトイモの吹き寄せ味噌汁に、焼きイワシが一匹、冷や奴と、湯気の立つ白いご飯だった。唾が口の中にあふれる。

 屋敷の食事や洗濯といった家事は、通いのお手伝いさんである木曽野(きその)という女性が一手に行っていた。線の細い、どこか影のある中年女性だが、作ってくれる食事が――とにかく美味い。

 朝からこんな贅沢をしていいのだろうかといつも新太は思うのだが、箸は止まらず、膳の上は一瞬で無くなる。

 ご飯と味噌汁をおかわりしたい、のだが――それをしてしまうと、この後に待ち受けるヒナギとの訓練で悲惨なことになってしまうので、我慢する。涙と唾を呑み込んで、我慢する。

 膳を片付けて、新太は再び井戸へ。もちろん、どんなときでも一本歯下駄は忘れない。

 桶に水を汲んで、手ぬぐいを手に取って――敷地内に何故かある、道場に向かうのだった。

 靱負の屋敷は、広大だった。敷地面積は、優に千坪はあるだろう。

 コの字型に建つ、和風建設の母屋は客間を中心に部屋数は二十を超す。日本庭園にあるような池を湛え、桜の古木が枝を広げる中庭が見事で、それを両側から抱くような形で母屋が建っているため、部屋のどこからでもその庭を見ることが出来た。池を挟んで反対側に、商家にあるような蔵が数棟建っているのだが、道場はその更に奥に、ぽつんと建っていた。

 新太が道場に着いて、まず始めることは――掃除だった。そこまで広くはないとはいえ、ひとりで掃除するには骨が折れる。今日も、床板の拭き掃除が終わらないうちに、

 「おはようございます」

 入り口で一礼して、ヒナギが道場に入ってきた。掃除が途中なのを見ると、黙って袖をたすきに掛けて、手伝ってくれる。こうして二人で掃除をするわけなのだが――ふとした瞬間や、すれ違うとき、ヒナギから良い匂いがして、新太は集中できなくなる。

 普段は煌びやかな羽織と袴姿だが、道場に来るヒナギは、質素な道着で――でも、それがまた新鮮で、新太は掃除の手を止めてつい、盗み見てしまう。

 この瞬間が、新太にとって至福なときで。

 掃除が終わって、いざ訓練が始まると――地獄だった。正直、朝の四谷区一周のほうが何倍もましと思えるほどだ。

 父、太一郎(たいちろう)からは剣術以外にも柔術や水練など教わり、武道もそれなりに自信はある新太だったが、ここに来てそれも見事にへし折られた。

 ヒナギと向かい合う。互いに一礼して――視界から、ぱっとヒナギが消える。

 消えたと思ったら、投げられていて。

 遅れて背中に痛みがやってくる。受け身など、取る余裕はない。

 昼近くまで、これが延々と続けられるのだ。

 最初は打ち身だらけになった新太だったが、二週間経って、十回、いや二十回に一度くらいは受け身が取れるようになってきた。

 それでも、投げられていることには変わりはない。当然、ヒナギに反撃することなどできない。その動きを目で追うことすら叶わないのだ。

 気付いたら、投げられている。天井を見ている。今では、道場の小さなシミの位置まで、目を閉じても浮かんでくるくらいだ。

 鍛錬が終わる頃には、道場の床に大の字になって動けなくなる新太に対し、ヒナギは呼吸ひとつ乱していない。その細い身体のどこにそんな力があるのか、心底不思議に思う。

 「大丈夫ですか?」

 ひょい、と。

 ヒナギが覗き込んでくる。

 「は、はい――」新太が慌てて身体を起こそうとして――背中の痛みに顔を顰める。「痛って……」

 「だいぶ受け身が取れるようになってきましたね」ヒナギが優しい声で言う。「わたしたちは人ではない存在に立ち向かわないといけません。その攻撃は、思わないところから、不意に襲ってきます。まずは、自分の身を守れるようになってください」

 「はい、ありがとうございます」

 新太がやっとのことで上体を起こして頷いた。ヒナギは笑ってくれた。

 「また、明日、頑張りましょう」

 そう言って、ヒナギは道場から出ていく。小さな後ろ姿を見送って――新太はたまらず道場の床に倒れ込んだ。身体中が、悲鳴を上げていた。腕を少しでも動かしただけで、痛い。

 開け放たれた窓から、風が入ってきて、汗だらけの身体に涼を届けてくれた。

 「ふぅ――」ぼんやりと、ヒナギのことを考えて。

 しかし、ゆっくりはしていられない、と新太は気合を入れて、立ち上がった。

 このあと、軽い昼食を挟んで、座学が待っている。


 新太が雪見障子(ゆきみしょうじ)を開けると、座卓を前にして腕を組んでいた男が、ぎろっと睨んだ。

 「遅い!」

 と、一喝。慌てて障子を閉め、新太は男の正面に敷かれていた座布団の上に正座をした。

 その男は、キツネの勿忘神(わすれがみ)に襲われたあの日、気絶した男の子に向かって、笑顔で筆を振り回すという奇態を演じた人物だった。名を、玉虫染二(たまむし そめじ)という。

 新太は、この玉虫から勿忘神や、その鎮め方など、華紋師として必要な知識を教わることになったのだ。

 「いいか、この前の続きだ。魂は、『呪紋(しゅもん)』ってもんで出来ている。それは勿忘神、付喪神(つくもがみ)、オレたち人間を問わず、魂を持ってるやつは、ぜんぶ、そうだ。オレたち華紋師は、勿忘神の魂からずばっと『呪紋』を切り取って、それを、ぐわっと練ってできた『華紋』を、どかっとやつらに張り付けて、それで封印する」

 玉虫の性格を、一言で表せば豪放磊落。さらに言えば粗野で、粗雑――つまり、先生役には向いていない。特に、華紋師の世界に足を踏み入れたばかりの新太にとって、玉虫の豪快な説明では、ほとんど理解ができなかった。

 靱負が先生なら――あの、長広舌と難解な話し方はやっかいだが、玉虫よりずっと分かりやすいのでは、と思ってしまう。

 それでも。

 この二週間、午後からの眠気を堪え、それに負けてしまったときの玉虫の鉄拳制裁を耐えしのび、なんとか新太が理解し得たのは以下のことだった。

 いわゆる魂――と、一般で言われているモノは、『呪紋』と、それを包む『霊殻(れいかく)』で構成されている。

 『呪紋』とは、魂の持ち主の、喜怒哀楽といった感情、五つの感覚、五つの欲を司る――心そのものであると言っていい。しかし、それはとてつもなく脆弱で、夏の日の水たまりのように消えやすいのだという。

 心を水に例えるのは、武道や禅によくあるが――それが本当なら、由々しきことだ。

 それを防ぐのが『霊殻』で、『呪紋』を入れる容器、あるいは外殻である。人間などはさらにその外側に強力な殻――肉体を持ち、『呪紋』を守っている。

 それでも、水が蒸発するように、『呪紋』は肉体の外へ少しずつ漏れていく。それを、古くは『()』と言い、西洋では『オーラ』と呼ぶのだそうだ。生物は肉体活動を通して生まれる欲や感情などから、己の魂に常に『呪紋』を供給しているので、少し減ったところでそれが消えてしまう心配はない。

 一方、付喪神や勿忘神の場合。

 元はただの物でしかない器物に、魂が宿る過程は少し複雑だ。

 器物が人の手によって大切に扱われる中で、使う人間が発散した『気』が溶け込んでいく。それらは人が持つ『呪紋』の一部と言ってよく、長い年月をかけて移り、蓄積し、器物自身の『呪紋』になる。それが毀れないように『霊殻』が出来る。精神が発生し、自我が芽生える。

 それが付喪神だ。

 彼らは肉体を持たないために、『霊殻』を自らの身体に作り替えるのだという。新太が見た、七曜の蛇の頭や、キツネの形をしたものがそれだと、玉虫は言っていた。

 しかし『霊殻』だけの受け皿しか持たないため、付喪神の『呪紋』は無くなりやすい。たえず人から『気』を貰わないと、自我が保てないのだ。

 それが絶たれた状態が――勿忘神である。

 空っぽになった『霊殻』を引きずり、自我を失くして暴れまわる。元の姿を忘れてしまったがゆえに、勿忘神と呼ばれる存在を鎮めるためには、彼らに――思い出してもらえばいい。

 空になったとはいえ勿忘神の『霊殻』には『呪紋』の残滓があるとされる。華紋師は、それぞれが連れている付喪神と協力して、『霊殻』を切り取り、それを材料に、かつて勿忘神を満たしていた『呪紋』を練り上るのだ。

 それを『華紋』――と、呼ぶ。

 練り上げられた『呪紋』が、勿忘神に届くとき、花が開いて、咲く――そこから『華紋』と号され、それを使って勿忘神を鎮める役職を華紋師と呼んだ。

 そんなことを、頭の中でまとめるのに夢中で、

 「おい、聞いているのか⁉」

 玉虫の不機嫌そうな声に、我に返った。まずい、げんこつが飛んでくる。新太は連続で二回、頷いて、自分がしっかりと起きて、授業を真面目に聞いていることを全身で主張した。

 玉虫は疑うような視線を数秒、新太に向けて、

 「……まぁ、こんな座学じゃあ、教えることも十分に伝わらんよなぁ」

 座卓の横に積まれている本を、つまらなさそうにパラパラとめくった。

 ちなみ座学で使っているこの部屋は、新太が初めて靱負と会った場所だ。床の間の違い棚には七曜(しちよう)が居て――なので、通称『七曜の間』と呼んでいる。靱負の書斎なのか、座卓と座椅子があり、その周りには所狭しと本が積まれていた。縁側に面した雪見障子を開けると、中庭の桜が目に飛び込んでくる。春にはさぞ、見事な眺めになるだろう。

 玉虫は座椅子に背をあずけながら、

 「実戦の中で教える方がいいと思うんだよなぁ。習うより慣れろ、って昔から言うし、おまえも身体がなまっちまうだろ」

 「え――そ、そうですね」

 「ここんとこ、凶暴な勿忘神ばっかりなんだが、いつか新太でも怪我しないような、手ごろな奴が出たら、一緒に行こう。目の前で華紋師の仕事を教えてやるからな」

 言って、豪快に笑った。

 あれ、この人は意外と――そう、新太は思う。二週間、顔を突き合わせていたおかげで分かるようになってきたが、玉虫という男はかなり面倒見が良いようだった。頼れる兄貴分というか、先輩というか。

 そう感じて――おそらくだが、玉虫を先生役にした靱負の意図が分かった気がした。

 教え方が雑でも、それを包み込むような温かさが玉虫にある。

 それと。

 この屋敷には、華紋師はヒナギと玉虫しかいない。新太がこの二人と均等に会って教えを受けることで、仲間意識や協調性を育もうとしたのではないだろうか。

 「なんか腹減ったよなぁ。……木曽野さんは、今時分、買い出しだっけか。ちょいと、台所に何かないか見てくるかな。新太も、どうだ?」

 一緒にいたずらをしないかと誘うように、玉虫がにやりと笑みを浮かべる。

 言われて――新太の腹が鳴った。昼は、朝の残りの飯を茶漬けにしたものと、佃煮だけだったのだ。

 今度も素早く二回、頷いた。こっちは本心だった。

 かくして――食い意地の張った男と、食べ盛りの男の、共同戦線が成立したわけであるが。

 玉虫が障子を開けた瞬間、そこにヒナギが立っていた。道着から、いつもの羽織袴に着替えている。

 「どこに行くつもりですか、玉虫さん?」

 「へ? は、いや――ああ、そうだ、ちょいと、(かわや)に行こうと思ってな……」

 笑顔で訊いてくるヒナギに、玉虫はしどろもどろになる。目に見えて動揺している姿に、新太は自分も共犯だということも忘れて、つい吹き出してしまう。

 「そうですか。新太くんと一緒に。仲がいいんですね」

 ヒナギの追撃は止まない。

 ぎくり、と玉虫の肩が震えた。ヒナギから顔を背けて、小声で、「くそっ、七曜のやつが四鸞(しらん)に言いやがったな」と呟いたのが聞こえた。

 「(たま)ちゃん、違うよぉ。お仕事の連絡が入ったの。それでヒナちゃんが呼びに来たんだからっ」

 いつか聞いた、女の子の声がした。舌っ足らずな声の主は、任務のときにヒナギが連れている付喪神だった。名を、四鸞という。小ぶりな墨壺(すみつぼ)の付喪神で、表面に(らん)という中国の伝説上の美しい鳥が彫りこまれている一品だった。

 ヒナギが四鸞のあとを拾う。

 「そういうわけです。牛込区で、勿忘神が発生しました。わたしと玉虫さんで向かいます。それで、座学は中止とお伝えに来たのですが――その必要はなかったですね。二人で、悪だくみの相談ですか?」

 「いや、悪だくみなんてそんな……ああ、そう、仕事だったな。用意してくる!」

 言って、猫が身体をしならせるような素早さで、七曜の間から玉虫がするりと出ていく。

 見捨てられた――そう気付くのと、ヒナギが新太に視線を移すのが同時だった。今度は新太の肩が震えた。

 「新太くん、座学は中止ですので、今日は自主訓練に切り替えてください」

 一本歯下駄を使った、筋力と体幹訓練。素早くそれを指示する。新太が頷いたのを確認してから、襖を閉める――間際、

 「くれぐれも、盗み食いはしちゃダメですよ」

 笑顔で言い置いて、ヒナギは去っていく。

 どきり、と心臓が跳ねた。バレてる。

 違い棚の上で、新太を笑うように、七曜がことりと踊った。


 夕食までの間、新太は庭に出て、筋力訓練に励むことになった。

 一本歯下駄を履いて、腰を落とす――たったそれだけの、はた目から見たらかなり地味な訓練だが、当の新太の額には開始すぐに汗が浮かんだ。太腿が震え、歯を食いしばる。体勢が崩れそうになるのを、防ぐためにお腹の筋力をかなり使う。

 小一時間それに耐え、足の感覚が無くなったあと――木刀の素振り千回。それから、朝と同じように走り込みを行うのだ。別にそこまでせずともいいのだが、少しでも下駄の歯をすり減らそうとの考えだった。

 すでに夕暮れ。

 へとへと――を通り越して、ぼろぼろになって新太が屋敷に戻ると、ヒナギと玉虫も仕事を終えて帰って来ていた。

 「……おまえ、大丈夫か⁉」

 新太を見るなり、玉虫が顔を引きつらせて言った。新太は玄関に寄りかかりながら、

 「平気っす。晩ごはん、……食べるまで――死ねません」

 「お、おう。そうか」

 老人のような擦り切れた声と、食べ物に対する執念に、玉虫が気圧されて息を飲み込む。そこへ。

 「向坂(さきさか)くん、玉虫くん、お疲れさまでした」

 屋敷の奥から、靱負が姿を現す。

 「新太くんもお疲れさまです。夕餉の用意が出来ています。今日は、みなさんでお膳を囲めそうですね」

 このとき、新太には靱負が神様に見えていた。

 さっそく手と顔を洗い――朝と同じ居間に行く。とっくに玉虫が座っていて、しかし、新太のことなど一顧だにせず、その眼は膳に注がれていた。栗ご飯に、とき玉子が入ったすまし汁。茄子のお浸し、焼魚、そして梨。秋の甘い匂いに誘われて、新太も膳の上にくぎ付けとなった。

 靱負が音もなく部屋に入ってきて、最後にヒナギが玉虫の向かいに座った。

 「いただきますっ」満を持して、新太が手を合わせる。

 木曽野さんが作る食事はやはり最高で――気が付いたら、ご飯を三杯も平らげていた。隣に座る玉虫が、新太の魚を狙って箸を伸ばしてくるのを必死に防御しながら、であるが。

 「いやぁ、ごっそさんでした。相変わらず、木曽野さんはいい仕事しますねぇ」

 パン、と手を合わせて――玉虫が感激の声を上げた。

 「伝えておきます。栗ご飯、まだあるそうなので、よかったら持って行ってください」

 「ほんとっすか。ありがてぇ」

 子供のようにはしゃぐ玉虫に、靱負は笑みを零す。それから、湯飲みを両手で包み込むようにしていたヒナギの方を見やって、

 「向坂くんも、よかったら。養育院の子たちの分も用意していますからね」

 「ありがとうございます。いつも、すみません」

 ヒナギが深々と、頭を下げた。

 このあと、膳を片付けて――帰るヒナギと玉虫を見送った。

 二人は靱負の屋敷から少し離れたところにそれぞれ部屋を借りていて、そこから通っているのだ。屋敷には使っていない部屋が沢山あるのだから、ここにみんなで住めばいいのに、と新太は思うのだが――まぁ、いろいろと事情もあるのだろう。

 玉虫はお重を包んだ風呂敷を提げ、

 「んじゃ、新太。また明日な」

 新太の肩を小突いて、下駄をつっかける。二本歯で鼻緒が赤い、派手な下駄だ。

 その横で、ヒナギがブーツを履いている。それが終わると、靱負から大きな風呂敷包みを受け取った。それを大切そうに胸に抱いて、

 「新太くん、明日も鍛錬がありますから、しっかり休んでくださいね」

 笑ってくれる。嬉しいような――しかし、明日のことを考えると憂鬱になる。新太がどんよりと肩を落とす傍らで、先ほどから玉虫がヒナギの様子を伺っていた。声をかけようか、少しためらったあと、

 「……ヒ、ヒナギ、夜道の独り歩きは危ねぇし、ちょうど通り道だし、仕方ねぇから、オレが送ってやってもいいが――」

 「大丈夫です」

 即答、かつ、一刀両断。

 ヒナギはにこりと笑うと、靱負に会釈をして屋敷をあとにする。

 なにか見てはいけないものを見てしまった後ろめたさから、新太は声を発することができず――玉虫は、しばらく呆然としたあと、肩を落としてトボトボと帰っていった。

 「言い方、ですよね……」

 靱負がぽつりと零す。

 「さ、さてと――新太くん、お風呂にしますか、それとも……」

 「じゃあ、お、お風呂で」

 動揺していたのは、靱負も同じようだった。思わず、新婚夫婦のような会話が発生して、結果的に今日は家主より先にお湯をいただくことになってしまった。

 蔵に道場、そして当然のように内風呂があるこの屋敷にも慣れた。お湯に浸かって、伸びをすると一日の疲れがふっとぶようで。蕩けてしまうようで。

 また明日も頑張ろうという気が――少し、出た。

 風呂から上がるころ、新太の目蓋は限界で――部屋に戻って、押し入れから布団を引っ張り出すと、ばったり倒れこんだ。瞬間、意識が無くなって。

 こうして――新太の長い一日は終わる。

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