第二話 勿忘神
「うわぁぁぁぁぁぁぁ――」
がばっと、掛けられていた布団を跳ね飛ばす勢いで、新太は身を起こした。
あわてて、額に手を当てる。大丈夫だ、なんともない。
それにしても――ひどい夢だった。トカゲの顔が、しばらく頭から離れそうもなかった。
「ふぅ――」
ため息のように大きな深呼吸をすると、少しは落ち着いた。
そこで。
新太は自分がいま、見知らぬ部屋にいることに気が付いた。半身を起こしたままで、周囲を観察する。
薄暗い。隅のほうで、行灯が頼りなげな明かりを灯している。ほんのりと、新しい畳の匂いがした。
「……ここは」
呟いた自分の声が、やけに大きく聞こえて、新太はどきりとなる。
ここは、静かだった。
ゆっくりと立ち上がろうとする。衣擦れの音がして――新太は自分に毛布が掛けられていたことを知った。それに、ちゃんと敷布団の上に寝かされていたようだった。誰だか分からないが、その人に感謝をして、新太は布団を綺麗にたたんだ。
「――ほう、薄汚い子供かと思ったが、なかなかどうして、礼儀を知っているな」
「――⁉」
しわがれた、老人の声だった。
新太は驚いて、周囲を見渡す。誰もいないと思っていたこの部屋に誰かいる。
「どうした、吾を探しているのか?」
今度ははっきりと――正面から、聞こえた。
新太は目を凝らす。そこには背の低い座卓と、それよりなおうず高く積まれた和洋混淆の書籍。その奥に、ぼんやりと違い棚が見えた。だが、老人の姿はない。
もしかしたら、棚の影に隠れているのかも、と考え、そちらの方に新太が近づいたとき、
「うっ――」
めまいがした。
危うく倒れそうになって、なんとか耐える。手を額に当てる。ズキズキと、眉間の奥が痛んだ。しばらくそうしていると、次第にめまいは収まった。
「無理をするな。まだ、病み上がりだろうに」
新太は顔を上げる。そして――ぎょっとした。
違い棚の上、陶器や花器が並ぶそこに、握りこぶし大の壺が置かれている。なんの変哲もない壺だったが、ただ一点。蓋がわずかに傾き、にゅっと蛇が鎌首を持ち上げていたのだ。
しゃべる、蛇。
ふつうならその時点で逃げ出していただろうが、新太は今日一日で奇妙な体験をしこたま経験させられた。その成果か、新太はその蛇に恐怖を抱くより、興味を覚えた。
座卓の横を回り、違い棚の前までやってくると――蛇の頭が出ている壺をしげしげと眺めた。木製の、小汚い墨壺だった。黒ずんだ表面になにやら彫刻が施されているようだが、あいにくこの暗さでは判然としない。触ってみれば分かるかもしれない、と思って、手を伸ばし――
「汚い手で触るでない、坊主!」
怒られた。
「少しは礼儀を知っていると思ったが、前言撤回じゃ。ひとに相対しておきながら、名乗りもせん、頭も下げん、ましてや汚い手を伸ばしてこようなど、言語道断だわ。この野猿、ちんちくりん」
墨壺が、ごとごとと揺れる。身体で怒りを表現しているようだ。
たしかに、いきなり手を伸ばしたのは悪かったかもしれないが――それでも、野猿や、ちんちくりんは言い過ぎだろう。言われているうちに、新太も腹が立ってきた。そして、思わず、
「そっちも十分に汚い格好して、ひとのこと言う資格なんてないぞ!」
新太が声を荒げるのと、すうっと襖があいて、部屋に和服姿の男性が入ってくるのが同時だった。
紺の着物に、銀鼠の帯。背中までかかる黒髪と、反対に白い、驚くほど整った顔立ちは、一瞬、女性と見間違うほどだった。
新太と目が合い、白足袋を履いたその足がぴたりと止まる。
気まずい空気が流れる。
「……元気になったようですね。立柴新太くん」
微かに口元を緩めて、和服の男性が言った。新太は恥ずかしさと、どことなく高貴な印象を纏うこの人物に、何と返していいかわからず、頭の中がまっしろになる。そして、ついつい、
「え、俺の名前、……どうして?」
ずいぶん間の抜けた訊き方になった。おまけに失礼な物言いだった。それに気付いて新太の顔は赤くなる。しかし、男性はそれに頓着することもなく、穏やかな表情のまま、片手を伸ばした。部屋の隅、押し入れの辺りを指し示す。
そこには見慣れたー竹行李と、刀袋があった。
まさかと思って、新太が確認しに行くと――やはり、紛うことなき自分の物だった。
「荷物はすべて運び入れておきました。勝手に見るつもりはなかったのですが、ただ――」
男性が言い淀む。長方形の竹行李の側面に、でかでかと『立柴あらた』と墨書してある。東京に出るにあたり、紛失した場合に備えて、新太が書いたものだった。あのときは、すごくいい思いつきに思えたのだが、こうしていざ他人の目に触れてみると――
とてつもなく、恥ずかしい。新太は顔を赤くして俯く。
「立ち話もなんですから、どうぞ座ってください」
座卓に置かれていた石油ランプをいじりながら、男性が、押し入れの前で棒立ちになっていた新太に声をかける。ランプに火が入ると――ふわっと、闇が払われるように部屋全体が明るくなった。自身も座椅子に腰かけて、その対面の座布団を新太に勧める。
新太は小さくなりながら、その座布団に座り、
「あ、あのっ……助けてくれて、ありがとうございました。布団まで貸してもらって」
「いえいえ、気にしないでください。今度のことでは新太くんを巻き込んでしまったわけですから」
男性が、静かな口調で言う。
「申し遅れました。私は、この屋敷の主で、双槻靱負と申します」
なみつき、という聞きなれない苗字。屋敷の主と、はっきり言った男性に、新太は威圧されながらも、
「俺は、……自分は、立柴新太といいます。今日、青森から東京にやって来たばかりで――」
たどたどしい自己紹介になった。名前と、出身しか言えない事実に、自分がまだ何者にもなっておらず、身ひとつで東京にいるのだと、改めて気付かされる思いだった。
不安が、じわりと胸に広がる。
「ほう、青森ですか。それは遠い所から、ご苦労なことです。……ご家族がこちらにいらっしゃるのですか?」
和服の男性――靱負が尋ねる。威厳を感じさせる風体に対して、口調はどこまでも穏やかだった。その面立ちのためか、年下の新太に敬語を使うせいか――新太の緊張感は次第にほぐれていった。
新太は自分が住んでいたー斗南の話、父、太一郎が亡くなったときのこと、そして家伝の刀が東京にあると知って、居ても立ってもいられなくなり、探しに来たことを語った。
靱負は、新太の父親が亡くなったと聞いて気の毒そうな顔になり、家伝の刀のくだりになると興味深そうに、頷きながら、その話を聞いていた。
「今日も、浅草を回ってみたんですが、見つからなくって。……まぁ、刀探すにも先立つものが必要だし、先に仕事を見つけないと、なんですけどね」
新太が頭を掻きながら、そう言って――靱負の方を見て、ぎょっとした。
じっと、真剣な目を靱負は新太に向けていた。何かを考えているように、顎に、細い指を添えている。しばらく黙考、そして。
「……差し出がましいようですが、実は新太くんに紹介したい仕事があるのです」
なにか、重大な秘密を打ち明けるように、靱負は切り出した。
「給金も、多くはないですが出しますし、住むところも保証します」
深刻そうな話し方とは裏腹に――それは新太にとってまさに好条件だった。いきなりの話で面食らったが、内容がすとんと胸に落ちてくると、
「やります! なんでも。ぜひ、お願い――ごほっ」
新太は叫んでいた。勢い込みすぎて、むせた。
その様子に、靱負は少し笑って。
「まぁ、そんなに慌てないでください。その仕事なのですが、……ひとつ問題があります」
「え?」
新太が眉を寄せると、靱負は再び深刻そうな顔になる。
「……危険、なのです。下手をしたら、命に係わることもあります」
そう言われて――新太が考えたのは、兵隊だった。先だって、清国と大きな戦争があったばかりだ。大陸の領土をめぐって、ロシアやドイツと衝突しているとも聞いた。そんな情勢下で、日本を守る兵士はいくらでもいるだろう。しかし――と新太は思う。父親から教えてもらった剣技を、人に向けたくない、という抵抗感があった。
そんな新太をしばらくじっと見つめて、
「少し、お話をしましょうか」
靱負は優しく声をかける。
「新太くんが今日、代々幡村の外れで遭遇した――事件。あれは、なんだったと思いますか?」
「――は?」
急に話が飛んで、思考がついていけない。事件、と靱負は言った。思い出す。崩れそうな鳥居から、子供を助けて――そして、キツネの化け物に襲われた。
だけど、化け物を見たというと、靱負に笑われそうで、
「えっと、……野犬……に襲われました」
「野犬、ですか。ほんとうに、そうでしたか? 新太くんにはあれが、化け物に見えませんでしたか?」
当の靱負が化け物という言葉を使い――新太はぽかんとする。
靱負は構わずに続ける。
「あれは野犬ではありません。どこの世界に、身の丈が十メートルを超す野犬がいるでしょうか。おまけに、自由自在に姿を消すことができる。いえ、待ってください。そういえば、物の本で読んだのですが、英国のロンドン、ニューゲート監獄にはブラックドックという姿が見えない犬の亡霊がいると――」
次第に活き活きとしだす靱負を、新太は唖然として見つめる。
座卓の横に積まれている洋書を手に取り――しかし、話が脱線していることに靱負が気付いて、ごほんとひとつ咳払い。
「失礼」
洋書をもとに戻す。
「……新太くんを襲った獣、あれはこの世のものではありません。勿忘神と、私たちは呼んでいます」
「わすれ、……がみ?」
新太はその言葉を慎重に口に出した。
頭の中で忘れ神、という字に変換されて――しかし、そこまでだった。それがどんなモノなのか、まったく想像ができない。
靱負は、大きく頷いた。
「新太くんは、器物が百年の歳を得て、物の怪になるという話を聞いたことはありませんか?」
「……はい。たしか、やくも……いや、つくも神になるとか」
「そうです。器物に精が宿り、付喪神になります。さきほど、新太くんが喧嘩をしていた、墨壺。彼は七曜という名の付喪神です」
さらり、と。
とんでもないことを靱負は告げた。
新太が驚いて違い棚の方を見ると、蛇の頭は消えており、ただ変哲のない壺があるばかりだった。ごとり――と、まるで返事をするかのように、その壺がひとりでに動く。
「人から大切にされ、愛情を込められた品は、付喪神と呼ばれる存在になる。しかし、反対に――」
ふっ、と靱負の顔が曇る。
「人からぞんざいに扱われ、傷ついた付喪神は、人を呪い、殺めます。忘れ去られ、自らの存在価値を無くした器物が、精を宿し転じるモノ。それが、勿忘神です」
真っ直ぐ、靱負は新太を見て話す。
「勿忘神は、人に怨みを抱くゆえ、見境なしに人を襲います。私たちは、その勿忘神から人々を守る、華紋師を生業としているのです」
靱負が語り終えた。
しかし。
それはあまりに現実離れした話で、新太は頭がくらくらするのを感じた。はっきりと言って、理解ができない。
「……えっと、そんな……今は文明開化の時代ですよ。講談や、お芝居の世界じゃあるまいし」
笑って、言った。しかし、心のどこかで否定できない自分もいた。たしかに、物の怪と言われても納得してしまう現象に新太は今日、遭ったのだ。
そんな新太に、靱負はひとこと、
「信じられませんか」
「あ、いや……」
新太は口ごもった。
「試すようなことを言って、申し訳ありません。たしかに、このような話を急にしても、理解が追いつかないと思います。しかし、真実を有体に言ってしまえば――この世ならざる存在は、あります」
決然と。靱負が、新太を真っ直ぐ見て、強く言った。
「新太くんの言う通り、この明治は文明開化の時代です。ただ、それ故に、勿忘神の災禍を引き起こしてしまうと言っても、過言ではありません」
「……え?」
「欧米文化の急激な流入です。日本に今まで見たこともないような物が入ってくると、人々は争ってそれを手に入れようとする。この東京がそうです。物があふれ、生活や人心が豊かになることはいいのですが、……人は、昔からある、物を大切にするという心を忘れていきました」
まるで学校の先生が生徒に、教え諭すような口調だった。
「八百万の神という概念は正しいと、私は思っています。物にはモノが宿る。しかし明治の世は、仏を捨て、社をつぶして、近代的な街をつくることに血道を上げています。科学が最上だという慢心は、我々の祖先が抱いていた鬼神への恐怖を麻痺させるのです」
微かではあるが、憤りを感じさせる口調だった。ぴりっとした感覚に、新太は思わず唾を飲み込んだ。
「今まで大切に扱われていた器物が、ただ古いものだからと捨てられる。邪魔だからという理由で排除される。勿忘神は、人がつくり出しているのです。……勿忘神の災禍によって、傷つき、命を落とす人がいるのもまた、文明開化の側面なのですよ」
靱負の話が終わり、辺りは静寂に包まれた。
どこかで、犬の鳴き声が聞こえた。
新太は部屋の、雪見障子を見る。そこに張られたガラスは、いまは黒々とした闇を映すばかりだった。また、犬の声。あれは――本物の犬だろうか。
ふと新太は、山犬のような化け物が人に飛び掛かる場面を想像して、ぶるっと身震いをした。
人を襲うような異形の存在が、薄い壁を挟んだだけの、すぐ向こう側にいるような不安、恐怖。
「なんとかしないと……それで、傷つく人がいるなら、助けないと」
思わず、新太は靱負の方に身を乗り出していた。困った人は助ける。新太の純粋な正義感、悪く言えば思ったことをすぐ行動にしてしまう、直情的な性格を微笑ましく見守るように、靱負は目を細めて、ひとつ頷いた。
「だから、私たち華紋師がいるのですよ、新太くん」
華紋師。勿忘神から人を守る存在だ、と靱負が言っていたことを思い出す。己を突き動かしていた不安や恐怖が和らぎ、新太はぽすんと、座布団に座り直した。
「じゃあ、勿忘神を……退治できるんですね」
「退治というと、語弊があります。たしかに、私たちも力で相対せねば、襲い掛かってくる勿忘神から人々を守ることなどできません。しかし、華紋師は勿忘神を殺すのでなく、鎮めることが目的なのです」
ゆらりと、風もないのに石油ランプの灯が揺れた。その動きが、一瞬、靱負の顔に影を作る。
新太に向けられていた、その眼を少し伏せる。
「新太くん……」
珍しく、靱負が言い淀んだ。しかし、それも一瞬のことで、
「……新太くんがよければ、私たちの仲間になりませんか? もちろん、命がけの役目ですので、無理強いするつもりはありません」
「え――」
靱負が言った言葉を、新太が理解するまで時間がかかった。靱負が紹介すると言った仕事はこのことだったのだ、とまずひとつ腑に落ちる。そのうえで。
新太は、靱負から天井の方に、視線を移動させた。考える。想像する。
仲間になる、ということはつまり、自分も華紋師とやらになる、ということで、それはつまり今日のような化け物と戦うということで――
「ちょ、ちょっと待ってください。そんな、化け物と戦うなんて、俺……。第一、なんで俺なんですか⁉」
「新太くんは、勿忘神を見ることができる――からです」
慌て、混乱する新太に対して、靱負はあくまでも、ゆっくりと説明した。
「見る、ことができる?」
靱負が頷いた。
「勿忘神や付喪神は、彼岸の存在です。我々とは住む世界が違うため、多くの人は、その姿を見ることができません。新太くんのように、それが出来る、見る力を持つ人間はごくごく僅かなのです」
「そう……なんですか」
相槌を打ってみたが、ぎこちないものになった。
「でも、俺……、勿忘神なんて初めて見ましたよ。いままでだって、幽霊とか妖怪とか……会ったことないし」
そんな自分に、見る力なんてあるのだろうか、という疑問。
靱負は、指を顎に当てて考える。どうやらそれが、黙考するときの、彼の癖のようだった。ややあって、
「……おそらくですが、新太くんがいた斗南という土地は、物を大事にする方が多かったのではないでしょうか。そういう土地には、勿忘神は発生しません。代わりに、付喪神が生まれやすいですが、彼らは普段、人の目から隠れようとするものです。中には、そうでない付喪神もいますが――」
靱負が、違い棚の方へちらりと視線を送る。
壺は、微動だにしなかった。靱負が苦笑する。
「物を、大事にする土地」
新太が独り言のように、呟く。
言われてみればそうだ。物を大切にという教えは、新太が生まれた時から身体に染み付いた考え方だった。それというのも――実家は、日々の食べ物に困るくらいの貧乏なのだ。
食器や着物にしたって、日ごろから丁寧に使う。壊れたら捨てずに、直す。
それが当たり前の生活を送る人々には、ぞんざいに扱われたことで人を恨む勿忘神とは無縁なのだろう。
「勿忘神を見る力は、それと戦う華紋師にとって絶対の条件です。新太くんには素質があると思います。それと、ですね――」
靱負はその細い指で、ぽりぽりと頬を掻いた。
「実は――新太くんを推薦する人がいるのですよ」
「え、……す、推薦――?」
「新太くんにお礼をしたいと言っていますし、彼女をこの場に呼んでもいいですか?」
状況をつかめないまま、新太はとりあえず頷いた。靱負は少し笑って、
「七曜。四鸞に伝えて、向坂くんをここへ呼んでください」
今度はその言葉に応えるように、違い棚の上の壺がことりと揺れた。
しばらくして。
「失礼します」
透き通った女性の声がして、縁側に面した雪見障子が、静かに開かれた。そこから覗く闇を追い払うような、赤や黄の紅葉紋を散らした、煌びやかな羽織。まずそれが視界に入る。
そして――その顔には見覚えがあった。今日、稲荷神社で、キツネから助けてくれた人だった。扇子を持って、舞うように戦った人だった。
羽織を纏った女性は靱負に一礼したあと、新太の斜め横に正座をした。
「華紋師の、向坂ヒナギです」
言って、にこりと笑った。
「…………」
「……どうかしましたか?」
声をかけられて、新太は、はっと我に返る。思わず――見惚れていた。
なんというか、その――
「その……、すごく綺麗な人だなって驚いちゃって」
心の声が、出た。
新太の正直すぎる反応に、ヒナギが虚を突かれたように目を丸くした。そして、何も言わずに微笑んだ。
「す……すす、すみません、つい」
ついじゃないだろ、恥ずかしい。新太が耳まで赤くして、俯く。
そこに、
「わかります。確かに綺麗ですね」
思わぬ援護射撃が、靱負の口から飛び出た。新太ばかりではなく、ヒナギも驚いたように、靱負を見る。当の靱負は真面目な顔をして、
「向坂くんの羽織は、いつ見ても綺麗です」
え、羽織? 羽織……ってぇ、そっちか!
新太が突っ込みを入れる。心の中で。当然、それが聞こえるわけもなく、靱負が嬉々として話を続ける。
「向坂くんは、手妻師をやっていたのです。派手な羽織や扇子は仕事道具でもあるのですよ。手妻、または和妻とも言うのですが、江戸で開花した、日本の奇術のことですね。手の平を稲妻のように素早く動かすことから、手妻と呼ばれています。少し前になりますが、パリの万博で――」
「靱負さま」
空気が、一瞬で冷えた。
口元には笑みが浮かんでいるというのに、ヒナギが発したその声に、新太の背筋は凍りついた。
「お話が長くなりますので、そのあたりで」
「あ、ああ……申し訳ない。つい、悪い癖が出てしまいました」
有無を言わせない迫力に、流石の靱負も目が泳いだ。
ヒナギが新太の方に向き直る。
「新太くん」
「はひっ――」
声が、派手に上ずった。
「……今日の勿忘神襲撃のとき、子供を助けてくれて、ありがとうございました」
言って、頭を下げるヒナギ。突然のことで、新太は慌てて、
「いや、そんな……いや、当然のことをしたまでというか……父さんの、言いつけを守ったというか、……人を助けるのは当たり前だし」
しどろもどろになる。そんな新太に優しい表情をみせて、ヒナギはぽつりと、
「武術かなにかを、やっていましたか?」
「え――っと、はい。父さんが、剣の腕が立つ人で、それで……俺も、七歳くらいになってから、父さんに鍛えられた、んですけど」
新太の答えに、ヒナギは、そうですか、と目を細めた。
「わたしが神社に到着したとき、新太くんは勿忘神に向かって木刀を振るうところでした。しかし、勿忘神がいきなり姿を消したことで、それが空振りに終わってしまう。普通なら、頭が真っ白になってもおかしくない場面です。しかし、新太くんは冷静でした。後ろに現れた勿忘神を、いち早く、感覚でとらえていたように見えました」
そうだったろうか、と新太は思い出そうとする。あのとき、キツネが消えて、立ち現れる瞬間。ぴりっと背中を伝わる電流のような感覚がよみがえった。
「勘が鋭いのだと思います。武芸者が持つ、肌感覚と似たものを、新太くんは持っています。それは――この世ならざる存在、勿忘神に対する、武器になります。ただ、それに引っ張られて、身体や技術の方が追い付いていないようでしたけど」
これは、褒められているのだろうか。褒めてくれているのだろうか。そう思ったら、じわじわと、新太の胸が温かくなってくる。
「それに――簡単なことのように言いますが、自らを顧みないで、人を助けることなど、なかなかできることではありません。新太くんの勇気がなければ、あの子は……あそこで命を落としていました」
ヒナギはそう言って、もう一度、新太に頭を下げた。
嬉しかった。頬が上気するのがわかった。
誰かに認められたという、高揚感。人を助けた――それも、父に教わったことが役立った事実が、新太は素直に嬉しかった。
新太とヒナギの会話を静かに聞いていた靱負が、おもむろに口を開いた。
「戦う者としての感覚、胆力と勇気。新太くんは、お父様からいい物を受け継いだようですね。向坂くんが、人を推薦することはめったにないので、最初は驚きましたが――なるほど、そういう理由でしたか」
ヒナギが、「はい」と、首肯した。気恥ずかしさと嬉しさで、新太はどんな顔をしていいかわからなくなった。それで思わず、俯く。
「……新太くん」
靱負の柔らかい声が降ってきた。顔を上げると、靱負の真っ直な視線があった。それを受けて、新太は居住まいをただす。
「改めて言いますが、我々の仲間になってもらえないでしょうか。この東京では年々、勿忘神による災禍が増えている。反面、それに対抗できる華紋師の数が足りないのです」
靱負は眉をひそめて、静かな口調で言った。
「多くの人にとって勿忘神の存在は、目に見えないゆえに脅威です。抗いがたい力の前に傷つき、命を落としてしまう人がいる。私たちは、そんな悲劇を、ひとつでも無くしたいと切に思っています」
静かだが――力強い、口調だった。芯のある声音。常に危険に身を置いて、人を守る華紋師であることに矜持を持つ、ゆるぎない眼差し。
それを新太が感じ取って――うらやましく思った。
自分に誇りを持つことが出来る、胸を張って人を助けていると言える、靱負。
その姿に新太は、父親を重ねていた。いつも憧れとして、そこにあった父親の存在。人に優しく、が口癖で――流行り病のときも、我が身を顧みず、村の人の看病を率先して行った。
父さんのようになれたらいいな、と胸の奥で強く思った。
人を守る存在。それが、まだ何者でもない新太が、自ら望んでこうなろうと描いた姿だった。
「俺……、なりたい」
ぽつりと、零す。
「俺、華紋師になりたいです!」
今度は、はっきりと言った。言葉に出しただけで、なぜか少し誇らしくなった。
「いいのですか?」
横にいたヒナギがそう訊いた。その選択に後悔はないのか、優しく確認するような訊き方だった。
新太は大きく頷いて、それに応えた。
「ありがとうございます、ヒナギさん。俺のこと、認めてくれて。その、……嬉しかったです」
白い歯を見せて、新太は笑った。
「俺、ヒナギさんが認めてくれたこの腕で、人を守れる華紋師になってみせます!」
ぐっ、と。
顔の前で握りこぶしを作ってみせた。新太の決意表明に対し、ヒナギは笑みを零す。しかし、どことなく困ったような表情にみえたのは気のせいか。
「新太くん……勘違いをしているようですけど」
気のせいではなかった。
ヒナギが放った予想外の言葉に、新太は、「えっ」と固まった。握りこぶしはそのままだ。
「わたしが認めたのは、新太くんが持つ、感覚の鋭さだけです。さきほども言いましたが、身体能力が未熟で、体幹も安定していない。木刀を振るうのも、右肩上がりになっていましたよ。左手はただ添えるだけで、右手だけの力まかせになっていました。はっきりと言って――宝の持ち腐れです」
ぐさりと。そんな擬音が聞こえて、新太は思わず、胸に手を当てていた。
心が、痛い。根拠のない自信が、音を立てて根元から折れた。そんな新太に、ヒナギは今度こそ、にこりと笑った。
「でも、大丈夫です。感覚はいいものを持っているのですから、一緒に訓練、頑張りましょう」
その笑顔が――怖かった。
「訓練。う、……が、かんばり」
「声が小さいですよ」
「――頑張りますっ!」
勢い込んで、立ち上がって叫んで――しかし、まためまいに襲われて、新太はその場にへたり込んだ。ぐるぐる回る視界の中で、ヒナギの紅葉散らしの羽織が、薄紅色に変わっていく。
「ああ、まだ瘴気が抜けきっていないので、無理は禁物ですよ。訓練は明日からにして、今日はゆっくり休んでください」
靱負が心配そうに、「今、客間に布団を用意します」と言ってくれた。
布団、と聞いただけで新太は、目蓋が重たくなるのを感じた。
身体が一気にだるくなる。
なさけない。こんなことで本当に大丈夫か――と不安がよぎり、しかし、頭を振ってそれを振り払った。斗南っ子魂だ、と気合を入れる。
しかし、今日のところは。
ふかふかの布団で寝られることが、心底ありがたかった。いろいろありすぎた一日を振り返って、新太はそう思った。