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雨と陽の、華紋師  作者: 長谷川 海月
2/28

第二話 勿忘神

 「うわぁぁぁぁぁぁぁ――」

 がばっと、掛けられていた布団を跳ね飛ばす勢いで、新太(あらた)は身を起こした。

 あわてて、額に手を当てる。大丈夫だ、なんともない。

 それにしても――ひどい夢だった。トカゲの顔が、しばらく頭から離れそうもなかった。

 「ふぅ――」

 ため息のように大きな深呼吸をすると、少しは落ち着いた。

 そこで。

 新太は自分がいま、見知らぬ部屋にいることに気が付いた。半身を起こしたままで、周囲を観察する。

 薄暗い。隅のほうで、行灯(あんどん)が頼りなげな明かりを灯している。ほんのりと、新しい畳の匂いがした。

 「……ここは」

 呟いた自分の声が、やけに大きく聞こえて、新太はどきりとなる。

 ここは、静かだった。

 ゆっくりと立ち上がろうとする。衣擦れの音がして――新太は自分に毛布が掛けられていたことを知った。それに、ちゃんと敷布団の上に寝かされていたようだった。誰だか分からないが、その人に感謝をして、新太は布団を綺麗にたたんだ。

 「――ほう、薄汚い子供かと思ったが、なかなかどうして、礼儀を知っているな」

 「――⁉」

 しわがれた、老人の声だった。

 新太は驚いて、周囲を見渡す。誰もいないと思っていたこの部屋に誰かいる。

 「どうした、(われ)を探しているのか?」

 今度ははっきりと――正面から、聞こえた。

 新太は目を凝らす。そこには背の低い座卓と、それよりなおうず高く積まれた和洋混淆の書籍。その奥に、ぼんやりと違い棚が見えた。だが、老人の姿はない。

 もしかしたら、棚の影に隠れているのかも、と考え、そちらの方に新太が近づいたとき、

 「うっ――」

 めまいがした。

 危うく倒れそうになって、なんとか耐える。手を額に当てる。ズキズキと、眉間の奥が痛んだ。しばらくそうしていると、次第にめまいは収まった。

 「無理をするな。まだ、病み上がりだろうに」

 新太は顔を上げる。そして――ぎょっとした。

 違い棚の上、陶器や花器が並ぶそこに、握りこぶし大の壺が置かれている。なんの変哲もない壺だったが、ただ一点。蓋がわずかに傾き、にゅっと蛇が鎌首を持ち上げていたのだ。

 しゃべる、蛇。

 ふつうならその時点で逃げ出していただろうが、新太は今日一日で奇妙な体験をしこたま経験させられた。その成果か、新太はその蛇に恐怖を抱くより、興味を覚えた。

 座卓の横を回り、違い棚の前までやってくると――蛇の頭が出ている壺をしげしげと眺めた。木製の、小汚い墨壺(すみつぼ)だった。黒ずんだ表面になにやら彫刻が施されているようだが、あいにくこの暗さでは判然としない。触ってみれば分かるかもしれない、と思って、手を伸ばし――

 「汚い手で触るでない、坊主!」

 怒られた。

 「少しは礼儀を知っていると思ったが、前言撤回じゃ。ひとに相対しておきながら、名乗りもせん、頭も下げん、ましてや汚い手を伸ばしてこようなど、言語道断だわ。この野猿、ちんちくりん」

 墨壺が、ごとごとと揺れる。身体で怒りを表現しているようだ。

 たしかに、いきなり手を伸ばしたのは悪かったかもしれないが――それでも、野猿や、ちんちくりんは言い過ぎだろう。言われているうちに、新太も腹が立ってきた。そして、思わず、

 「そっちも十分に汚い格好して、ひとのこと言う資格なんてないぞ!」

 新太が声を荒げるのと、すうっと襖があいて、部屋に和服姿の男性が入ってくるのが同時だった。

 紺の着物に、銀鼠(ぎんねず)の帯。背中までかかる黒髪と、反対に白い、驚くほど整った顔立ちは、一瞬、女性と見間違うほどだった。

 新太と目が合い、白足袋(しろたび)を履いたその足がぴたりと止まる。

 気まずい空気が流れる。

 「……元気になったようですね。立柴(たてしば)新太くん」

 微かに口元を緩めて、和服の男性が言った。新太は恥ずかしさと、どことなく高貴な印象を纏うこの人物に、何と返していいかわからず、頭の中がまっしろになる。そして、ついつい、

 「え、俺の名前、……どうして?」

 ずいぶん間の抜けた訊き方になった。おまけに失礼な物言いだった。それに気付いて新太の顔は赤くなる。しかし、男性はそれに頓着することもなく、穏やかな表情のまま、片手を伸ばした。部屋の隅、押し入れの辺りを指し示す。

 そこには見慣れたー竹行李(たけごうり)と、刀袋があった。

 まさかと思って、新太が確認しに行くと――やはり、紛うことなき自分の物だった。

 「荷物はすべて運び入れておきました。勝手に見るつもりはなかったのですが、ただ――」

 男性が言い淀む。長方形の竹行李の側面に、でかでかと『立柴あらた』と墨書してある。東京に出るにあたり、紛失した場合に備えて、新太が書いたものだった。あのときは、すごくいい思いつきに思えたのだが、こうしていざ他人の目に触れてみると――

 とてつもなく、恥ずかしい。新太は顔を赤くして俯く。

 「立ち話もなんですから、どうぞ座ってください」

 座卓に置かれていた石油ランプをいじりながら、男性が、押し入れの前で棒立ちになっていた新太に声をかける。ランプに火が入ると――ふわっと、闇が払われるように部屋全体が明るくなった。自身も座椅子に腰かけて、その対面の座布団を新太に勧める。

 新太は小さくなりながら、その座布団に座り、

 「あ、あのっ……助けてくれて、ありがとうございました。布団まで貸してもらって」

 「いえいえ、気にしないでください。今度のことでは新太くんを巻き込んでしまったわけですから」

 男性が、静かな口調で言う。

 「申し遅れました。私は、この屋敷の主で、双槻靱負(なみつき ゆきえ)と申します」

 なみつき、という聞きなれない苗字。屋敷の主と、はっきり言った男性に、新太は威圧されながらも、

 「俺は、……自分は、立柴新太といいます。今日、青森から東京にやって来たばかりで――」

 たどたどしい自己紹介になった。名前と、出身しか言えない事実に、自分がまだ何者にもなっておらず、身ひとつで東京にいるのだと、改めて気付かされる思いだった。

 不安が、じわりと胸に広がる。

 「ほう、青森ですか。それは遠い所から、ご苦労なことです。……ご家族がこちらにいらっしゃるのですか?」

 和服の男性――靱負が尋ねる。威厳を感じさせる風体に対して、口調はどこまでも穏やかだった。その面立ちのためか、年下の新太に敬語を使うせいか――新太の緊張感は次第にほぐれていった。

 新太は自分が住んでいたー斗南(となみ)の話、父、太一郎(たいちろう)が亡くなったときのこと、そして家伝の刀が東京にあると知って、居ても立ってもいられなくなり、探しに来たことを語った。

 靱負は、新太の父親が亡くなったと聞いて気の毒そうな顔になり、家伝の刀のくだりになると興味深そうに、頷きながら、その話を聞いていた。

 「今日も、浅草を回ってみたんですが、見つからなくって。……まぁ、刀探すにも先立つものが必要だし、先に仕事を見つけないと、なんですけどね」

 新太が頭を掻きながら、そう言って――靱負の方を見て、ぎょっとした。

 じっと、真剣な目を靱負は新太に向けていた。何かを考えているように、顎に、細い指を添えている。しばらく黙考、そして。

 「……差し出がましいようですが、実は新太くんに紹介したい仕事があるのです」

 なにか、重大な秘密を打ち明けるように、靱負は切り出した。

 「給金も、多くはないですが出しますし、住むところも保証します」

 深刻そうな話し方とは裏腹に――それは新太にとってまさに好条件だった。いきなりの話で面食らったが、内容がすとんと胸に落ちてくると、

 「やります! なんでも。ぜひ、お願い――ごほっ」

 新太は叫んでいた。勢い込みすぎて、むせた。

 その様子に、靱負は少し笑って。

 「まぁ、そんなに慌てないでください。その仕事なのですが、……ひとつ問題があります」

 「え?」

 新太が眉を寄せると、靱負は再び深刻そうな顔になる。

 「……危険、なのです。下手をしたら、命に係わることもあります」

 そう言われて――新太が考えたのは、兵隊だった。先だって、清国(しんこく)と大きな戦争があったばかりだ。大陸の領土をめぐって、ロシアやドイツと衝突しているとも聞いた。そんな情勢下で、日本を守る兵士はいくらでもいるだろう。しかし――と新太は思う。父親から教えてもらった剣技を、人に向けたくない、という抵抗感があった。

 そんな新太をしばらくじっと見つめて、

 「少し、お話をしましょうか」

 靱負は優しく声をかける。

 「新太くんが今日、代々幡村(よよはたむら)の外れで遭遇した――事件。あれは、なんだったと思いますか?」

 「――は?」

 急に話が飛んで、思考がついていけない。事件、と靱負は言った。思い出す。崩れそうな鳥居から、子供を助けて――そして、キツネの化け物に襲われた。

 だけど、化け物を見たというと、靱負に笑われそうで、

 「えっと、……野犬……に襲われました」

 「野犬、ですか。ほんとうに、そうでしたか? 新太くんにはあれが、化け物に見えませんでしたか?」

 当の靱負が化け物という言葉を使い――新太はぽかんとする。

 靱負は構わずに続ける。

 「あれは野犬ではありません。どこの世界に、身の丈が十メートルを超す野犬がいるでしょうか。おまけに、自由自在に姿を消すことができる。いえ、待ってください。そういえば、物の本で読んだのですが、英国のロンドン、ニューゲート監獄にはブラックドックという姿が見えない犬の亡霊がいると――」

 次第に活き活きとしだす靱負を、新太は唖然として見つめる。

 座卓の横に積まれている洋書を手に取り――しかし、話が脱線していることに靱負が気付いて、ごほんとひとつ咳払い。

 「失礼」

 洋書をもとに戻す。

 「……新太くんを襲った獣、あれはこの世のものではありません。勿忘神(わすれがみ)と、私たちは呼んでいます」

 「わすれ、……がみ?」

 新太はその言葉を慎重に口に出した。

 頭の中で忘れ神、という字に変換されて――しかし、そこまでだった。それがどんなモノなのか、まったく想像ができない。

 靱負は、大きく頷いた。

 「新太くんは、器物が百年の歳を得て、(もの)()になるという話を聞いたことはありませんか?」

 「……はい。たしか、やくも……いや、つくも神になるとか」

 「そうです。器物に精が宿り、付喪神(つくもがみ)になります。さきほど、新太くんが喧嘩をしていた、墨壺。彼は七曜(しちよう)という名の付喪神です」

 さらり、と。

 とんでもないことを靱負は告げた。

 新太が驚いて違い棚の方を見ると、蛇の頭は消えており、ただ変哲のない壺があるばかりだった。ごとり――と、まるで返事をするかのように、その壺がひとりでに動く。

 「人から大切にされ、愛情を込められた品は、付喪神と呼ばれる存在になる。しかし、反対に――」

 ふっ、と靱負の顔が曇る。

 「人からぞんざいに扱われ、傷ついた付喪神は、人を呪い、殺めます。忘れ去られ、自らの存在価値を無くした器物が、精を宿し転じるモノ。それが、勿忘神です」

 真っ直ぐ、靱負は新太を見て話す。

 「勿忘神は、人に怨みを抱くゆえ、見境なしに人を襲います。私たちは、その勿忘神から人々を守る、華紋師(かもんし)を生業としているのです」

 靱負が語り終えた。

 しかし。

 それはあまりに現実離れした話で、新太は頭がくらくらするのを感じた。はっきりと言って、理解ができない。

 「……えっと、そんな……今は文明開化の時代ですよ。講談や、お芝居の世界じゃあるまいし」

 笑って、言った。しかし、心のどこかで否定できない自分もいた。たしかに、物の怪と言われても納得してしまう現象に新太は今日、遭ったのだ。

 そんな新太に、靱負はひとこと、

 「信じられませんか」

 「あ、いや……」

 新太は口ごもった。

 「試すようなことを言って、申し訳ありません。たしかに、このような話を急にしても、理解が追いつかないと思います。しかし、真実を有体に言ってしまえば――この世ならざる存在は、あります」

 決然と。靱負が、新太を真っ直ぐ見て、強く言った。

 「新太くんの言う通り、この明治は文明開化の時代です。ただ、それ故に、勿忘神の災禍を引き起こしてしまうと言っても、過言ではありません」

 「……え?」

 「欧米文化の急激な流入です。日本に今まで見たこともないような物が入ってくると、人々は争ってそれを手に入れようとする。この東京がそうです。物があふれ、生活や人心が豊かになることはいいのですが、……人は、昔からある、物を大切にするという心を忘れていきました」

 まるで学校の先生が生徒に、教え諭すような口調だった。

 「八百万(やおよろず)の神という概念は正しいと、私は思っています。物にはモノが宿る。しかし明治の世は、仏を捨て、社をつぶして、近代的な街をつくることに血道を上げています。科学が最上だという慢心は、我々の祖先が抱いていた鬼神への恐怖を麻痺させるのです」

 微かではあるが、憤りを感じさせる口調だった。ぴりっとした感覚に、新太は思わず唾を飲み込んだ。

 「今まで大切に扱われていた器物が、ただ古いものだからと捨てられる。邪魔だからという理由で排除される。勿忘神は、人がつくり出しているのです。……勿忘神の災禍によって、傷つき、命を落とす人がいるのもまた、文明開化の側面なのですよ」

 靱負の話が終わり、辺りは静寂に包まれた。

 どこかで、犬の鳴き声が聞こえた。

 新太は部屋の、雪見障子(ゆきみしょうじ)を見る。そこに張られたガラスは、いまは黒々とした闇を映すばかりだった。また、犬の声。あれは――本物の犬だろうか。

 ふと新太は、山犬のような化け物が人に飛び掛かる場面を想像して、ぶるっと身震いをした。

 人を襲うような異形の存在が、薄い壁を挟んだだけの、すぐ向こう側にいるような不安、恐怖。

 「なんとかしないと……それで、傷つく人がいるなら、助けないと」

 思わず、新太は靱負の方に身を乗り出していた。困った人は助ける。新太の純粋な正義感、悪く言えば思ったことをすぐ行動にしてしまう、直情的な性格を微笑ましく見守るように、靱負は目を細めて、ひとつ頷いた。

 「だから、私たち華紋師がいるのですよ、新太くん」

 華紋師。勿忘神から人を守る存在だ、と靱負が言っていたことを思い出す。己を突き動かしていた不安や恐怖が和らぎ、新太はぽすんと、座布団に座り直した。

 「じゃあ、勿忘神を……退治できるんですね」

 「退治というと、語弊があります。たしかに、私たちも力で相対せねば、襲い掛かってくる勿忘神から人々を守ることなどできません。しかし、華紋師は勿忘神を殺すのでなく、鎮めることが目的なのです」

 ゆらりと、風もないのに石油ランプの灯が揺れた。その動きが、一瞬、靱負の顔に影を作る。

 新太に向けられていた、その眼を少し伏せる。

 「新太くん……」

 珍しく、靱負が言い淀んだ。しかし、それも一瞬のことで、

 「……新太くんがよければ、私たちの仲間になりませんか? もちろん、命がけの役目ですので、無理強いするつもりはありません」

 「え――」

 靱負が言った言葉を、新太が理解するまで時間がかかった。靱負が紹介すると言った仕事はこのことだったのだ、とまずひとつ腑に落ちる。そのうえで。

 新太は、靱負から天井の方に、視線を移動させた。考える。想像する。

 仲間になる、ということはつまり、自分も華紋師とやらになる、ということで、それはつまり今日のような化け物と戦うということで――

 「ちょ、ちょっと待ってください。そんな、化け物と戦うなんて、俺……。第一、なんで俺なんですか⁉」

 「新太くんは、勿忘神を見ることができる――からです」

 慌て、混乱する新太に対して、靱負はあくまでも、ゆっくりと説明した。

 「見る、ことができる?」

 靱負が頷いた。

 「勿忘神や付喪神は、彼岸の存在です。我々とは住む世界が違うため、多くの人は、その姿を見ることができません。新太くんのように、それが出来る、見る力を持つ人間はごくごく僅かなのです」

 「そう……なんですか」

 相槌を打ってみたが、ぎこちないものになった。

 「でも、俺……、勿忘神なんて初めて見ましたよ。いままでだって、幽霊とか妖怪とか……会ったことないし」

 そんな自分に、見る力なんてあるのだろうか、という疑問。

 靱負は、指を顎に当てて考える。どうやらそれが、黙考するときの、彼の癖のようだった。ややあって、

 「……おそらくですが、新太くんがいた斗南という土地は、物を大事にする方が多かったのではないでしょうか。そういう土地には、勿忘神は発生しません。代わりに、付喪神が生まれやすいですが、彼らは普段、人の目から隠れようとするものです。中には、そうでない付喪神もいますが――」

 靱負が、違い棚の方へちらりと視線を送る。

 壺は、微動だにしなかった。靱負が苦笑する。

 「物を、大事にする土地」

 新太が独り言のように、呟く。

 言われてみればそうだ。物を大切にという教えは、新太が生まれた時から身体に染み付いた考え方だった。それというのも――実家は、日々の食べ物に困るくらいの貧乏なのだ。

 食器や着物にしたって、日ごろから丁寧に使う。壊れたら捨てずに、直す。

 それが当たり前の生活を送る人々には、ぞんざいに扱われたことで人を恨む勿忘神とは無縁なのだろう。

 「勿忘神を見る力は、それと戦う華紋師にとって絶対の条件です。新太くんには素質があると思います。それと、ですね――」

 靱負はその細い指で、ぽりぽりと頬を掻いた。

 「実は――新太くんを推薦する人がいるのですよ」

 「え、……す、推薦――?」

 「新太くんにお礼をしたいと言っていますし、彼女をこの場に呼んでもいいですか?」

 状況をつかめないまま、新太はとりあえず頷いた。靱負は少し笑って、

 「七曜。四鸞(しらん)に伝えて、向坂(さきさか)くんをここへ呼んでください」

 今度はその言葉に応えるように、違い棚の上の壺がことりと揺れた。

 しばらくして。

 「失礼します」

 透き通った女性の声がして、縁側に面した雪見障子が、静かに開かれた。そこから覗く闇を追い払うような、赤や黄の紅葉紋(もみじもん)を散らした、煌びやかな羽織。まずそれが視界に入る。

 そして――その顔には見覚えがあった。今日、稲荷神社で、キツネから助けてくれた人だった。扇子を持って、舞うように戦った人だった。

 羽織を纏った女性は靱負に一礼したあと、新太の斜め横に正座をした。

 「華紋師の、向坂ヒナギです」

 言って、にこりと笑った。

 「…………」

 「……どうかしましたか?」

 声をかけられて、新太は、はっと我に返る。思わず――見惚れていた。

 なんというか、その――

 「その……、すごく綺麗な人だなって驚いちゃって」

 心の声が、出た。

 新太の正直すぎる反応に、ヒナギが虚を突かれたように目を丸くした。そして、何も言わずに微笑んだ。

 「す……すす、すみません、つい」

 ついじゃないだろ、恥ずかしい。新太が耳まで赤くして、俯く。

 そこに、

 「わかります。確かに綺麗ですね」

 思わぬ援護射撃が、靱負の口から飛び出た。新太ばかりではなく、ヒナギも驚いたように、靱負を見る。当の靱負は真面目な顔をして、

 「向坂くんの羽織は、いつ見ても綺麗です」

 え、羽織? 羽織……ってぇ、そっちか!

 新太が突っ込みを入れる。心の中で。当然、それが聞こえるわけもなく、靱負が嬉々として話を続ける。

 「向坂くんは、手妻師(てづまし)をやっていたのです。派手な羽織や扇子は仕事道具でもあるのですよ。手妻、または和妻(わづま)とも言うのですが、江戸で開花した、日本の奇術のことですね。手の平を稲妻のように素早く動かすことから、手妻と呼ばれています。少し前になりますが、パリの万博で――」

 「靱負さま」

 空気が、一瞬で冷えた。

 口元には笑みが浮かんでいるというのに、ヒナギが発したその声に、新太の背筋は凍りついた。

 「お話が長くなりますので、そのあたりで」

 「あ、ああ……申し訳ない。つい、悪い癖が出てしまいました」

 有無を言わせない迫力に、流石の靱負も目が泳いだ。

 ヒナギが新太の方に向き直る。

 「新太くん」

 「はひっ――」

 声が、派手に上ずった。

 「……今日の勿忘神襲撃のとき、子供を助けてくれて、ありがとうございました」

 言って、頭を下げるヒナギ。突然のことで、新太は慌てて、

 「いや、そんな……いや、当然のことをしたまでというか……父さんの、言いつけを守ったというか、……人を助けるのは当たり前だし」

 しどろもどろになる。そんな新太に優しい表情をみせて、ヒナギはぽつりと、

 「武術かなにかを、やっていましたか?」

 「え――っと、はい。父さんが、剣の腕が立つ人で、それで……俺も、七歳くらいになってから、父さんに鍛えられた、んですけど」

 新太の答えに、ヒナギは、そうですか、と目を細めた。

 「わたしが神社に到着したとき、新太くんは勿忘神に向かって木刀を振るうところでした。しかし、勿忘神がいきなり姿を消したことで、それが空振りに終わってしまう。普通なら、頭が真っ白になってもおかしくない場面です。しかし、新太くんは冷静でした。後ろに現れた勿忘神を、いち早く、感覚でとらえていたように見えました」

 そうだったろうか、と新太は思い出そうとする。あのとき、キツネが消えて、立ち現れる瞬間。ぴりっと背中を伝わる電流のような感覚がよみがえった。

 「勘が鋭いのだと思います。武芸者が持つ、肌感覚と似たものを、新太くんは持っています。それは――この世ならざる存在、勿忘神に対する、武器になります。ただ、それに引っ張られて、身体や技術の方が追い付いていないようでしたけど」

 これは、褒められているのだろうか。褒めてくれているのだろうか。そう思ったら、じわじわと、新太の胸が温かくなってくる。

 「それに――簡単なことのように言いますが、自らを顧みないで、人を助けることなど、なかなかできることではありません。新太くんの勇気がなければ、あの子は……あそこで命を落としていました」

 ヒナギはそう言って、もう一度、新太に頭を下げた。

 嬉しかった。頬が上気するのがわかった。

 誰かに認められたという、高揚感。人を助けた――それも、父に教わったことが役立った事実が、新太は素直に嬉しかった。

 新太とヒナギの会話を静かに聞いていた靱負が、おもむろに口を開いた。

 「戦う者としての感覚、胆力と勇気。新太くんは、お父様からいい物を受け継いだようですね。向坂くんが、人を推薦することはめったにないので、最初は驚きましたが――なるほど、そういう理由でしたか」

 ヒナギが、「はい」と、首肯した。気恥ずかしさと嬉しさで、新太はどんな顔をしていいかわからなくなった。それで思わず、俯く。

 「……新太くん」

 靱負の柔らかい声が降ってきた。顔を上げると、靱負の真っ直な視線があった。それを受けて、新太は居住まいをただす。

 「改めて言いますが、我々の仲間になってもらえないでしょうか。この東京では年々、勿忘神による災禍が増えている。反面、それに対抗できる華紋師の数が足りないのです」

 靱負は眉をひそめて、静かな口調で言った。

 「多くの人にとって勿忘神の存在は、目に見えないゆえに脅威です。抗いがたい力の前に傷つき、命を落としてしまう人がいる。私たちは、そんな悲劇を、ひとつでも無くしたいと切に思っています」

 静かだが――力強い、口調だった。芯のある声音。常に危険に身を置いて、人を守る華紋師であることに矜持を持つ、ゆるぎない眼差し。

 それを新太が感じ取って――うらやましく思った。

 自分に誇りを持つことが出来る、胸を張って人を助けていると言える、靱負。

 その姿に新太は、父親を重ねていた。いつも憧れとして、そこにあった父親の存在。人に優しく、が口癖で――流行り病のときも、我が身を顧みず、村の人の看病を率先して行った。

 父さんのようになれたらいいな、と胸の奥で強く思った。

 人を守る存在。それが、まだ何者でもない新太が、自ら望んでこうなろうと描いた姿だった。

 「俺……、なりたい」

 ぽつりと、零す。

 「俺、華紋師になりたいです!」

 今度は、はっきりと言った。言葉に出しただけで、なぜか少し誇らしくなった。

 「いいのですか?」

 横にいたヒナギがそう訊いた。その選択に後悔はないのか、優しく確認するような訊き方だった。

 新太は大きく頷いて、それに応えた。

 「ありがとうございます、ヒナギさん。俺のこと、認めてくれて。その、……嬉しかったです」

 白い歯を見せて、新太は笑った。

 「俺、ヒナギさんが認めてくれたこの腕で、人を守れる華紋師になってみせます!」 

 ぐっ、と。

 顔の前で握りこぶしを作ってみせた。新太の決意表明に対し、ヒナギは笑みを零す。しかし、どことなく困ったような表情にみえたのは気のせいか。

 「新太くん……勘違いをしているようですけど」

 気のせいではなかった。

 ヒナギが放った予想外の言葉に、新太は、「えっ」と固まった。握りこぶしはそのままだ。

 「わたしが認めたのは、新太くんが持つ、感覚の鋭さだけです。さきほども言いましたが、身体能力が未熟で、体幹も安定していない。木刀を振るうのも、右肩上がりになっていましたよ。左手はただ添えるだけで、右手だけの力まかせになっていました。はっきりと言って――宝の持ち腐れです」

 ぐさりと。そんな擬音が聞こえて、新太は思わず、胸に手を当てていた。

 心が、痛い。根拠のない自信が、音を立てて根元から折れた。そんな新太に、ヒナギは今度こそ、にこりと笑った。

 「でも、大丈夫です。感覚はいいものを持っているのですから、一緒に訓練、頑張りましょう」

 その笑顔が――怖かった。

 「訓練。う、……が、かんばり」

 「声が小さいですよ」

 「――頑張りますっ!」

 勢い込んで、立ち上がって叫んで――しかし、まためまいに襲われて、新太はその場にへたり込んだ。ぐるぐる回る視界の中で、ヒナギの紅葉散らしの羽織が、薄紅色に変わっていく。

 「ああ、まだ瘴気(しょうき)が抜けきっていないので、無理は禁物ですよ。訓練は明日からにして、今日はゆっくり休んでください」

 靱負が心配そうに、「今、客間に布団を用意します」と言ってくれた。

 布団、と聞いただけで新太は、目蓋が重たくなるのを感じた。

 身体が一気にだるくなる。

 なさけない。こんなことで本当に大丈夫か――と不安がよぎり、しかし、頭を振ってそれを振り払った。斗南っ子魂だ、と気合を入れる。

 しかし、今日のところは。

 ふかふかの布団で寝られることが、心底ありがたかった。いろいろありすぎた一日を振り返って、新太はそう思った。


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