第一話 文明開華、妖器譚
この時代が明治と呼ばれるようになって、三十年と少し過ぎた。
残暑厳しい、晩夏の東京。まさに文明開化の象徴と言っていい銀座のレンガ街の真ん中に立って、少年――立柴新太は、ただ茫然としていた。頬を流れる汗がぽとりと落ち、石敷きに染みをつくる。
「都会……」肩が、震える。背負っている竹行李が、握りしめた拳がふるふると震え出す。「都会、すげぇ」
絞り出すように、そう言った。
とにかく広い。高い。新しい。瀟洒なレンガ作りの街並みも、洋装で行き交う人々も、歩道に等間隔で立つ電灯も、故郷から上京してきたばかりの新太にとって、衝撃的な風景だった。こんなに発展していたのか、と思う。
この街で、自分はほんとうに目当ての刀を見つけることができるのだろうか――
チリンチリン。
甲高い鈴の音にはっとして振り返ると、二頭立ての馬車が、すぐ目の前まで迫っていた。
「のわっ――」
間一髪。尻餅をついた新太の鼻先すれすれを、鉄道馬車が通って行った。大きな客車がレールを軋ませる。乗客たちが、まるで珍しい動物を観察するような目を新太に向ける。
「都会、怖ぇ……」
やっぱり来るべきではなかったか。不安が胸いっぱいに広がって、いやいや――パン、と両の平手で新太は己の頬を打った。そんな弱気でどうする。こんなときこそ奮い起こすのだ、斗南っ子魂を。
新太は道端で胡坐をかいたまま、懐に仕舞っていた冊子を取り出した。
何度も読み込まれ、よれよれになったそれを広げる。表紙に、すり切れた文字で『帝都名所案内』とあった。
「えっと、ここは浅草だから……」
冊子の、浅草仲見世を紹介している頁を開きながら、呟く。そして、眉をひそめる。
おかしい、なんか違う。
目の前に広がる光景と、冊子の錦絵には圧倒的差異があるのだ。なにより、凌雲閣と名が付いた、火の見櫓の化け物のような建物が、ここにはない。
新太は周りを見回して、歩道の脇で退屈そうに煙草をふかしていた年若い車夫を見つけると、駆け寄っていった。すみません、と元気に声をかける。
「へい、らっしゃ――」
満面の笑顔で振り返った車夫が固まった。無遠慮に、新太の頭の先からつま先まで見て、「なんの用だ、坊主」大きなため息と煙草の煙とを、同時に吐きながら言った。
もとは白かったが、土埃と汗染みで茶に変色を遂げた浴衣と、粗末な麻の袴。足元は毛羽だった草鞋。粗末な竹行李を紐で十字に背中へ結わえ、手に刀袋を提げている。
そんな新太の格好は、あ、こいつ金持ってないな――そんな車夫の心の声を、ありありとその顔に張り付ける効果絶大だった。
「ここって、浅草ですか?」
車夫の顔が、あ、こいつお登りさんだ、に変わる。
「いや、銀座。浅草はあっちのほう」
「え――」
今度は新太が固まる。
「ここの道をな、こういってああいって、あっち行く。高い建物が見えたら、そこが浅草だ」
車夫の道案内は、まさしくいい加減だった。しかし、目の前で困り果てる少年に対し、多少の親切心が出てきたのか、それとも商売っ気がうずいたのか、
「ここからだと遠いぞ。安くしとくから、乗ってきな」後ろの、ピカピカに黒光りする人力車を指す。
「いえ、大丈夫です」新太は、笑顔で即答する。「足腰には自信があるんです。青森から東京まで歩いてきたので」
「ほう、青森――ってぇ、青森ぃ⁉」
「はい」新太は、笑顔で頷く。「ありがとうございました、お兄さん。浅草、行ってきます!」
大きく手を振って、新太は歩き出す。それを車夫は、ぽかんと口を開けたまま見送っていた。
浅草、仲見世の一角にある茶屋。そこの長いすに腰かけて、新太は茶を啜っていた。皿には田楽串が三本。ふぅ、と息を吐き、新太は聳える凌雲閣を見上げる。
雲を凌ぐというのもまんざらではない、でたらめな高さだった。
楼上に手すりが設けられていて、そこから人が身を乗り出すようにしている。あんなに高い建物に乗って、大丈夫なのだろうか、と要らぬ心配をしてしまう。まぁ、あれが目印になって、無事、浅草に着いたのだけれど。
新太は焼き味噌がのった田楽串を、かじる。これからどうしようか考える。
今まで浅草中の古道具屋を回ったが、結局、探していた刀は見つからなかった。
「まぁ、そんな簡単に見つかれば、苦労はしないか」
ぽつりと呟く。
目の前を、父親に手を引かれた子供が、浅草寺の方へ歩いていく。新太をちらりと見て、屈託のない顔で笑う。新太も笑顔を返した。
新太がはるばる東京に来た理由。それは――家伝の日本刀を探すためだった。
新太の生まれた立柴家は、かつて会津藩で剣技を教える一族だった。藩の御留流とされた溝口派一刀流と並び称されるほどで、江戸期中ごろには門弟も千人は数えたとか、いないとか。
五代目当主が、城下にあるすべての道場を破ったとか、いないとか。
東北の雄藩で、剣技をもって、その名前が知られる立柴家。その命運が一転したのが、幕末――戊辰戦争。新政府相手に徹底抗戦をした会津藩は、矢折れ刀尽き、ついに降伏。藩士、藩民は故郷を追われ、下北半島の、斗南に移住を余儀なくされた。
新太の父親、立柴太一郎も、そのひとりだった。当時、不毛にして荒涼の地だった斗南への移住は、それは悲惨なものだったという。しかし、歯を食いしばって、彼らはこの土地を拓いた。中には別天地を求めて去った者もいたが、太一郎は必死になってこの土地で生きた。
生きて、この地で結婚して、子をもうけた。それが新太だった。
新太は母親の顔を知らない。新太を産んですぐ、死んでしまったという。栄養失調だったと、いつか父が言っていた。かつてその剣技で名の知れた立柴家も、日々の食糧に困るほど貧乏だった。それでも、家伝の刀を手放さなかったのだ。
刀を売って、母親に食べ物を買ってあげれば助かったかもしれない。新太は父親を恨むこともあったが、母親の思い出話をするときの、その父の顔が優しくて――ああきっと何か事情があるのだと、幼いながら新太は思った。
しかし、新太が七歳になった年の夏。村を襲った流行り病に罹り、新太は三日三晩、生死の境を彷徨った。
苦しむ新太を見て、太一郎は即断した。家宝の刀を売って、薬と栄養のある食べ物を買ってくれたのだ。そのおかげで回復した新太は以降、すくすくと健康に育った。
自分のために大切な刀を手放した父親の優しさに――ちくりと胸を痛めながら。
新太が父親のもとで剣技の鍛錬を積むようになって、その思いはいっそう深まった。武士として生きた父にとって刀がどれだけ大切なものだったのか、それを捨てて自分を助けてくれた愛情の深さを知った。
将来は斗南の先人に倣って出世をし、恩返しをしよう――そう、心に誓った。
しかし、新太がそれを叶える前に、太一郎は逝ってしまった。
半年前、二度目の流行り病から村人を看病して、あっけなく病になって死んでしまったのだ。新太は天涯孤独の身になった。幸い、父親の友人の伝手で、青森県庁で給士の職を得ることができたため、食べるだけはなんとかなったが。
家伝の刀が流れて、東京にあると聞いたのは、県庁に出入りしていたときである。新太に職を斡旋した青森市議会議員が教えてくれたのだ。それを知って、居ても立ってもいられなくなった。亡き父親に恩返しをする機会だと、そう思った。
そして――新太はいま、東京にいる。
「ごちそうさまでした」
新太は田楽を食べ終わると、勘定のために布財布のひもを緩めた。給士をしてなんとか貯めた四円。東京への道々、使ってしまった分を引いて、残り二円弱。
その現実に、つい大きなため息が出る。刀もそうだが、まずは東京で働き口を探さないと。
「いや、仕事……の前に、今日の泊まる場所を見つけないとなぁ」
言って、『帝都名所案内』を取り出し、巻末を開く。そこに東京市とその近郊で、おすすめの宿一覧が載っていた。
「安いとこ、安いとこ……、おっ、ここはいい感じだ」
巻末の末項、末行。目を凝らさないと判らない小さな字で、『わけあり旅籠・素泊まり亭』とある。一泊三銭は破格で、幸先のいい出だしに、嬉しくなる。ただ、問題があるとすれば、その宿の場所――渋谷村。
知らない地名だった。
また誰かに教えてもらおう、そう思って仲見世を歩く人々を新太は見やる。すると、大きな荷物を抱え、今にもつぶれそうになっている、おばあさんがいた。
お茶と田楽の代金を長いすに置き、新太は脇に置いていた刀袋を手に取ると駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「はぁ、……浅草寺参りのついでに、孫にお土産を買ったのですが、それが重すぎて……難儀を」
石畳みの上に置かれた風呂敷は、はちきれんばかりに丸々としていた。これを年寄りがひとりで担ぐのは大変だろう。
「よかったら、俺がおばあちゃんの家まで持って行きますよ」
「え、……いやぁ、いいですよ、そんな。重いし、家も遠いので」
「大丈夫。足腰には自信ありますから。それに困っている人を放っておかないのが、斗南っ子魂なので」
胸を叩いてみせる。
遠慮していたおばあさんも、新太の清々しい優しさにほだされたのか、「じゃあ、お願いしようかね」と言った。
新太は背負っていた竹行李を、胸の前で結わえ直し、代わりにおばあさんの風呂敷を担ぐ。
瞬間――ずしっと、まるで臼か米俵でも持ち上げたような重量感があった。
正直、甘く見ていた新太は、その意外な重さに、ふらつく。歯を食いしばって、耐える。
孫へのお土産って、まさか石臼じゃないよな――本気でそう思って。
しかし、完全に新太のことを頼みきった、おばあさんの顔を見たら、何も言えなくて――無理やりにでも、笑ってみせた。
遠かった。そして、なにより重かった。
おばあさんの家は、代々幡村にあり、まさに東京市の郊外だった。おまけに道案内をしてくれた、おばあさんの歩みが、亀もかくやと言うほどゆったりで――ずいぶん時間がかかってしまったのだ。
ぜひ、夕飯を一緒に、との誘いを断って、やっと帰路についたときには、夕方近くになっていた。
新太はいま、人家がまばらな道を歩いている。
凝り固まった首筋をほぐすと、痺れるような甘い痛みが全身に流れ、ついつい、「ふぅう――」と、年寄りくさいため息が漏れた。
大変だったけれど、でも。
新太は、帰りしなの、おばあさんやその家族の嬉しそうな顔を思い出して、胸が温かくなった。お礼にともらった、干し芋も美味しかった。
父がよく言っていた、斗南っ子たるもの、まずは人に優しくすべし――は、正しかったと、そう改めて思った。情けは人の為ならず。
その証拠に、代々幡村から、目指す渋谷村は目と鼻の先だった。僥倖、渡りに船といっていい。教えてもらった道を行けば、あと小一時間もしないうちに宿に着くだろう。
――この辺りは、斗南とそう変わらないな。
最後の干し芋を食べながら、新太は思った。
板葺きの長屋。舗装されていない、土がむき出しの道路。そこここに点在するお寺や神社。遠くの山並み。東京を少し出ただけで、こんな風景が広がっていることが驚きだった。
長屋を通り過ぎると墓地があって、その奥の林に、朱色の塗装が剥げた、小さな鳥居が立っていた。その前に来て、新太は足を止める。
鳥居の先は、草むらの中を細く参道が伸びていて、背の高い木々に埋もれるようにして、こじんまりとした社が見える。
子供のころ、村の祭りやお神楽が出た、斗南の稲荷神社にそっくりだった。
懐かしくなる。ちょっと、お参りをしていこうか。刀が早く見つかるように。
そう思って――鳥居を潜った、そのとき。
社の方で、何かが崩れるような音。木々から烏が飛び立つ。
少し遅れて、微かな悲鳴が聞こえた。
その瞬間、新太は走り出していた。
草を蹴る。花が舞う。
途中――本来あるべき、左右対称に居並んだ狛犬がないことに気が付いたが、深く考えることはせず、ぽっかりと空白となった台座の間を一気に駆け抜けた。
社の前に立つ。
ひとつ、深呼吸。
瓦が崩れ、割れて散らばっている。資材に使うものなのか、材木が横倒しになっていた。
もうもうと、砂ぼこりが立ち込める。汗と煙が染みて、目をこすった。
赤い鳥居が傾いていて、ぱりぱりと、破片をこぼしていた。
その、今まさに鳥居が倒れようとしているところに、小さな男の子がうずくまっていた。
それを見つけると、身体が反射的に動いていた。
胸の前で縛っていた紐を解き、新太は竹行李を下に落とす。
ガタン――と、音が鳴って。合図に、走り、出す。息は止める。
手には刀袋を持って。しかしいまさら、それを放り出す選択肢は――ない。
視界が煙る中を、走り。
間一髪。
男の子を抱き締めることに成功――勢い余って二人の身体はごろごろと転がった。
そこへ、限界だった鳥居が崩れた。
ずん、という深い静かな衝撃音。
それが静まるのを待って、新太はゆっくり、身体を起こした。
「君、大丈夫⁉ 怪我はない?」
男の子は呆けたように、目と口を大きく開けていたが――新太に縋り付いて、泣き出した。
新太は安心して、息を吐き――
「――⁉」
しかし、その鼻が、微かに獣の臭いを嗅ぎ取った。ぞくりと総毛立つ。
野獣か。斗南の森にも、飢えた野犬がたくさんいた。気配と、臭いはそれに近い。
男の子の背から手を放し、新太は刀袋を開けて、静かに木刀を抜き取った。
握りのところが手垢で黒光りしている。使い込まれた、一振りだった。
「どうしたの?」
不安そうな声を上げる男の子を、新太は自分の背中に隠した。
そして、木刀を正眼に構える。少し、腰を落として。
気配の先を注視する。
ゆらりと――砂ぼこりから立ち現れた影は、すらりと細い、四つ足の獣だった。
山犬、いや――
長く太い尾、とがった口に、鍵のような金具を咥えている。目が赤い。毛並みが白い。この獣を、新太が知っている言葉で表現するならば、キツネだった。稲荷神社に、狛犬の代わりに鎮座しているキツネそのものだった。それが動いている。
ひょっとして、神様の使いか。
唾を飲み込む。いやいや、今は文明開化の時代だぞ。そんなことあるわけ、ない。
これはきっと、野犬の一種で、そして自分を、この子を襲おうとしている。
ぎゅっと、木刀を握る手に力を込める。
新太の意思が伝わったのか、ぎゅるる、と腹時計のような声を上げて、キツネは身を低くした。
跳んだ。
その爪が鋭い。
しかし、その程度なら。
大丈夫。
新太は、無思慮に間合いに入り込んだキツネの化け物を、ためらいのない太刀筋で、薙いだ。
しかし木刀は、獣の身体に食い込んだ瞬間、すり抜けてしまう。その姿が、新太の目の前で消えた。
「え――」
消えた。消えて――ぴりっとした感覚が、新太の背を駆けた。
後ろだ。
咄嗟にその気配を、背中で察知して、振り返る。爪を鋭く伸ばしたキツネを視認する。その赤い目は新太を見ていなかった。男の子に注がれている。
目では、頭ではそれを捉えているのに。
身体が、ついてこない。
「ちっ……くしょお――」
今日ほど、自分の身体が鈍く感じたことはなかった。
キツネの鼻面が、まさに子供の顔先にあるというのに、木刀を握った腕は間抜けにも、見当違いな方を向いていて。
間に、合わない――そう、唇を噛んだとき。
ふわり、と。
風が吹いた。
新太の目の前に、萌黄色の羽織を着た女性が立っていた。
右手に、扇子を持っている。
彼女はその扇子を、ひらりと遊ばせるように、舞わせるように動かす。
――と。キツネの、振り上げた腕が、切り飛んだ。まるで、鋭い刃物で切断したように。
耳障りな声を上げて、キツネが後ろに跳ねる。
飛ばされた腕は、地面に落ちることなく、靄となって――女性の腰辺りに吸い込まれた。そのように新太には見えた。
なんだ、これは。なにが起きている――
「怪我は、ありませんか?」
優しげな声。横顔で振り向き、女性が言った。
しかし、それに新太が応える間もなく、
「ヒナちゃん、今のでバッチリ出来たよっ」
舌っ足らずな、女の子の声がした。それは、なぜか女性の腰の方で聞こえて――「えっ」と新太は目を見張る。さっき萌黄色だったその羽織が、今は鮮やかな紅色をしていたのだ。
「ありがとう、四鸞」
女性は羽織の衿を翻し、左手を腰に、そこに提げていた小ぶりの壺に当てる。細い、綺麗な指でそれを撫でると、手の輪郭にそって光が纏わりついた。
その光に引かれるように、新太はこの時、初めて女性の全身を観察した。
今は紅色をしている羽織の下に、淡い色合いの小袖。下は、細身の馬乗り袴と、薄茶色のブーツ。当代女学生のようないで立ちだが、袴の裾とブーツの間を、兵士がするように、白い短脚絆で締めている。歳は新太より、少し上といったところだろうか。
元は長い黒髪を、後ろで短く縛りあげている。赤色の房のついた組紐が髪の間から見えた。それが揺れて、
「危ないので、下がっていてください」
新太と目が合った。女性はにこりと笑う。
そして。
胸元から懐紙を一枚取り出すと、すっと半分に折って、口に咥える。
なにが始まるのか。興味と恐怖が半々になった気持ちが新太に湧き上がる。
片手を失ったキツネは警戒するように、女性から一定の距離を保って様子を伺っていた。ぎゅるる、と鳴き声。
女性が一歩、踏み出す。キツネが後ずさって――しかし、意を決したように地面を蹴って、女性に飛び掛かる。
早い。
女性の方も走った。
紅い、羽織が、鳥の羽のように。
速い。
間合い。
キツネの攻撃を、わずかに身体を捻るだけで、かわし。
旋舞――腰の回転を載せて、女性は右手の扇子で、弧を描きながら、獣の横っ腹を薙いだ。
苦しそうな声を上げて、キツネが宙を舞い、転がり、木に当たって止まる。
「すごい――」
新太は思わず、息を飲む。まるで舞を見るような戦い方。
女性がゆっくりとキツネに近づく。
獣は首をわずかに上げて、牙をむいたものの、その戦意はすでに削がれていた。立ち上がれないのだろう。
咥えていた懐紙を手に取ると、女性はそこに光を纏った指先で、何かを書く。描く――か。
懐紙が光を帯びる。
「『紙蝴蝶飛』の曲」
そう言って女性は、左の手の平に紙を乗せ。
扇子で、ひとつ、扇ぐ。
懐紙が、まるで生きた蝶のように羽ばたいて。
それがキツネの眉間、赤い目の間に、ぴたりと止まる。
蝶が翅を広げると、そこには華のような紋様が輝いていた。
光る花だと、新太は思った。
その模様が、輝きながら広がって――そして、ぎゅっと収斂した。アサガオがしぼむように。いや、つぼみが閉じるように。
瞬間。
牙を剥き出しにしていたキツネの顔が、ふっと穏やかになる。まるで、今まで苦しんでいた痛みが引いて、楽になったような。
その身体が、光り始める。
爆発する。そう思って、とっさに新太は、自身の袴の裾を握っていた男の子を、抱き寄せた。キツネに背を向けて、かばう。
しかし。
しばらくそうしていたが、なにも起こらなかった。
恐る恐る、新太は様子を伺う。そこには、苔むした石像が転がっているだけだった。稲荷神社によくあるキツネの像で、片手に薄くヒビが入っている。
石に――なったのだろうか。新太がもっとよく見ようと、身を乗り出したとき、
「おい、近づくんじゃねぇぞ。瘴気がうつる」
野太い、男の声。聞こえた方を振り向くと、そこには、僧侶のような墨染を大胆に着崩した、背の高い男がいた。腕を袂の中で組んで、新太を睨んでいる。
眼光が鋭い。新太を目で制しておいて、男はすたすたと石像の前まで来ると、しゃがみこんだ。己の顎に片手を添える。
「ふむ、……ここの稲荷像だな。作られたのは江戸初期ってとこか。……あんなに派手に立ち回って、ヒビだけで済ませるたぁ、大したもんだな」
「ありがとうございます」
いつの間にか、男の隣に立っていた女性が言った。弾かれたように、男はそちらを見上げる。
「怪我がなくてなによりだ。……さて、問題は、どうやってこいつを――」
「お屋敷に運ぶのお願いしますね、玉虫さん」
男が言うより早く、女性がにっこりと笑ってそう言った。
「お、おう」
男がキツネの像と女性を交互に見て、引きつらせた笑みを顔に浮かべた。
そのとき。
「ヒナちゃん、まだいる! 崩れた鳥居の奥に、キツネがまだいるよっ!」
再び、女性の腰あたりで、女の子の声がした。それを聞いた女性の表情が、一瞬で険しくなる。
「わたしが追います。玉虫さんは――」
新太の方を見やる女性。
「――あの子たちを、お願いします」
「わかった。……気をつけ、て――」
男が話し終わらないうちに、女性は走り始めていた。鳥居の残骸を、軽やかに飛び越える。
ふわりと浮いた、羽織の色が――また変わっていた。
今度は薄花色に、梅の小紋が散っている。
女性の後ろ姿が見えなくなるまで、新太はぼんやりしていて、
「おい」
はっ、と我に返る。先ほど、玉虫と呼ばれた男が、真横に立っていた。
「……大丈夫か?」
ぶっきらぼうだが、気を遣ってくれているのが分かる。そんな響きを持った声だった。
さっき転がったときに身体は打ったが、これといって怪我もない。頑丈なのが、取り柄だ。
新太がそう答えると、
「お前じゃねぇよ」
吐き捨てるように、言われた。
「そっちの、ちっこい――って、おい! やべぇじゃねえか!」
玉虫が慌てる。その視線を追って、新太は自分の腕の中にいる男の子を――
「え……、なんで――」
見て、絶句した。男の子は新太にもたれかかって、ぐったりとしていた。血の気の失せた顔色。浅い呼吸。ぴくぴくと、薄いまぶたが痙攣している。
怪我は、どこにもない。
でも、だったらどうして。もしかして、さっきの化け物に――
「落ち着け」
まるで新太の動揺を読んだように、玉虫は言った。
「外側の怪我が原因じゃあ、ない。瘴気にやられたんだ」
「……しょう、き?」
しかし、玉虫は答えない。
左腰に括り付けてある矢立から、慣れた手つきで筆を抜き取ると、その先を男の子の額に当てる。
筆の先は、白い。墨を吸っていない。それじゃあ、何も書けないし、そもそも、この男は、なにをしようとしているのだろうか。
「あの、早く、お医者さんに診せた方が――」
「大丈夫だ」玉虫が、低く呟く。
「いや、でも」
「黙って、おまえはそいつを支えてろ。――八色、頼む」
ぞろり、と矢立の表面で何かが動いた。虫か――と思ったが、違う。トカゲだ。二寸に満たないそのトカゲは、矢立の上を這い、玉虫の巨大な背中に飛び移ると、素早く登り始めた。
斗南のボロ屋にいつもいた、ヤモリに似ていると新太は思った。
トカゲは玉虫の肩から右腕へ。手から、握られている筆までやって来ると、ピタリと動きを止める。
「おまえ、八色が見えてんのか?」
ふと、玉虫が言った。
なんのことか分からず、新太が首を傾げ――そのとき筆の先が光を纏い始めた。先ほどの女性の指先のように、淡い光。
玉虫がそれを待っていたとばかりに、男の子の額に向けて筆を走らせる。縦に、横に。一気呵成に、ナナメに。勢いよく。
玉虫の顔が、口が、楽しそうに歪む。端から見ていて、ちょっと異様な光景だった。
しゅばっ、と。
玉虫が筆を天頂に振り上げて――それで終いのようだった。はぁはぁ、となぜか玉虫は肩で息をしていた。その頬には、汗が光る。
新太は呆気にとられながら――あんなに振り回されても、まだ筆にしがみついていたトカゲのことを、少し心配していた。
「う、……ん」
新太の腕の中で、男の子が身じろぎをする。気が付いたのだ。
ぼんやりと目を開けて、新太と玉虫を順番に見る。
「ここ、どこ?」
掠れているが、しっかりとした声だ。ほっ――と、新太は息を吐く。よかった。
玉虫が大きな手で、男の子の頭をがしがしと掻いた。
やめてよぉ、と嫌がって暴れるので、新太は男の子を放した。しかし、玉虫が怖いのか、すぐに新太の背中に隠れる。
「元気だな、坊主。あとで家まで送って行ってやるからな。さてと――」
じとっ、と玉虫は新太を見る。
「お前の方は――なりはひどいが、大丈夫そうだな」
言われて、新太は頷いた。なりがひどい、は余計だけど。
「まぁ、でも……一応、やっておくか。瘴気払い。おまえ、じっとしとけよ」
玉虫が筆を手にして、新太の方に近寄る。え、やるって――まさか、さっきのあれを⁉
狂気の筆さばきを見せつけてくれた玉虫を思い出し、新太は全力で首を振った。
「いや、……いや、大丈夫。大丈夫です。ほ、ほら、こんなに――」
元気です、と腕を回して、屈伸でもしようとしたとき――地面がぐらりと揺れた。
否。
揺れたのは、新太の身体、頭の方で。
めまいを感じて、新太は膝をつく。
「あれ――」
力が入ら、ない。
「やはり瘴気を吸ってたか。待ってろ、いま――」
玉虫の声がとぎれる。ぼんやりと視界がかすみ始めて――そこに、にやけた玉虫の顔が近づいてくる。荒い息遣い。筆が迫る。筆の上の、トカゲと目が合う。
うわぁぁぁぁぁぁぁ――と。
叫び声をあげたつもりの新太だったが、それが彼の声帯を震わせることはなく。
そこで、新太は意識を失った。