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「……ナイーダ」


 低くかすれた男の声にサラはゆっくりとかぶりを振った。その顔がくしゃくしゃとゆがめられ、目じりから涙がこぼれ落ちる。


「ナイーダ。迎えに来た」


 男が歩を進めようとする。


「来ないで!」


 サラは反射的に叫び、あえぐように言葉を続けた。


「ガジェス……なぜ……」


 男はやせた両頬に悲しげな笑みを浮かべると、ゆっくりとその口を開いた。


「何度も忘れようとした。酒もおぼれるほど飲んだ。女も抱いた。何人も。──だが、忘れられなかった」


 一歩、今度こそ足を踏み出す。サラは両足をすくませて、近づいて来る男を見上げた。


「一年もがいて、苦しみ抜いて、やっとここまで来ることが出来た。……もうあんたを離さない」

「そばに来ないで!」


 サラは一言そう叫び、泣き崩れようとするおのれを必死の思いで立て直した。きつく下唇を噛みしめ、男──ガジェスを燃えるような目でにらみ上げる。


「私はもうナイーダではない。それはあなたが私に教えたことでしょう? あなたの役目は一年前、全てに見捨てられた私を置いてここを出たことで終わった。あなたはもう、私にお金で雇われた傭兵ではないし、私はフージェンのナイーダ王女でもない。ただの、この町の娘なのよ」

「だから迎えに来たんだ」


 ガジェスはサラの訴えに動じず、淡々と言葉を続けた。


「ナイーダ様は……一介の傭兵の俺には触れることもできない人だった。まして、その思いに答えることなど俺にできるはずもない。──そうだ、俺は怖くて逃げた。ナイーダ様から、フージェンの追っ手から、自分の思いから逃げ出したんだ」


 あらがうサラの手首をつかんで、一気に胸元まで引き寄せる。


「逃げて逃げて……そして、今になってやっと気がついたんだ。俺はただの馬鹿な男で、あんたはそんな俺に惚れてくれた、ただの娘だったんだって。──だから、俺は迎えに来た。ただの町娘のあんたを」


 サラは男の両腕から必死で逃れようともがいた。が、ガジェスはその腰を強引に自身へと引き寄せて、上から覆いかぶさるようにサラの唇へ唇を重ねた。さびた鉄のなまぐさい味と、鼻をつく獣の死骸の匂いが彼女の舌をからめ取る。

 狂おしいまでの激情に飲まれ、サラは渦に巻かれるように自分の意識を手放しかけた。彼女の抵抗の弱まりを男が敏感に感じ取り、腕の中へ強く囲い込むとその背中を抱きしめる。


「い……や──‼」


 サラは唇を振りほどき、やっとの思いで言葉を放った。


「もう……わたしは、忘れ……」

「思い出させてやる」


 ガジェスはついに捕らえた娘に熱い吐息を吹き込んだ。


「例えすべてを忘れていても、俺が思い出させてやる。あんたが俺に何を話したか、俺があんたに何をしたのか。二人で逃げた道行きも、何が起こったかも全部」


 再びサラの唇を奪う。サラは痛いほど高ぶるものに言い知れぬめまいを感じていた。彼に魂ごと引きずられつつも、からみついていた男の腕を渾身の力で振りほどく。

 サラはガジェスから距離を取り、やっとの思いで壁際まで逃れた。


「ナイーダ」

「来ないで」


 あえぐようにそう言い捨てたものの、切なげな男の双眸にサラは耐え切れず目を閉じた。両の目じりから涙がこぼれる。


「だって……」


 ついに張り裂けるような思いが言葉となってはじけ飛ぶ。


「だってあなたは、私をタリアナに売ったんじゃないの!!」


 投げつけた言葉の衝撃に自ら感情を高ぶらせ、壁に背をつけてすすり泣いた。


「あなたは一緒に連れて行ってとせがんだ私を強引に──タリアナのところへと送った。私は決して忘れない。あなたがタリアナに言った、私を見ないようにしながら、『この娘はいくらになる』と……!」

「『路銀が欲しい。いくらでも構わないから』」


 ガジェスはむしろ淡々と、サラの魂からの訴えをその身に受けてつぶやいた。


「『もう二度と、この町には来ない』──いつだってくり返せる。俺が狂い死にしそうになっても頭から離れなかった言葉だ」


 真正面からサラを見る。


「そこまで行って、俺はやっと気がついた。どんな形でもいい、もしも死ぬのなら死ぬ前に一目あんたに会いたいと。あんたがどうなっていても構わない、どんな娼婦でも、例え気が違っていても、生きてさえいてくれればよかった。──それに気づいて、それまで生きる気になって……。やっとここまで来ることができた。外であんたの笑い声が聞こえて……あんたは全く変わらないでいて……」


 ガジェスは小さく微笑んだ。ふらりとその体が揺れる。


「ガジェス!?」


 サラの叫び声とともに、鎧がけたたましい音を立てた。ガジェスは倒れ込むように膝をつき、右腕の付け根を押さえてうめいた。


「あなた、もしかして怪我をしてるの?」


 サラに問われ、ガジェスは唇に苦笑を浮かべた。


「コンコールの村で、イーディーン様の追っ手を切った。兵士の前を横切った子供をその場で切り捨てようとしていた。皆、倒したと思ったら、後ろから……」


 傷口に視線を落とす。


「利き腕をやられた。ろくに手当てもできなかったから、多分……」


 サラは動揺に泣き濡れた娘から、有能な看護人のそれへと瞬時に顔つきを変えた。ガジェスの体にかけよると、右腕の付け根の傷をざっと見やって眉をしかめる。

 鎧をはずしててきぱきと傷の状態と範囲を見る。そして、この肌寒いフージの中で彼が汗していることに気づいた。


「やっぱり熱を持ってるわ。早く傷口を洗って、アクリノーラの葉を……」


 つぶやいて立ち上がろうとする腕を、ガジェスがつかんで引き止める。目を見開いて見返すサラにガジェスは苦しげな声で言った。


「だめだ、行かないでくれ……」


 虚を突かれ、サラは一瞬言葉を失った。黙ってガジェスの顔を見返す。


「頼む、俺から逃げるな……お願いだ」


 うわごとのように訴える悲哀に満ちた目の色に、サラは自身の体から力が抜けていくのを感じた。同時に心の奥深くへとしまい込まれた感情が、かたく包まれたからを破ってゆるゆると溶け出していくのを知る。

 身震いするほどの熱を持った逆らいがたい甘美なそれは、二度と開けないと胸に誓った恋の心の封印だった。


「──頼む。俺を置いて行くくらいなら、いっそこの場で殺してくれ」

「行かないわ」


 サラはきっぱりと言い切った。弱弱しい光をともす彼の瞳をのぞき込む。そして静かに言葉をつむいだ。


「わたしは顔忘れの町のサラ。医師のヨキナン先生の助手だわ。怪我人を置いて行くことはないし、ましてや殺すことなんてできない。……これからのことは、あなたの傷の手当てをしてから考えましょう。サラがガジェスという人と、これからともに生きていけるか」

「な……」


 声も出せず、ただ自分を見つめているだけのガジェスに、サラはふと泣き笑いのような表情を作ってつぶやいた。


「あなたって、いつも自分の気持ちを表すのが下手だったのに。いつの間にかそんなに上手になったのね」


 サラを凝視するガジェスの顔が、驚愕から歓喜へと変化する。


「ナ……、サラ!」

「さあ。傷の手当てをするわ、早く寝台に横になって」


 サラが優しくガジェスに手を貸した。震える指がサラの手に伸びる。──その時。

 人気がないはずの通りから、怒号と不穏な叫びが聞こえた。


「タリアナの声……?」


 サラがつぶやくと、ガジェスはすらりと腰の長剣を抜き払った。サラを背後にしりぞけて言う。


「奥の部屋から逃げられる方法はあるか」


 冷静な声にサラが首を振る。


「いいえ。裏から出ても庭を回らなければ。でも、庭にさえ出られれば鍵が……」


 そこまで答えて、はっと息を飲む。


「どうした?」

「鍵は、今、ヨキナン先生が……」


 サラの答えに、ガジェスはわずかに眉をしかめた。音もなくその場に立ち上がり、長い刀身を構える。だがその顔色は青白く、秀でた額には玉の汗がいくつも浮かんでいた。


「ガジェス……」

「心配するな」


 沈着そのものの声で答える。だが、今ガジェスは自身の力が、愛刀を一薙ぎすることもやっとであることを理解していた。熱にうかされ揺らぐ視界と、右腕を焼き続ける激痛。

 しかし非情にも騒ぎは真っ直ぐ、『診療所』の看板が下がるこの建物を目指していた。ひときわ高い女の悲鳴が家の庭先で響き渡る。


「タリアナ……!?」


 サラがつぶやきをもらすとともに、すさまじい音を立てながら粗末な扉が吹っ飛んだ。

 扉の向こうに広がる光景。微動だにせず剣を構えるガジェスの背後で、サラは大きく息を飲んだ。


「タリアナ!」


 大仰な鎧に身を包み、それぞれの持つ武器を構えた幾人もの兵士達。その無骨な体躯の間に、引きずられながら膝をついている見慣れた女の姿がある。


「その……声は、サラかい……?」


 後ろ手にきつく縛られながらもゆっくりと白い顔を上げ、弱弱しい微笑みを浮かべた。


「ごめんねえ……こいつらが、あんた達を追ってるらしいと知って……騒ぎの中を、こっそり抜け出して来たつもりだったけど……」


 息をつまらせ、次の瞬間、血のかたまりを口から吐き出す。思わずサラは悲鳴を上げた。


「あなた、その傷は……!」


 タリアナの胸が真紅に染まって、唇からは血の線が細く糸のようにたれている。深くうつむくとタリアナは続けた。


「……どうやら、後をつけられたみたいだよ。……全く、これだからめくらってやつは……」

「お前がコンコールの村で、アレウス殿を殺して逃げたという流れものの傭兵か」


 太く響いた兵士の声に、ガジェスはわずかに眉をしかめた。重々しい口調であるが、確実に目の前の獲物への嘲笑をはらんでいる。


「それにナイーダ王女の逃亡の手助けをしたという、兵士風の若い男もお前か?」


 それは衛兵特有の他者をさげすむ声だった。

 隊長らしき様相をした、一際背の高い兵士がゆっくりと中央に進み出る。むさ苦しいひげ面を笑いの形にゆがめて言った。


「すると後ろにいる娘は、逃亡中のナイーダ王女ということになるな」

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