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 暗く、けぶるような霧雨の中を一人の男が歩いていた。


 ひどく古びた銅鎧と、せわしなく音を立てる防具。隙のないその身ごなしから、彼があまたの戦歴を乗り越えた傭兵であることをうかがわせる。肩当てのとれかけた右腕を時おりかばうようにしながらも、確かな足取りには不調など微塵も感じさせることはない。

 霧雨(フージ)──国名(フージェン)のもととなったまといつくような水煙は、「神の恵みの水衣」と称され、渇水に苦しむ近隣の国からは憧憬の念を向けられている。だが、今はさまざまに変化するいたずらな水の精霊と化して、先を急ぐ彼の行く手を阻んでいた。


 男はふといまいましげに、濡れた前髪をかき上げた。そげた両頬と苦悩に歪んだ高潔な顔立ちがあらわになる。乱れた黒髪の間に見える野性味を帯びた容貌は、古兵を思わせる外見に対し、彼がまだ十分に若いことを示していた。

 不意に男の視線が落ちた。道に転がり、そのままの形で草むらに放置されている、白い石版で作られた道しるべへと向けられる。


『青い道 顔忘れの町』


 コケに埋もれた刻み文字からかろうじてそれだけが読み取れる。彼は厳しい表情で道の行く末を見つめると、再び足を急がせた。


     *


 フージェンの都を中心として、白い敷石で築かれた南北に伸びる大街道──通称「サイードの道」を南端のネキア領境まで進むと、隣国との間に広がる昼なお暗い森が待っている。

 永久にとまでうたわれた名君サイード二世の統治は、肉親達の裏切りによってあっけなく終わりを告げた。

 のちに緋色の王と呼ばれる王弟イーディーンの王位簒奪は、平和だったフージェンの都に幾多の被害をもたらした。しかし、いまだ行方の知れない王女ナイ―ダの捜索のため、サイードの道は衛兵によって厳しく監視されており、結果的には国境に潜伏する盗賊達の被害を防いでいた。


 各地では幾多の悪行と理不尽な悲劇がはびこった。通行のための要所であるサイードの道は例外としても、体を休める宿さえ寂れた道幅の狭い旧街道や、地元の者のみが知るいくつかの裏街道は、それら悪党の巣窟となっている。──ゆえに、あえてそれらを使用する旅人はよほど腕に自信のある者か、すねに傷を持つ逃亡者、または裏稼業の同業者達と決まっていた。


 旧街道から枝分かれした、「青い道」と呼ばれる裏街道もその多分に漏れなかった。

 名前のゆえんは、白い敷石にびっしりとついた青コケだが、「迷い込んだ善良な旅人が、ここに入ったことに気づくと皆青ざめて引き返す」とのまことしやかな噂もある。この青い道における唯一の宿場、「顔忘れの町」には、隙を見せれば追いはぎとなり得る宿屋や薄暗い娼館、金さえ積めば何でも──多種多様の薬から、生まれたばかりの赤ん坊まで──買える怪しい道具屋が軒を連ねていた。


     *


 道から宿場の中に入ると、男は迷う様子も見せず、小さいながらも宿屋の並ぶ表通りをすり抜けた。細い裏道に体をすべらせ、小暗い路地へ回り込む。薄もやの立ち込める裏道には、どこにも人のいる気配はなかった。

 男は石作りの家の前で止まった。その表情がけわしさを増す。

 重たげな木の扉を開けると、外観のわりに広い間口の酒場風の店があった。ふるびた粗末なテーブルと、いくつかの質素な丸椅子が土間にそのまま置かれている。何の飾りもないカウンターが、がらんとした店の風景をさらに寒々しいものにしていた。

 狭い入り口に背を向けて、奥のテーブルに座った女が振り返りもせず言った。


「フージの使いかい」


 けだるそうな声の響きがそぼ降る雨を思わせる。髪を大きく結い上げているため、白いうなじが暗がりに目立った。腰に巻いた薄手の下衣と、紗に似た、だが一目で安物とわかる肩掛けが、彼女が娼婦であることを静かに物語っていた。


「女一人をこの雨の中、わざわざおどかしに来たのかい? あいにくだが、ここは悪い知らせに驚くような場所じゃないんだよ。……泊まりかい?」


 女はそのままの格好で動かず、この地方の言い伝えにある──霧雨の中をわざわざ濡れて訪れた者は、不運をもたらすフージの使いであるという──不遜な客の訪れを皮肉った。

 男は女の軽口に何の感慨も示さず尋ねた。


「タリアナ。サラはどこにいる?」

「あんた……ガジェス!?」


 女──タリアナは驚愕の声を上げ、初めて入り口へ面を向けた。

 年は若いとは言えないが、少しやつれた面立ちは十分に美しいと思わせる。切れ長の瞳を落ちつかなげにしばたたかせ、タリアナは唇を震わせだ。


「何でまた……あんた、もう二度とここには来ないって言ってたじゃないか! それなのに……」

「サラはどこにいる」


 ガジェスと呼ばれた男は応じず、再び低くつぶやいた。タリアナの非難の響きに対し、声にあからさまにいらだちが混じる。

 タリアナはふいとそっぽを向いた。


「知らないよ」


 つれない返事に、それ以上ガジェスは問いかけることをしなかった。無言でタリアナに背を向ける。厳しい言葉が追い討ちをかけた。


「女を娼館に売っといて、その行く末を見届けに来たのかい? 趣味が悪いね」


 ふと、ガジェスの動きが止まった。そのわずかな気配を察し、タリアナは思わず息を飲んだ。たくましい肩が一瞬震え、表情の読めない横顔がうつむく。

 彼の男らしく引き締まった口もとから、ひび割れたような声が漏れた。


「連れもどしに来た」


 タリアナは思わずうろたえると、声の聞こえた方角に向かって立ち上がった。視線の定まらない瞳で告げる。


「連れもどしにって……ちょっと、ガジェス‼」


 一歩、二歩、進んでそばの椅子にぶつかる。──彼女は盲目だった。


「ねえ、待ってガジェス‼」

「やはり先生の家にいるんだな」


 ガジェスはそう言い捨てた後、重い扉に手をかけた。手探りで入り口へと向かう必死のタリアナの目の前で、無情な扉が音を立てて閉まる。

 鈍色の湿気た戸外では、フージが陰鬱な腕を広げて静かに傭兵を待っていた。


     *


 表通りを横にそれ、小さな町並みを南に抜けると、この町で生活をする者に希望を持たせる場所がある。

 町唯一の老医師ヨキナンは、彼と同様に古く小さな診療所を営んでいた。ひどくやせてはいるものの褐色の肌は張りがあり、天気の良い日は院の庭先で、幾人かの子供を集めて字を教えているのが常だった。


 その日、ヨキナンはいつものように診療用具を用意すると、古ぼけた、だがよくみがきこまれた木組みの窓から外を眺めた。見慣れた町並みがフージの衣に覆い隠されていることを知り、天の恵みに感謝しながらもため息をついて椅子に腰かける。

 迷信深い町の人間はフージの日には外出をしない。ヨキナンも往診を嫌がられるために、薬棚の掃除と整頓で一日を費やすことに決めていた。が、すでに三日も重ねて薬棚の整理が続き、さして広くもない部屋はほこり一つなく掃き清められている。ただ患者を待つのみの老医師は、退屈を持て余し始めていた。


「サラ。オーバイカの根はまだあるかね?」


 ヨキナンは、診療所の奥にある部屋に声をかけた。すぐに板作りの扉が開く。


「先生、昨日もそうおっしゃいましたわね。お出かけになりたいのでしょう?」


 いたずらっぽい答えとともに一人の娘が現れた。

 優美な線で描かれた顎と、紫水晶の色をした大きな瞳が印象的だ。笑いを含んだ唇はつややかなカシェの実を思わせる。豊かな黒髪をあみこんで背中に長くたらした娘は、その双眸を楽しげに細めた。


「もう三日目ですもの、仕方ありませんわね。お気をつけて行ってらっしゃいませ」


 洗いざらしの前かけで濡れた両手をぬぐった後、巻きスカートのかくしから銀色の古風な鍵を取り出す。

 娘──サラは一年ほど前、大伯父であるヨキナンを尋ね、この顔忘れの町にやって来た。町の良心と称される医師ヨキナンの仕事を手伝い、優しい言葉と思いやりに満ちた笑顔ですぐに町中の評判となった。

 サラが訪れて間もない頃、はやり病が町を蹂躙した。患者が町中にあふれ、いくつもの墓が作られた。サラは伝染の危険もかえりみず、死への恐怖におびえる病人をヨキナンとともに介護した。

 だが、増え続ける患者の数に時の執政者も町を見捨てた。誰もが絶望を感じた時、サラは病の特効薬となる薬草を手に入れるため、魔が住むという森へ向かった。町の全ての人間が彼女の命を案じる中、サラは見事薬草を手に入れ再び街へともどって来た。

 日陰でも花は咲くものだ。

 サラを知る者はそう言った。


「もしよろしければ、ヒリン草も一束つんで来ていただけるとありがたいのですが。軟膏がそろそろ……」


 ふとサラがつけ加えると、ヨキナンは白いあごひげをなで回しながらうなずいた。


「ああ、フージでさえなければ、エンガんとこの婆さんがそろそろやって来る時分だからな。……わかった。じゃあ、帰りは遅くなるかもしれないが、戸締りだけはしっかりするんだよ」


 眉をひそめて言葉を続ける。


「最近またナイーダ様の追っ手が増えて、コンコールの村では宿で無体なまねをして行ったそうだから。──まあ、こんな吹きだまりの町までそうそう来やしまいがね」


 ヨキナンは椅子から立ち上がった。サラから鍵を受け取ると、フージをよける皮のマントを壁掛けからはずして告げる。


「この鍵は本当に便利なものだが、私のように好奇心の強いものにはいけないね。皆に内緒で、貴重な薬草のある森まで一ドラムもかからず行けるのだから」


 笑顔で戸口まで見送るサラに、小さく言葉を漏らす。


「やはり、道具は持つべき主人を選ぶものだ」


 頭から皮のマントをかぶり、ヨキナンは扉を開いた。薬草畑でへだてられている全くひと気のない道は、例の霧雨におおわれている。彼女は大胆にも──フージはその気まぐれな様子から、しばしば女性に形容された──扉の入り口にまで忍び寄り、じっとこちらの様子をうかがっているようだった。


「じゃあ行って来るよ。くれぐれも戸締りには気をつけなさい」


 ヨキナンは再び念を押し、薄暗いフージの中なのにおおよそそれに似つかわない顔で、いそいそと外へ出て行った。まるで子供のような様子にサラはこらえ切れずに吹き出した。

 ヨキナンには決して聞かれないよう、サラはあわてて口をおおった。ひとしきりくすくす笑いをもらし、サラはやりかけた洗濯をするために奥の扉へと足を向けた。

 再び戸の開く音がした。


「あら先生、忘れ物ですか?」


 振り向いたサラの笑顔が凍った。

 辺りの空気に湿った土と、血と、腐敗の匂いが入り混じる。

 思い出すまでもないその顔。

 古びた鎧に身を包んだ男が、沈痛な面持ちでサラを見ていた。

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