85 都市を揺るがす大事件、その3です。
紫煙花の煙が街を襲った未曾有の大事件。教会直属の治癒師、グレイマンは心をひたすらに殺しながら患者の治療に当たっていた。
「うわあぁああああ!」
今もまた目の前で解毒に失敗した男が悲鳴をあげている。
解毒の失敗、それは遠からずの死を意味する。
せめて、哀悼の意を、助けられないことへの謝罪を伝えたいのだがグレイマンの口から出てきた言葉は
「次の患者を」
という、乾いた言葉だった。
酷薄で冷酷だが仕方がない。今、患者に感情移入している余裕などないのだ。先ほど若い治癒師が今の状況に耐え切れず倒れた。グレイマンまで倒れる訳にはいかない。
グレイマン達治癒師の解毒の魔法を必要とする人々はまだ大勢いる。
だから、まだ救える人の為にもう救えない人を切り捨てるのは仕方のないことだ。
理屈ではそうだ。理性は納得している。だが本能、心まではそうではない。一人救えぬごとに棘が刺さる。その傷が癒える間もなく次の棘が刺さる。
(神よ。我らが女神カランセリナよ。貴女に慈悲はないのですか?)
敬虔なグレイマンであったが、今この時ばかりはそう問わずにはいられなかった。
そんな時だ。
教会に茶色の髪の若い女性を先頭とした一団が入ってきた。
教会の人間の「治療なら列に並んで下さい」という言葉に「治療じゃないわ」と返しながら進むと「ここでいいかしら。ヒビキ、この長椅子邪魔だからどかしちゃって」「はいよ。フルル、ゲート開いて」「ええっ? いいのかな?」というやりとりを交わしながら同じ顔をした男たちが長椅子を持ち上げると、少年が開いた亜空間ボックスの中に長椅子を入れていく。
普通に考えて強盗なのだが、余りにも堂々としているので誰も何も言えなかった。
そして、制止されないことをいいことに、長椅子がなくなったスペースに敷物を敷き、「クーヤのよろず屋」という旗を立てている。そして亜空間ボックスから何らかの液体が入ったガラス瓶を取り出し、並べている。
そこで、我に返った一人が
「ちょっと⁉︎ 貴女達何やっているんですか⁉︎」
と、叱りつけたのだがまるで悪びれずにあしらった。
「悪いけど急いでいるの。話は後にして」
そして、
「ちょっと、そこのあんた!」
と、先ほど解毒に失敗して、泣きわめいている男を呼びつけた。
「そう。あんたよ。見たところ解毒に失敗したみたいねご愁傷様」
「〜〜〜〜っ!」
余りにも無神経な言葉を放つ女性にやり場のない絶望を抱えていた男が殴りかかったのだが仲間の男達が「まあまあ」と抑えた。一人二人は殴られたのだがまるで堪えていない。
女性の方は気にせず続ける。
「まあまあ落ち着きなさい。不幸なあんたに幸運の
プレゼントよ。これをあげるわ。紫煙花の解毒剤よ」
その言葉に一瞬、時が止まったかのような静寂が訪れた。
グレイマンも絶句した。
(紫煙花の解毒剤・・・だと?)
グレイマンの知る限りそんな物は存在しない。しないから解毒に失敗した人々は絶望するのだ。
不幸なあんたと呼ばれた男もしばらく絶句していたが我に返ったとたんに女性を罵った。
余りにも感情的すぎてはっきり聞こえないのだが、断片的に「詐欺師! 」だとか、「金なんか払うか!」 などという言葉が聞き取れた。
男には火事場泥棒ならぬ火事場詐欺師に見えているのだろう。正直なところグレイマンの目にも怪しく見える。
だが、
「うっさいわね! あげるつってんでしょうが! ただってことよ! 嫌ならいいわ。貴重な薬だもの。他に欲しがる人はいっぱいいる。いらない人にはあげないわ」
女性の言葉に男は黙った。黙るしかないだろう。どれだけ疑わしく見えても最早男には助かる唯一の可能性なのだ。
それでも、まだ躊躇っている男に薬を差し出しながらいい放った。
「ああ、まどろっこしい! 解毒剤が必要なのはあんただけじゃないのよ⁉︎ いい? あと10秒よ! 10秒以内に解毒剤を飲んで教会の治癒師のポイズンサーチを受けなさい! これ以上待たせるようだったらもうあんたに解毒剤はあげないわ!」
急かされた男は思考を停止させ女性からの得体の知れない薬を受け取ると言われるままに飲み干した。
(毒だったらどうするのだ?)
などと、グレイマンが冷静な思考を保っているのは、やはり命のかかっている当事者ではないからだろう。
そして、解毒剤を飲んだ男は再びグレイマンの所に戻ってきた。
これもよくよく考えれば順番抜かしなのだが、それに文句をつける人間は一人もいない。
男は奇跡を信じながら、グレイマンのポイズンサーチを待っている。
グレイマンも奇跡を信じながらポイズンサーチを行った。
結果・・・。
「・・・ 信じられないことに、解毒されています」
震えるような宣告に男は泣いた。
それを見てグレイマンも思わず涙がでた。切り捨てるしかなかった男が救われたのだ。
(神よ・・・貴女を疑ったことをお赦し下さい)
手を組み、神に感謝を捧げていると肩を叩かれた。
顔をあげると茶色の髪の女性がグレイマンの前に立っていた。
「どうも。よろず屋クーヤの店主クーヤよ。解毒に失敗した人達に紫煙花の解毒剤を売りたいから、あの場所をちょっと借りるわ」
グレイマンは一も二もなく頷いた。願ってもない話だ。
「ありがとう。それから、あの募金箱を貸してくれない?」
あの募金箱というのは女神の像の手前に置かれている募金箱だろう。寄付されたお金は孤児院の運営に使われている。
「・・・かまいませんが、何の為に?」
「事情が事情でしょ? 解毒剤は無料で誰にでも配るわ」
「なんと⁉︎」
この状況だ。幾らでも高値をつけられるというのになんと謙虚なことか⁉︎ グレイマンの胸中に大きな感動が次から次へと湧いてくる。
「ただ、解毒剤には結構な材料費がかかっているのも事実なのよね。だから心とお財布に余裕のある人からの寄付をお願いするつもりだけど・・・いい?」
「かまいませんとも」
そう答えたグレイマンは募金箱を空にして、自分のあり金をサイフごと空の募金箱に入れ彼女に渡した。