思い残すこと
「おーいユキトーアイス買ってきてー」
よく知っている女の声が聞こえる。
目を開ければよく知っている天井が見えた。この部屋、このソファで睡眠を取るのが好きだった。
「はぁ?面倒くせぇ、いってらっしゃーい」
「使えねーな童貞」
ユキトがお使い、ではなくパシリを拒否すると、彼女はユキトを罵倒する。
事実ではある、でも、図星を言われると傷付くものである。
「うるせー、そのうち卒業するから大丈夫大丈夫、多分」
「一生無理そう、可哀想」
「うっせ」
これが彼女との良くある会話、ユキトをパシリに使おうとして、それを断る。
面倒くさくも、苦ではない家族との会話。妹、次女の幸菜との会話を切り、自分のお気に入りのソファでもうひと眠りしようとした時、別の女性の声がそれを邪魔した。
「ソファで寝るなアホ。汗臭いのが付くだろアホ。さっさどけバカ」
「あ?後でリセットかけるからいいだろ。せっかくの休みじゃん、寝せてよ美幸様」
またもや罵倒が睡眠を妨げる。もうウンザリになって、身を回しソファにうずくまり、意地でも睡眠に入る。が、それを阻止すべく、その背中にゲシゲシと蹴りが何発も入る。
「寝るなら自分の部屋で寝ろアホ!」
「痛い!おい、ちょ!あいて!痛いって!、はい!!はいはい!わかりましたって!退きまオゴォ!?」
言い終わる前に妹、長女の美幸(美幸)の蹴りが横腹のクリティカルヒット、そのままソファ引きずり降ろされ、撤退を余儀なくした。
「わかったわかった、部屋行くって」
「さっさいけ、今から彼氏くんだから」
「おーおーお熱いことで」
茶化すユキトを美幸が睨みつける。いらんことを言ってしまった。リビングを撤退しようとするユキトに妹、幸菜が呼び止める。
「ねーアイスは!!」
「今度仕事帰り買ってくっから、太るぞ」
「太りません!今食べ「はい、あんたも自分の部屋行って」
しつこい妹の言葉を遮り、長女がユキト同様、次女を部屋から追い出そうとする。
「やだよ!今からドラマの再放送あるんだから!!」
「いっつも録画しでるじゃん、今日は譲りなさい!!」
「ならアイスでも寄越せ!!」
妹二人のいざこざを尻目にリビングの戸を開け溜息をつきながら部屋を出る。
ドアを閉め、自分の部屋に向かおうと廊下を歩く途中違和感を覚えた。
さっきまでの会話がとても懐かしく掛け替えのないものに感じた。そして同時に感じたのは寂しさ。
リビングの扉へ戻ろうと振り向き扉の取っ手に手をかけようとする。
「あれ?」
取っ手を掴めない。こんなに近くにあるのに扉に手が届かない。扉からは二人の声が聞こえる。小煩くて、面倒な声、でも決して苦ではない賑やかなそれが、少しづつ扉と共に離れていく。
もう”あそこ”には戻れない
そう思った瞬間、頬に涙が伝っているのに気付く。そうだ、気付いてしまった。わかってしまったのだ。
本当は気付きたくなかった。
後悔をしてしまうから、悲しくなってしまうから。帰りたくなるから。
・・・そうか・・・あれが俺の幸せだったのか ・・・