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出会いとは斯様に奇異なるものである乎

暗くよどんだ9月のある夜の事である。雨はシトシトと降り続け、石畳に細かく打ち付ける水滴が辺りに一面のもやを作り出しているようであった。


吾輩はでこぼこの狭苦しい路地をただ一人、ガウンがすっかり濡れてしまったのを気にしながら小走りに通り抜けようとしていた。街灯が薄暗く辺りを照らしているとはいえ、恐らく数百年は存在しているであろうこの小道に長年かけて作られてきた細かい穴や隆起した石畳の一部分など、目を凝らして注意していないとすぐに吾輩を地に打ち付けるに違いない。


「ふむ、いつもの事とはいえ、この陰鬱なる雨模様はいかがか」


吾輩は独り悪態をつく。


その時である。確かに吾輩は見た。


一人の若い女性である。


街灯が放つ橙色に照らされているにも関わらず彼女の肌は青白く、今や時代遅れとなった腰を絞った純白のドレスは時折そよぐ薄ら寒い風を受けてチラチラと揺れている。もう長い間降りやまぬ霧雨であるというのに彼女はすました顔で路地脇に佇み、この酷い天候はまるで別世界のものだとでも言わんばかりであった。


吾輩にとってその女性は異様そのものであった。いや、このような状況で彼女に出くわしたならば誰もが同じ感情を持ったであろう。婦人はこんな夜には出歩いたりしないのである。


ここが吾等が帝国の誇る知恵と修養の町、リバーブリックなら尚更のことである。


そこまで考えて吾輩は失笑した。

吾輩はどうなのだ。毎晩決まった時間にダイニングホールへ参じ、味気のない食事を学友とともに楽しみ、その後デザートと自家製のワインを何時間もかけて臓腑へ送る。そんな模範的な学寮の夕べを過ごすことに吾輩は飽き飽きしかけておった。恐らくは彼女もきっとそうであるのかもしれない。


しかし、何かが変なのである。女性は学徒には似つかわしくないほどに時流から外れた衣装を身にまとっている。若年者である我々は常に移ろいゆく社交的流行に取り残されまいと事細かに身だしなみに気を使う。悪いことではない。これは一流の紳士となるための、時代を見極める眼力を養う修練なのである。ああ願わくば、婦女子の気概も我々のそれを見習うものであらんことを。


だがこの女性は違う。全く時代から取り残された、というよりも、どこぞのフェロウの部屋に掛かる古臭い絵画に描かれている人物をそのまま切り取りこの場に据えたような、そんな有様であった。


もしかしたら彼女は今ガブリエルマス期より学業を始める新入の学徒ではなかろうか。そんな考えが吾輩の脳裏をよぎった。


恐らくは一族に代々伝わる古いドレスを晴衣装として着せられたのであろう。この天候である。田舎から華やかなるリバーブリックに伸びる道なき道はぬかるみだらけとなっていたに違いない。到着が遅れ、日が沈み、そうして孤独に打ちひしがれうろたえているのだ。そうだ、彼女は助けを必要としている。ならば吾輩はその懇願に応じぬわけにはいかぬ。


顔を背け、女性の前を速やかに通り過ぎようとしていた吾輩は、その非礼を心中で詫びた。そして左足を止めると同時に右足を女性の方へと向き直し、ガウンがなびくのを身に感じてから素早く左足を引き寄せ直立、右手を女性に差し出してまずは紳士としての挨拶である。


それが吾輩の紳士的立ち居振る舞いのはずであった。


しかし次の瞬間、吾輩の右足は虚空に向かって伸びていたのである。何という事か、左足が雨を吸って黒光りする石畳に留まることができず、哀れ右足は拠り所を失い空を彷徨うと同時に吾輩の上半身を下方に押し付けたのである。ああ何たることだ、吾輩!! これが先輩学徒の模範たる行動であるものか! 娘よ、何故に朝早く家を出ないのだ! 何故吾輩に出会うようにしてここに佇んでいたのだ! ああ見よ、吾輩の左右の脚は。。。学寮に備わる日時計の二つの影のように明瞭に別れ、見事に天空の西と東を指し示しているではないか…ふむ、学寮か、そういえば彼女はどの学寮に属しているのだろうか……。


そこまで考えが及んだ時、吾輩は雨中に光る無数の星を見たが、その後しばらく闇にのた打ち回ることになる。


如何ほどの時が吾輩の頭上を通り過ぎていったのか。吾輩は未だ惨憺たる状況の只中にある。雨は吾輩をして道化の怪奇なる立ち居振る舞いを天に見せしめるかの如く舞台を用意し、そして吾輩は見事にその役割を演じたのだ。打ち付ける雨音はさながら爆笑の渦にのみ込まれ無心に手を叩く観客のようである。だが、吾輩は紳士なのだ。古風で可憐なうら若き乙女が佇むその眼前で、吾輩の失態たるや、七度火に焼かれてもまだ足りないほどの熱き顔の火照りを感じていた。


「な、なるほど……今宵礼拝堂で説教に聴いた、泥に転がるブタとはこのような気持ちであるか……うむ。やはり実地にて身を持って知るのは紳士の義務であるな……」


吾輩はゆっくりと腰を上げ、ガウンを優雅に払うと、ちらりと女性を見た。何たる教養!吾輩は瞬時にこの苦境を脱する妙案を得たのだ。これぞ常日頃の修身の賜物である。


「………………」


ところがどうだ。女性は吾輩に冷たい視線を投げかけ、先程来の憂いを湛えたすまし顔を崩そうとはしない。


「ふ、ふむ……」


吾輩の教養を受容するのにもそれなりの修練が必要となる。不幸なことにこの女性は今夜この街に到着したばかりなのだ。我が栄誉溢れる大学流のもてなしを受けたとて、おそらくその輝かんばかりの知恵の泉を受けきることはできまい。そうして彼女は戸惑っているのだ。吾輩の正面で。


「……さて、婦人よ。いや、お嬢さんと言った方がいいかな。これにて洗礼は終わりだ。驚くのは無理もない。だがリバーブリックに来たからには我々の文化、教養にも触れなければならぬ。あなたはその点で吾輩に出会えて幸運であった」


教え諭すつもりはない。ただし吾輩の歓迎を体験した、そのひと時がいかに栄誉な事であるかを知っておいてもらわねばならない。


「吾輩もこのような歓待を致す事はまれである。何しろ吾輩の一連の立ち居振舞いは深い教養に根差された者にしかわかりえない……」


「………………」


女性は相も変わらずただ冷たい眼差しで吾輩を見つめる。何も言おうとしないのは吾輩の思慮に感服したからか。


「……よい、この雨の中である。切り上げるとしよう。お嬢さん、早く立ち去るのだ。婦人はこのような時間に出歩くべきではない」


吾輩は泥水にまみれながらすっかり得意げになった。何しろ吾輩はこの女性の先輩なのだ。かつ紳士である。乙女には常に優しく教え諭す義務がある。


「………………」


女性は立ち尽くしたままである。さすがに吾輩も先程からの女性の態度を不思議に思った。


「お嬢さん。どうした。学寮への道を失したか」


「………………」


「どの学寮に属することになるのか。まさか知らぬわけではなかろう」


「………………」


「何、知らぬのか。ああ、何たることだ!」


これが近年の新入学徒であるか!


「来訪以前に学寮より便りが届いたであろう! なぜしっかと確認をせぬのだ!」


「………………」


ああ、吾輩は頭を抱えた。


「学寮は三十一あるのだ! 今から広大な学寮群を一件ずつ回るというか!」


「………………」


「いや、貴君は女性であるから学寮の数も絞られる……」


「………………」


「いずれにしても一大事であるぞ! 婦女専科学寮であるゴードン学寮などはこの中心街から最遠に位置するのだ!」


どうする、吾輩? このか弱き思慮浅き女性を一人で行かすわけにもいくまい。歓迎を表したからには吾輩も面倒を見る必要があるのではないか?


「……仕方あるまい。吾輩も行こう。しっかと付いて来るのだぞ」


しかしここに至り吾輩は一つの重大なる事実に気付く。吾輩、実は初めてなのである。女性を導く、いや、妙齢の女性と二人して肩を並べ歩くことが、である。学寮同階に居住する友人などは、如何にして女性を連れ出すかの研究に余念がなく、その甲斐もあり成果も上々だと夜な夜な講釈を垂れる。吾輩はそれを聞いて奴の紳士らしからぬ行いを腹立たしく思いつつも、正直なところ忸怩たる思いを抱かざるを得なかったのだ。それが今夜!


「……大丈夫である。大丈夫だから」


吾輩は何か今まで経験したことのない高揚感を抑えるために必死になっていた。


「何もしない、何もしないのだ」


……? 何だと? 何を言っている、吾輩!


「そう、最初から蛮族めいた行動起こしちゃ駄目なのさ!」


あの友人の語る言葉が、こんな時に! 聞き流していたと思っていた吾輩の深淵は奴の世迷言をしっかと受け止め、大切に熟成していたのだ!


「………………」


女性は吾輩を見ている。相変わらずだ。だが。


「……ふるふる」


「ん?」


静かに首を横に振った。しくじった! 悟られたか! いや、何を言う! 吾輩は何もよこしまな思いは持っておらぬ!


「……ふるふる」


「どうしたのだ?吾輩は怪しい者ではないぞ! ほら、すぐそこの……」


指を差そうとすると、女性は一度だけ軽くうなずいた。


「……そ、そうか。吾輩を疑っているわけではないのだな。で、では行こうか……」


吾輩が彼女の手を取ろうとすると。


「さっ」


「ん、うお」


女性が一歩後ろに下がる。どうしたというのだ! 吾輩の誠意がわからぬというか!


「な、何をしている! 見よ、雨はこれからも強く酷くなる気配だ! 早く行かねば大変なことになるぞ!」


う、うむ、しかし、吾輩の学寮はすぐそばであるから、いざという時には……ふむ。いや待て、正門を抜けるとしかし寮父のロッジが眼前に立ちはだかるのである。畜生、奴はどうやってあの関門を切り抜けているのか! 吾輩は友人の奇特なる講義を真摯に拝領しなかった吾が身の愚かさを恥じた。


「……くすっ」


「ぬ?」


先程まで蝋で固められたような表情をしていた女性がやわら吾輩に微笑みかけたのである!


「あ、へ?」


「……くすっ」


ああ!


「………………」


吾輩は見とれたのである。紳士だからである!


「……くすっ」


「あ、ちょっと……」


女性は微笑みを湛えたまま少しずつ後ろに下がり始めた。彼女の背後には古びた二階建ての小さな家が連なっており、このまま下がればすぐに壁に背中を這わすことになろう。


「そ、そちらには何もないぞ! 吾輩の学寮ならば、ほら、そこ……」


言いかけたその時。


どがーん!


「ひゃっ!」


突如空が閃き渡ったかと思えば、耳をつんざく大音響が鳴り渡り、吾輩は飛び上がった。


「……ううっ、今のは近くに落ちたのではないか……」


吾輩は空を見上げる。雨はさらに激しさを増していくようであった。


「お、お嬢さん。恐れることはない。吾輩が付いておれば、何も……」


……壁?


吾輩は壁を見ている。


「ん?」


……いや、待て。そこには乙女がいた。間違いなくいたであろう!


「お、おい! どこへ行ったのだ! なぜ隠れる!」


吾輩は思わず叫び、辺りを探し回った。だが女性の姿は見当たらない。


「……腑に落ちぬ……」


だが雨は激しくなるばかりである。吾輩は全身濡れているのだ。ガウンすらも汚泥まみれである。全身が凍えるように寒い。


「……何たることだ」


吾輩は今経験した事象が何であったのかを全く理解できず、激しく動揺しながら道を歩き出した。


「夢……であったのか?」


もしくは泥酔のもたらした怪現象であったのかも知れぬ。友人の与太話が元凶となり吾輩が心中で生み出した妄想に自ら惑わされたのか……。何たる失態!


「何かとても腹が立つぞ」


吾輩は後味の悪さを感じながら、程なく、吾が学寮の正門へと帰り着いた。

吾輩の寄宿する、サンディ・サンベリー学寮へ。

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